2013年8月30日金曜日

「ヤベツの祈り」に見られるハウツー式祝福取得根性

 もう一昔前のことだが、「ヤベツの祈り」というのがキリスト教書店から出版された。
 聖霊派の諸教会ではかなり流行ったのではないかと思う。もしかしたら他教派でもそうだったかもしれない。私の教会も例外ではなかった。

 その本の要点は、第一歴代誌4章10節にのみ登場する、ヤベツという人物の祈りにある。不幸な身の上だったらしい彼は神に祝福を求め、聞き入れられた。だから彼のように祈れば、私たちも祝福される、という訳だ。

 それはそれで間違いではないと思うけれど、何だか違和感があったのは覚えている。本は読んだけれど、実践しようとは思わなかった。当時「ヤベツの祈り」はあちこちで耳にしたけれど、私は気に留めることもなく、いつの間にかすっかり忘れていた。

 今にして思うと、「ハウツー本みたいだな」というのが私の違和感の正体だったような気がする。釣りのハウツー本は「どうやったら釣れるようになるか」を解説しているはずだが、それと同じように「ヤベツの祈り」というのは、「どうやったら神の祝福を受けられるか」を解説しているように思える。

 もちろん、神様の祝福を受ける条件・受けられない条件というのは聖書に書かれている。「神を認めるなら何をしても栄える」とか「悪を行う者は滅びる」とか、探せばキリがない。そして祝福を受けられない条件について言えば、それらは絶対条件だと判断できる。しかし、祝福を受ける条件というのは、絶対条件ではないような気がする。少なくとも、「それをすれば必ず、願ったことがかなえられる」という絶対的な約束ではないのではないか。

 そう考えると、「ヤベツの祈り」という書籍は、やはり神様を相手にした(あるいは利用した)ハウツー本ではないかと思えてしまう。その「神様」というのは人格のある生きた存在でなく、祝福を吐き出す自動販売機みたいな存在だ。

「神様は今もリアルに生きている」というのがキリスト教の重要な教理のはずだが、その書籍によると、そうではないということになる。

 また、その本が単なる流行で終わったしまったという点も見過ごせない。新しく開かれた真理などでなく、皆でのっかっただけのブームなのではないだろうか。




2013年8月29日木曜日

「もうダメだ」と思った時から何かが始まる

 人生には「失敗」が付きものだと思う。
 最善を尽くしても失敗することはあるし、良かれと思っていることがそもそも間違っているということもある。時には良くないとわかっていても、そうしてしまうこともある。
 私も期せずして失敗したことが沢山ある。その度に激しく落ち込んだ。

 落ち込む期間というのは人それぞれだろうが、私のそれはとても長かったと思う。何週間か続いたこともある。失敗した自分も落ち込んでいる自分も、そこから抜け出せない自分も嫌いで、そういう悪いスパイラルにどんどんはまり込んでいくような感覚だった。他者から見たらどうでもいいような種類の失敗なのだろうが、私にとって一世一代の大問題であったのは言うまでもない。

 そういう「失敗と落ち込み」がセットになって、ある程度の周期をもってやって来る。おそらく誰もがそうではないだろうか。そしてそれが人生の生きづらいところだと思う。

 しかしもう若いとは言えない世代になって、私の落ち込む期間というのは、かなり短くなっている。
 今の段階でわかるのは、失敗と落ち込みは人間にとって必要なものだ、ということだ。
 失敗というのは「学習」みたいなもので、落ち込みというのは「復習」みたいなものだと思う。それ自体は決して好ましくないものだけれど、それを通すことではじめて、見えないものが見えるようになる。ある人はそれを「成長」と言うかもしれない。

 気づかなかったものに気づき、わからなかったものがわかるようになるとしたら、それは「失敗」とは呼べないだろう。
 もちろん、人に迷惑をかけたなら謝らなければならないと思うけれど、その痛みを通ることで人間が人間らしくなるのだとしたら、それは貴重な体験だろうと思う。

 落ち込むことが非常な負担となる人もいると思う。若ければ特にそうかもしれない。けれどそれで人生が終わる訳ではなく、かえって人として重要な局面にいるのだと思ってくれたらいいのではないかと思う。

 私もよく、失敗した時は人生が終わったくらい落ち込んだものだ。けれど、そんなふうに「もうダメだ」と思った時から、何かが始まるのだと思う。

2013年8月28日水曜日

人にも作れる「神の臨在」について

 私の生活圏内に、何やら騒がしい店がオープンした。どうやら会員制らしいが、ガラス張りの店内を通りすがりにチラ見しても、何を売っているのかよくわからない。正直言うと店なのかどうかもわからない。時折セミナーみたいなものを開いていて、大勢が遅くまでワイワイやっている。

 ちょっと調べてみたが、やはり実態はよくわからない。わかるのは何かの啓発活動をしているらしいということだけだ。けれど宗教的なものではない。少なくともキリスト教会ではない。

 一度だけ、セミナーが終わって大勢の人が出てくるところに遭遇したことがある。皆笑顔で、和気あいあいと話していた。幸せそうで、どの顔にも「自信」みたいなものが見て取れた。周囲の一般の人々とは、明らかに違う雰囲気だ。

 それを見て、私は実は懐かしさを覚えていた。私のかつての教会と、とてもよく似た雰囲気だったからだ。その店に十字架がない以外、私の教会と全く同じと言ってもいいと思った。

 私は教会での笑顔や、楽しい会話や、満ち溢れる自信(自信という言葉では表しきれない気もするが)は、「神の臨在」とか「聖霊の満たし」の結果だと思っていた。
 けれど、それと全く区別のつかない雰囲気が教会でない場所にもあるとするなら、教会のそれも人為的に作られたものでないかどうか、疑ってみなければならないのではないだろうか。

 そうやって疑うことは不信仰だと言われるかもしれないが、何でもかんでも神様からのものと決めつけてかかるより、間違いがないように思う。たとえ牧師がそう言ったとしても、ほとんどの信徒が支持したとしても、何の吟味もなしに信じるのは、神様に喜ばれないことではないだろうかと思う。




2013年8月27日火曜日

教会は「カルト化」してしまうのか、あるいは初めからそうだったのか

「カルト化教会」というのは、文字通り「教会がカルト化してしまう」ということだと思う。

 これまで「カルト」というと、私は怪しげな新興宗教をイメージしていた。けれど、今では同様の怪しさ(というか破壊性)が、キリスト教会にも宿るということだろう。
 関わる者を結果的に傷つけ、その人生を破壊していくとするなら、それはキリストの愛を語るニセモノと言わざるを得ない。そのうえ「キリスト教会」を名乗る分、罪は大きいのではないだろうか。

 このカルト化教会というのは、「普通だった教会がカルトと化し、以前とは似ても似つかないモノになってしまった」みたいに認識されていると思う。つまり、不幸にも悪い方に転んでしまった、何か間違いが起こってしまった、ということである。

 しかし、実際にそれを経験した私としては、それは間違いとか不運とかではなく、なるべくしてなったようにしか思えない。聖書の毒麦の例みたいなもので、成長してその本性がハッキリ現れた、と表現した方がしっくりくる。

 もちろん、初めからそれがわかっていた訳ではない(わかっていれば行かなかっただろう)。初めはその毒が小さく、かつ自分の知識も経験も今よりもっと不足していたから、見抜けなかったのだと思う。

 今にして思うと、その「小さな毒」というのを私はわずかな違和感として感じていた。しかし自分が不信仰なせいだとか、未熟なせいだとか、そういうふうに思っていた(そう思わせられていたのかもしれない)。

 その小さな毒(違和感)をいったん見過ごしてしまうと、その後それが徐々に大きくなっていっても、もう毒として認識することはできないだろう。鍋に入れられたカエルが、沸騰するまでそれに気づかないのと同じようなものだ。

 ハタから見るとおかしなことも、当事者にはそうではない、ということがある。

 教会が解散に至るまでの数年間、その「毒麦」は非常に大きなものに育っていたと思う。

 例えば「霊的戦い」が盛んになっていて、私たちは「日本を解放するため」に各地に祈りに行っていた。都内を巡ったこともあった。牧師によると、どうやら東京は、江戸時代の某将軍が張った「結界」だらけで、それが縛りとなって主からの祝福がとどめられてしまっているらしい。それを解放するのが私たちの役目だと、牧師が例の「劇場型メッセージ」で語り、私たちはバカ正直に解放を宣言して祈っていた。

 今なら、「ここ教会だよね、陰陽師の集いじゃないよね」と突っ込めるが、当時は「私たちこそ神のしもべ、日本の解放者。これは他の人々にはまだ理解できない真理だ」と信じていたからタチが悪い。

 他にも、「事業がうまくいかないのは某秘密結社が邪魔しているからだ」とか「何年何月に大地震が起こる」とか、もはや聖書的でないどころか、正気とも思えないような事柄が真剣に信じられるようになっていた

 この状態の恐ろしい点は二つある。一つは、キリスト教信仰であってもここまで暴走してしまうという点。もう一つは、それを暴走などとは微塵も考えないという点だ。

 という訳で、「カルト化教会」というのは、普通の教会がダークサイドに堕ちてしまったというより、初めからそうだったものが顕在化しただけなのだと思う。

 そしてそれが顕在化する前に見抜けたとしたら、クリスチャンとして正しい判断力を持っている証拠であると思うし、私たちはそれを持たなければならないのだと思う。

2013年8月26日月曜日

「劇場型信仰」の二次被害と真の「いのち」について考えてみた

 前回「劇場型信仰」の問題点について書いたが、今回は主にその二次被害について書きたい。

 ちなみに「劇場型信仰」とは、人為的(あるいは作為的)な感動体験を霊的体験と混同し、それを「神の臨在に満ちた礼拝」とか、「いのちに溢れた教会」とかと考える信仰の在り方を指す、私の勝手な造語だ。

 それが単に聖霊派のスタイルを踏襲したものなのか、その教会の牧師の必死な探求(?)の結果なのか、あるいは根本的な悪意なのか、出処はそれぞれだと思う。

 けれどそういう教会で育った信徒とか、他の教会を知らない信徒とかからすると、礼拝とはいつも感動に満ちたドラマチックなものであり、教会とはそういう熱いところなのだ。
 だから「どれだけ感動したか」「どれだけ涙を流したか」「どれだけ喜べたか」が、礼拝の良し悪しとなってしまう。
大きな集会の後、信徒どうしで「今日はすっごい恵まれたよ」等と話しているのをよく見るが、その心理には、多分にこの判断基準の影響があるのではないかと私は思っている。

 そういう「感動」を基準にするクリスチャンからすると、(こう書くのは大変失礼だが)伝統的な教会の礼拝というのは、「信じられないくらい退屈な礼拝」ということになる。

 常識的な人ならそこまで露骨な表現はしないだろうが、中にはそうでない人もいる。彼らは「退屈だ」を通り越して、「あの教会には神様の臨在がない」とか「いのちがない」とか「真理が開かれていない」とかと言い出してしまう(実際にそういう表現をする牧師を私は知っている)。

 しかし、信徒がそう考えるのは、やむを得ないと思う。何故なら彼らには、感動して涙を流すことや、腹を抱えて笑うことや、テンポの良いリズムにのって歌ったりメロディアスな曲を熱唱したりすることが「神の臨在」であり、「いのちに溢れた礼拝」だからだ。そう教えられてきたのだし、そう生きてきたのだ。
 これは劇場型信仰が招いた二次被害であろうと私は思う。

 もちろん、だからといって伝統的なスタイルにダメだしする権利は誰にもないし、知らなかったでは済まされない。けれどより責任が重いのは、その被害の発端である牧師やリーダーたちだろう。「教師は格別厳しい裁きを受ける」と聖書に書いてある通りだ。

 では、クリスチャンは伝統的なスタイルの礼拝をすべきだろうか。
 これは何とも言えない。けれど、聖霊派の活発な教会に「いのち」を求めてやってくる伝統的教会の牧師が少なくないのを見ると、私たちはこの「いのち」について、もっと深く考えるべきだろうと思う。

2013年8月25日日曜日

「劇場型信仰」の落とし穴

前回「劇場型信仰」について書いたが、この信仰の在り方は大きな問題を孕んでいるだろうと思う。

教会がカルト化してしまう原因の一つは「体験主義」にあると私は常々考えている。賛美を歌う中で不思議な力を感じたとか、牧師に按手されて安心感を覚えたとか、そういう感情的体験の連続を「霊的体験」と思い込み、それによって信仰が成長した、霊的になった、と思い込んでしまう。そこにある神経学的・心理学的作用を考慮することがない。結果、信徒たちは更なる献身・献金に走り、牧師に完全服従する「牧師崇拝」に陥ってしまう。この構図は、カルト化教会に共通していると言える。

この体験主義には、「劇場型信仰」(と私が勝手に命名している)も深く関わっていると思う。つまり礼拝や教会行事で「感動」することで、「神様を体験した」と思い込んでしまうということだ。

かつての教会の礼拝の説教を思い出してみても、いちいち感動させるような演出が多かった。例えば、「私が落ち込んでもうダメだと思った時、神様がこれこれの方法で私を励まして下さった」とか「ギリギリの状況で神様が助けて下さった」とか、牧師が涙ながらに熱く語る。よくよく考えてみると聖書が全く引用されない説教なのだけれど、涙に濡れる会衆(私も含めて)に、そんなことに気づく余裕があっただろうか。

が、それは説教だけでは終わらない。礼拝の最後に「招き」の時というのがあって、説教に応答したいという信徒たちが、講壇の前に集まる。そこで順番に牧師の按手を受ける。そこでは牧師が信徒に「個人預言」することもあって、例えば「私はあなたのことを理解している、あなたの苦しみを全て理解している、と神様が語っておられる」とかと優しく語りかけられる。真面目な人は、それだけでも涙腺崩壊である。

とにかくいろいろな形で感動させられ、「だから神様に従うのが一番なのだ。そして神様は今、これこれを語っておられる!」と牧師に迫られて、皆最後は涙ながらに祈ったり叫んだり。

そんなふうな感動のオンパレードの礼拝が、毎週繰り広げられる。
ある人はそれを「いのちに溢れた教会」とか「生きた神様に出会える教会」とか表現するかもしれないが、私には、単に感動させて感情を盛り上げているだけのような気がしてならない。

純粋な信徒たちは、そういう形であっても「素晴らしい教会で素晴らしい礼拝をしている」と信じるだろう。確かに、そういう体験や感動も必要だと思う。「理解されている」という安心感も、人間として必要だと思う。

けれど、そこに聖書理解の蓄積と、それに基づく健全な視点や判断経験の蓄積がなく、ただ日々感動しているだけだとしたら、その教会生活や信仰生活には、一体どんな未来が待っているだろうか。

いいえ、私たちの教会は聖書の学びも弟子訓練もやっているし、みんな確実に成長してきている、と主張する人はいるだろう。それはそれで良いことだと思う。けれど、いつまでたっても牧師の判断を仰がねば判断できない、確信できない、決められないとしたら、その聖書教育には大切な何かが欠けているということになる。

2013年8月24日土曜日

神様の為にした「決心」が続かない2つの理由

 大きな集会に参加したクリスチャンたちが、そこで大いに感動し、いろいろ決心するということがある。

「迷っていたけど、洗礼を受けることにしました」
「これこれの献金を捧げることにしました」
「神様にこの人生を捧げます」
 決心することは、人によってそれぞれだ。

 そうやって信仰に目覚める(?)のは神様の為だろうから、良いことだと思う。しかしよく見るのは、そういう大集会で大決心をした割に、直後から普通の生活に戻っているという姿だ。いや、普通ならまだいいかもしれない。下手すると、いつものようにクリスチャンとしてよろしくない会話や行為を楽しんでいたりする。
 そういうのを見てしまうと、あの涙ながらの祈りや告白は一体何だったのだろうかと、多くの人が思うだろう。そして案外本人自身も、同じように感じていたりする。

 私もそうだけれど、神様に対して決心したことが長続きしない、ということは誰しもよくある。そして意思の弱い自分自身を責めることになる。
 けれど、それは仕方のないことだと私は思う。

 プロテスタントの超教派的な集会に限って言えば、その原因は二つあると私は考えている。

 そういう集会は内外の有名牧師や宣教師を招いて、けっこう大々的に開かれる。そこで大勢で賛美の歌を歌ったり、長い時間祈ったり、ゲストの感動的な話を聞いたり、ゲストに個人的に祈られたりするのだ。その中で多くの人が、感情的な高揚感を体験する(それを「霊的な高揚感」だと言い張る人もいるだろう)。
 問題の一つはここにあって、そういう状態の時に、「神様の為に生きるか、そうでない人生を生きるか」という二者択一を迫られる、ということだ。まるで人生にはそのどちらかしかなくて、片方を選べば片方は選べない、と言われているようである。あらゆる多様性が排除され、「神かこの世か」という単純な二元論に落とし込まれるのだ。

 感情的高揚感(霊的高揚感でもいいが)にある人々はその二者択一しか見えなくなって、どちらか一方を選ぶことになる。そしてそのどちらを選ぶかは明白だ。多くの人が、冒頭のような決心をすることになる。

 もう一つの原因は、その二者択一に「犠牲的精神」という美徳が追加されることだ。
 聖書にある殉教者の例とか、ここ数世紀の殉教者たちの話とかが持ち出されて、「神様の為に命を投げ出すことの素晴らしさ」みたいなものが提示される。高揚している人たちがそれを聞いたらどうなるか、容易に想像がつくだろう。「私もこの命を神様に捧げます」と泣き出す人が複数現れて、その感情が会衆中に伝搬していく。普段それほど熱心でない人も、そういう状況だと「よし、自分も!」とかなる。
 それにこの「犠牲的精神」というのは、とかく日本人には好まれるものだ。そういう精神的土壌の影響も少なくないと思う。

 しかし集会が終わり、いい気分で(彼らは「大いに恵まれた」とか言うだろう)帰っていく。疲れてもいるだろう。ふと冷静になってみると、なんであんなに盛り上がったんだろうと、不思議になるかもしれない。

 もちろんそういう集会で本気で決心して、本気で実行する人もいるかもしれないが。

 信仰は感情でもなく理屈でもない、と私の牧師はよく言っていて、私もそれには同意している。けれど、どうもそういう信仰的決心の場面になると、感情的に高揚させておいて神様の方を選ばせる、というのが私の牧師の手法だったように思える。そしてそれは、私の牧師だけではなさそうだ。
(私はこれを「劇場型信仰」と勝手に呼んでいる。)

 神様の為にこれこれの決心をしたけれど続かない、という人は、その決心をどういうふうにしたか、思い出してみるといいかもしれない。
「とても恵まれた集会」でした「霊的な高揚感」による決心ならば、きっと続くはずだろうし、成し遂げるはずだろうから。

2013年8月23日金曜日

礼拝説教で「語られたことを日々実践」する方法とその意味について考えてみた

 多くの教会は日曜に礼拝をする。そこでは牧師が説教をする。その説教のテーマはいろいろあるが、牧師が決めたり役員会みたいなものが決めたりする。

 その説教を聞くというのも、礼拝行為の一つであろうと私は思っている。そのテーマがたとえ人為的に決められたとしても、究極的には神様からのメッセージとして受け取る。それが信仰というものだろう。

 だから信徒は、毎週神様の言葉を聞けるということになる。それはいわゆる「恵み」だろう。悩んでいる人には、それが何らかの指針にもなり得る。そうでなくても「語られたことを日々実践」するためのキッカケにはなる。

 しかしその「恵み」が十分に機能しているかと言うと、いまいち怪しいところがある。
 知り合いの牧師の言を借りるなら、

誰も先週の説教内容なんて覚えていない

 ということになる。
 もちろん全員が全員そうという訳ではないだろう。けれど、そういうことは残念ながら多いだろうと、私も経験的に感じている。

 週報には説教内容をメモする欄があったりして、それに書き込む人も多いと思う。けれど、それをどれだけの人がマメに見直すだろうか。私は年一回くらい、整理がてらに見直す程度だ。それでも見直さないよりはマシだろうが、「語られたことを日々実践」するという観点からすると、まったくダメだと思う。

 それに、説教中にメモなど取らないという人もいるし、優雅に船を漕ぐという人もいる。

 おそらく多くの人が正直なところ、語られることをそれほど期待していないのだと思う。あるいは聞きはするが、心に留めようとは思っていない。あるいは実践しようとは思っていない。それを真剣に実践しようとするのは、本当に悩み苦しんでいる人たちに多い。

(こう書くと熱心なクリスチャンの方々に怒られそうだから、あくまで私自身のダメさを暴露する話として読んでいただきたい。)

 それが本末転倒であることは間違いないけれど、クリスチャンとして真剣に生きようとするのでなければ、それほど問題ではないと私は思う。働くことと、自分の仕事に対して真剣なこととは違う。それと似たようなものではないだろうか。本末転倒なことなど世の中には沢山あるのだから、教会の中にあってもべつに不思議ではない。

 その上であえて書くけれど、説教内容を日々実践しようとするなら、その全部でなく、どれか一つをつまむ程度が良いと思う。

 説教を30分も40分も聞いていれば、誰でもどれか一つは心に響く部分があるだろう。それが本筋から逸れた部分だとしても、心に響いたなら「語られた」と思っていい気がする。あとはその一点を心に残しておけばいいと思う。覚えてさえいれば、それを実践するチャンスもある。

 たとえそのチャンスがなかったとしても、覚えていただけでも十分だと思う。私のように覚えてさえいない人の方が、圧倒的に多いのだから。

 ただし、そうやって「語られたことを日々実践」した結果どうなるかは、また別の話だろう。それはクリスチャンとして最終的にどうなりたいかという、案外究極的な話につながっていくと思う。

2013年8月22日木曜日

クリスチャンは何が「特別」なのか

 クリスチャンという存在は良くも悪くも「特別」だろうと思う。
 前回の記事で言うなら、一般人にとってクリスチャンとは「心の弱い人たち」なのかもしれない。

 けれどクリスチャン側にはおそらく、そういう否定的な認識はない。むしろ良い意味での「特別」感を持っている。

 例えば私のかつての牧師は、クリスチャンを「この世を超越したハイレベルな存在」と言っていた。金持ちや権力者を妙に意識していたから、対抗意識みたいなものがあったのだと思う。「私たちクリスチャンこそ、この世に影響を与える存在だ」と強調していた(それが各種事業を展開させる原動力であっただろう)。

 それに近い心理構造だとは思うが、クリスチャンを「繁栄の存在」と信じる教会もある。クリスチャンは何がなんでも繁栄していなければならない、繁栄しないのは罪等の問題があるからだ、いうのがその言い分だ。彼らにとって、労せずして富を得ることは「強い信仰」とか「成熟した信仰」ということになるだろう。

 あるいは、クリスチャンを「罪のない清らかな存在」と信じる教会もある。それは基本的に間違っていないけれど、「私は罪を犯したことがない」とまで牧師が言い張るのを聞いては、いささか心配にもなる。彼らにとって「互いに罪を言い表す」というのは不可能ではないだろうか。と言うより、そもそもそういう概念がないかもしれない。

 それに関連して、クリスチャンは「何でも許されている存在」と信じる教会(というかクリスチャン)があるかもしれない。それも基本的には間違っていないと思うけれど、人に暴言を吐いて謝らないとか、間違いを認めないとか、約束事を平気で破るとか、そういう悲しい事例を見ていると、「許し」に関して聖書を読み直すべきではないかと思ってしまう。

 私は、クリスチャンは「より高次な倫理観を備えなければならない存在」だと思う。マタイ5章から7章はクリスチャンには有名だろうが、例えば「兄弟に腹を立てただけで裁かれる」と書いてある。この一事を達成することに比べたら、繁栄する方がまだ容易な気がする。

「繁栄」とか「罪がない」とか「許されている」とかいうのも、クリスチャンとしての「特権」だろう。それを享受することも聖書的だと思う(繁栄というのはちょっと疑問だが)。
 けれど、それと同時かそれ以前に必要なのは、そういうクリスチャンとして持つべき倫理観を得ようと努めることだと思う。

 クリスチャンの「特別」さとは楽しいことや嬉しいことばかりではない。むしろ大変なことの方が多いのではないかと思う。
 もちろん、真面目にクリスチャンをやろうとするならの話だが。

2013年8月21日水曜日

日本にキリスト教が普及しないのは、そもそも宗教観が存在しないからではな い か

 自分がクリスチャンだと言うと、「それって心の弱い人がなるものでしょ」と返されることがある。
 弱い人、困っている人が宗教に頼るのであって、立派に生きられる人(?)はそんなの必要ない、というような意味だと思う。

 熱心なクリスチャンはそれをムキになって否定するかもしれない。けれど、私は一理あると思っている。何故なら私も学生時代に悩み疲れた末にクリスチャンになったのだし、知っている多くのクリスチャンも同じような経験をして入信しているからだ。もちろんそうでない人もいるだろうが、圧倒的に多いのは私のようなタイプではないかと思う。

 そもそも宗教には、そういう要素があるだろう。キリスト教で言えば「救済」というのは大きなテーマだし、イエス・キリストが手を差し伸べたのは当時の悩める人、卑しい人たちばかりだった。だから「弱い人が頼るものでしょ」というのはその通りで、「それがキリスト教なんですが」と答えるしかない。

 これはまた、国によっても違うだろう。たとえば欧米のキリスト教国なら生まれながらのクリスチャンが多いし、そうでない人にも教会とか聖書とかが身近な存在となっている。だから必ずしも「弱い人=宗教に頼る」という構図は、成り立たないかもしれない。

 一方で日本は、この「弱い人=宗教に頼る」という構図(というか先入観)は強いと思う。神社仏閣は多いけれど、果たして「宗教観」はあるだろうか。教育は無神論(進化論)だし、政治は政教分離だ。宗教について学ぶ機会は、普通ならない。そんな日本の国内や日本人の心の中に、「宗教」なるものが存在するスペースは、あまりないのではないだろうか。

 むしろ、宗教はあまり必要とされないだろう。下手するとスポーツサークルとかカルチャー教室とか、そういう趣味のコミュニティー程度にしか認識されないかもしれない。そん中で宗教に熱心だというと、「よっぽどの問題を抱えているんですね」等と言われかねない。

 これは、日本にキリスト教を広めようとするなら不利に働く現象だろう。そもそも必要とされないものを売って歩くセールスマンが直面するのと、同じ種類の難しさではないだろうか。
 そう思うと、日本のクリスチャン人口が1%程度というのも、決して絶望するような数字ではない気がする。

 日本で福音伝道して一旗揚げようと情熱を燃やしている方がいるなら、是非そのことをチラッと考えていただければと思う。
 何の役にも立ちはしないだろうが。

2013年8月20日火曜日

社会貢献にもならず、伝道にもならない教会事業

 私の母教会は、とにかく活動が多かった。その活発さでは多少知られていたのではないかと思う。
 毎週(というか毎日)の礼拝はもちろんのこと、いろいろな教室を開設したりライブをやったり、飲食店をしたり福祉事業をしたりと、毎日めまぐるしかった。東日本大震災の時などは数日後に現地入りして、支援活動を始めたりもした。

 そういう「社会貢献」は「教会の使命」だ、と牧師は言っていた。
 聖書的根拠は「地の塩、世の光」あたりで、私たち信徒もそういうものかと納得し、慣れない仕事に体当たりで挑戦していた。

 これだけ聞くと「いやいや、福音伝道が第一の使命でしょ」と突っ込まれそうだが、そのへんは牧師もわかっていて、「事業を通して福音を伝えていくんだ」というようなことを言っていた。人間の価値は言葉でなく行動だ、的なカッコいい格言も交えていたと記憶している。

 そういう訳でいろいろな事業を次々と展開していくのだが、いかんせん、どれも素人が片手間でやっているレベルを抜け出せなかったのではないかと、私は思っている。(私も含めて)皆一生懸命だったのは確かだけれど、労務管理などなかったし、給与体制も会計処理も曖昧で、およそ継続可能な事業体制ではなかったからだ。

 そういう意味での「いい加減な事業」をいくつ始めたところで、「知の塩、世の光」だと豪語することはできないのではないだろうか。全然模範になっていないどころか、むしろ一般的レベルにさえ達していないのだから。

 確かにそんな事業を通してでも、キリスト教に入信する若者が何人かいた。
「彼らが救われただけでも、この事業をする価値はあった」と牧師は誇らしげに言うかもしれない。けれどその事業が立ち行かなくなるとか、不正会計が発覚するとかしたら、結局もっと多くの信徒を躓かせることになるだろうし、それ以上に信者が増えることもないだろう。
 それに、わずか数人を入信させるために始めた事業なのだとしたら、そのスタートアップにかかった費用や人材には決して見合わない効果だと、言わざるを得ない(それなら初めから伝道だけに注力すれば良かったのだ)。

 加えて、その手法には詐欺的要素がある。たとえば震災後、被災された方はどんな団体からでも支援してもらえたら助かるだろう。けれど継続的に支援してもらっているうちに、聖書の話だの集会への招待だのが始まったとしたら、「やっぱりそれが狙いだったのか」と思うかもしれない。それまでの全ての支援が「人道目的」でなく「伝道目的」だったと気づき、騙されたと感じるかもしれない。その人は金輪際、教会には足を踏み入れないだろう。

 教会が「社会貢献」をするのは確かに使命だろうが、少なくとも私の母教会のそれは、何かが間違っていたような気がしてならない。皆一生懸命だったけれど、結局社会貢献にもならず、伝道にもならない事業で終わってしまったからだ。

 しかも皆まじめに、仕事とかお金とか家族との時間とか青春とかを捧げたのに、結局何もならなかった。これは、悲劇と言うほかないのではないだろうか。

 社会貢献を標榜する教会は今も多く、いろいろな活動を展開しているけれど、どうか私の教会のような目に遭わないでほしいと切に願っている。そして私の教会ができなかった、社会貢献にもなり伝道にもなる立派な事業というものを成し遂げ、日本でキリスト教が見直されてくれればと願うばかりである。

2013年8月19日月曜日

キリスト教会のために祈るムスリム

 エジプトのクーデター政権とそれに反対するデモ隊との衝突の様子が、日本でも報道されている。死傷者数は増える一方である。
 ネットを見ると報道姿勢に問題ありとのことだが、一つのツィートが印象に残った。


 それによると、キリスト教会が守られるためにムスリムたちが祈っているとのことだ。暫定政権を支持するキリスト教会がイスラム勢力の一派(原理主義らしい)から襲撃を受けていて、それを是認できない一般のムスリムたちがキリスト教会を囲い、祈っている、ということらしい。

 つまり、イスラム教徒がキリスト教徒を守ろうとしてる、ということだろう。これは絶対ガセだと私は思った。何故なら私が聖霊派教会で熱心だった頃、ムスリムと言えば「敵の中の敵」みたいなものだったからだ(今にして思うと、その根拠はどこにもない)。もしムスリムたちが残らず滅びたとしたら、当時の私たちは諸手を挙げて「ハレルヤ」と叫んだことだろう。

 だからクリスチャンにとって、ムスリムのために祈るなど思いつきもしないのではないか。少なくとも私の教会ではそうだった。
 しかし、その逆は存在するらしい。

 確かに、そのツィートのソースも検証されるべきかもしれない。けれどそのツィートに対する好意的なコメントの数々を見ていると、それが事実かどうかより、そう願っている人々が存在するという事実の方が重要ではないかと思うに至った。

 少し前になるが、トム・クルーズ主演のSF映画「オブリビオン」を劇場鑑賞した(ネタバレ注意)。
 トム・クルーズ演じるジャックは、地球上のエイリアンの残党を退治する監視人みたいな存在なのだが、実は彼の方が監視されていて、敵と思っていた存在が味方だった、というのがタネだ。

 これは映画だけの話でなく、実際にもあると思う。好ましくない人物が味方になってくれたり、その逆もあったりする。敵と味方は入れ替わることがある。クリスチャンの人間関係だってそうなのだから、異宗教間の人間関係もそうだろう。あの宗教の人間は敵、この宗教の人間も敵、と一方的に決めつけるのは狭量すぎる。

 それに敵だとしても、その不幸を喜ぶというのはダメだろう。
 日本で神社仏閣やモスクが襲撃されたとしたら、キリスト教会やクリスチャンたちはどうするだろうか。罪深い異教徒たちには当然の報いだと、高みの見物に徹するだろうか。
 もしそうだとしたら、そこにこそ日本にキリスト教が広まらない理由があるような気がする。

追記)
 そのムスリムの方々が「敵のために祈れ」を実践しているとしたら、クリスチャンこそ見習うべきだと私は思う。


2013年8月18日日曜日

"Movement is life"(行動こそ命だ)

 上映中の映画 "World War Z" を観た。
 謎のウィルス感染が世界規模で拡散する中、元国連捜査官のジェリー(ブラット・ピット)が感染源を探して各国を飛び回るというパニックホラーである。舞台はアメリカ、韓国、イスラエル、ウェールズで、ほぼ世界一周。壮大なスケールで、劇場鑑賞にピッタリだった。

 序盤、ジェリーと家族は危険を避けて奔走し、あるアパートメントにたどり着く。そこでスペイン系(?)の家族の世話になるのだが、夜明けとともに出発する。その際、スペイン系家族にも一緒に来るよう勧めるジェリーの言葉が、印象的だった。

"Movement is life"

「行動こそ命だ」という日本語訳だったと思う。
 死と隣り合わせの紛争地帯を生き延びてきたジェリーだからこその台詞だろう。率先して行動しなければ死んでしまうし、行動するにはよく考えなければならないし、考えるにはいろいろな情報や知識がなければならない。そんな意味で言ったのだと思う。それを証明するかのように、(多少ご都合主義ではあるが)アパートを出たジェリーたちは生き残り、留まったスペイン系家族はウィルスの餌食となってしまう。
 しかしこれはサバイバルだけでなく、あらゆる場面で適用できる言葉ではないかと私は思った。

 学校でも職場でもどんなコミュニティでも、ただ手をこまねいて見ているだけでは何も成し遂げられない。そこで何らかの行動を起こすことが、活路を見出したり状況を変化させたりすることになるのだと思う。
 もちろん、時には「何もしない」という行動もあるだろうけれど。

 私が身を置いている医療の現場は、まさにこの言葉を体現している。患者さん本人が気づいていない身体的異常を率先して発見し、早く適切な行動を起こさなければ、手遅れになることもある。もちろん何もしないという選択肢もあるし、しても見当違いということもある。いずれにせよ、自分の選択が人の一生を左右するという事実は、心に留めておかなければならない。

 そうでなくても、自分の一生を左右するのは、やはり自分自身の選択だろう。行動するか、しないか。それが瞬時に命運を分けるということはそれほど多くはないだろう。けれど長い人生で見たとき、ある一つの行動が(あるいは行動しなかったことが)、人生全体を大きく変えたということはあると思う。

 良い一生を送りたいと、だれもが願っているだろう。けれどそのために行動を起こすというのは、案外難しいものかもしれない。 "Movement is life" という台詞を聞きながら、そんなことをしばし考えた。

2013年8月17日土曜日

「霊的覚醒」が起こるかどうかより、それが起こった後どうなるかの方が大切だ

霊的覚醒」という言葉が、一部の教会やクリスチャンたちの間で盛んになっている。
 マンネリ化した信仰生活から抜け出し、クリスチャンとして活性化するには、この「霊的目覚め」が必要だということだ。「リバイバル」に近い言葉(あるいは同義)かもしれない。

 何をもって「霊的覚醒」と呼ぶかは諸々ありそうだが、無難なところで言うと「罪の自覚と悔い改め」とか「神様への再献身」とかではないかと思う。要するに、

「今までハンパな信仰生活でごめんなさい、これからは真剣に神様のために生きます」

 という、反省の時なのだと思う。
 だったら単に「主への反省」で良さそうなものだが、それをいちいち「霊・的・覚・醒」と表現するところに劇場化を感じてしまう。
 もっとも、罪の悔い改めで恥ずかしい思いをした後、何とか体裁を繕いたくてそういう劇的な表現をしたくなるのだとしたら、その心境はよくわかる。

 ともあれ、そういう「覚醒」を求めて日々声を大にして祈ったり、歌ったり、「リバイバル集会」を開いたりする教会がある。ある牧師は「目覚めよ!」と講壇の上から信徒たちに呼びかけている(どうやら彼自身はちゃんと目覚めているようだ)。
 彼らはもしかすると、大集会の中で炎の舌が現れるような大現象が起こり、ソロモンの神殿の祭司たちのように立っていられなくなって、「主の臨在」に圧倒されるようなことを期待しているのかもしれない。

 確かにそういうことも起こり得ると私は信じているけれど、そういう反省(霊的覚醒)はもっと地味な出来事とか、当たり前の日常の中とかにも機会があると思う(そもそも大集会や大現象がなければ自分の罪を自覚できなかったり告白できなかったりするなら、覚醒云々の前にすべきことがある)。

 例えば私の教会は牧師が突然失踪し、混乱の末に解散してしまった。それは確かに大変なことだったけれど、おかげで気づけたことも沢山ある。反省すべきことばかりで、今もまだ途上にあるけれど、信仰を根本的に見直す大切な機会となったのは間違いない。それはまさしく「霊的覚醒」と呼べるだろうと私は思う。

 それがもし起こらなかったらと想像すると、私はかえって恐ろしくなる。
 その意味で、私の教会が求めていた「霊的覚醒」とか「リバイバル」とかいうものは、教会が解散するという形で答えられたのかもしれない(教会の解散を願っていたという意味ではない)。
 

 今もし「霊的覚醒を求めているとしたら、今のうちに反省すべきことを反省しておいた方が良いと私は思う。それが本当に起こった時、自分たちの方が耐えられなかった、なんてことにならないように。

2013年8月15日木曜日

多様性を認めるか、否定するか。クリスチャンとして戦うべきところか、どうか。

 子どもの教育について、親は真剣に考えていると思う。子どもの不幸を願うということは基本的にないだろうし、むしろ可能な限り良いものを与えたいのだと思う。

 それがクリスチャンであれば、なおさらだろう。彼らは通常の教育に加えて、どうやって子どものキリスト教信仰を育むかも考えなければならない。そしてその結果、ある親はホームスクール、ある親はチャーチスクール、またある親は公立学校を選ぶ。それ以外の選択肢もあるかもしれない。

 私は、必ずしもクリスチャン子弟がホームスクールかチャーチスクールで学ぶべきだとは思っていない。あくまで、選択肢の一つとしてあればいいとだけ考えている。そしてもちろん、ある家庭やある子にとっては、それらの教育方法が高い効果を上げるだろうとも認めている。

 大切なのは、それぞれの親が責任を持ってそれを考え、決断し、その結果を見定めていくことだと思う。(その結果子どもの信仰を育めたかどうかは、また別の話であろうが。)

 大まかであるが、これが私の「クリスチャン教育」に対する考え方だ。
 この考え方も絶対的に正しいものではないと思うけれど、少なくとも多様性を認めるという意味で、バランスが取れているのではないかと思っている。

 けれど、この「多様性」を決して認めない人とか、団体とかが存在する。彼らは自分たちの選んだ道が唯一絶対正しいと信じている。それはそれで構わないのだけれど、それを堂々と他者にも押し付け、当てはめようとする。正直どうかと私は思っている。多様性とはあってはいけないものなのだろうか?

 あるいは、彼らは確固たる信念を持って、他者の誤りを正そうとしているのかもしれない。

 この心理は、宗教者独特のものであるような気がする。例えばキリスト教徒は仏教徒の信仰を正しいとはしないし、ヒンズー教徒はイスラム教徒の神を受け入れようとはしない。自分たちが正しいと主張することでしか、自分たちの存在を守ることができない、それが宗教者の特徴の一つだと思う。

 そう考えると、教育に関して自分たちの絶対性を曲げないのも、それを他者に押し付けてしまうのも、多少は納得できる(が、それを受け入れることはやはりできない)。

 そういう意味で、彼らにとって「意見の不一致」というのは何でも「聖戦」になってしまうのだろう。なんて面倒くさいんだと、私は正直思ってしまう。

 それに、彼らは大切なことを忘れてしまっている気がする。ガラテヤ5章22~23節が言う、私たちが身につけるべき品性についてだ。

2013年8月14日水曜日

伝道にならない伝道集会

 プロテスタントの聖霊派や福音派が特にそうだと思うけれど、「伝道集会」というのを時々開いている。教会を一般に開放し、未信者の方々を招いて、聖書の神様を知ってもらおうというのが主旨だと思う。一番いいのは、集まった未信者の方が信者になることかもしれない。

 新約聖書に「大宣教命令」というのがあって(その言葉がそのまま書かれている訳ではない)、全世界に福音を伝えることが、クリスチャンの使命とされている。だからその命令を実行したくて伝道集会を開くのだと思う。それはそれで良いことであろう。
 それで多くの未信者が信者になるなら、日本のキリスト教界も活発になっていいだろうと思う。

 けれど、全ての教会の伝道集会を見た訳ではなく、また全ての教会が伝道集会をしているかどうか知らないが、私が見てきた伝道集会というのは、ほとんどが残念なものばかりだった。

 何が残念かと言うと、未信者がほとんど来ないことだ。そこにいるのは大多数が信者で、未信者はほんの一握り、しかも信者の知り合いとか親族とかばかりだ。
 だから伝道集会と言っても、普段の礼拝が少しオープンな感じになっただけ、とも言える。

 これは例えるなら、コンサート会場でコンサートを開いたけれど、スタッフばかりで観客がほとんど入らなかった、というようなものだ。あるいは何かのセミナーを開いたけれど、会場内はスタッフばかり、講師はどこにいるかわからない来場者に向けて話す、というようなものだ。

 これは、一般的に言うなら明らかな失敗だろう。大企業が開催した大規模なイベントであれば、担当者のクビが飛ぶかもしれない。

 伝道集会を開く教会の苦労は、私もよく知っている。多くの信徒が純粋な気持ちでそれに関わっていることも知っている。だからこそ言いたいのだが、それは残念ながら「空を打つ拳闘」ではないだろうか。伝道集会と言いながら、ほとんど(あるいはまったく)伝道できなかったとしたら、そうだと思う。

 あるいは、一人か二人には伝道できたのだからそれで良しとすべきだよ、数じゃないよ、質だよ、聖書も一匹の迷った羊が見つかれば喜ぶと書いてあるじゃないか、と言うかもしれない。
 けれど「伝道集会」と題しておいて未信者が集まらなかったという事実を、真剣に受け止めるべきだと思う。個人伝道で一人に伝道できたら素晴らしいけれど、伝道集会で一人二人しか集まらなかったら、それは集会としての破綻を意味しているからだ。
(それでも破綻しないのは、多くの信徒が義理で参加しているからにすぎない。)

 かくいう私も長年、伝道集会とはこういうものだと思っていた。つまり未信者はほとんど来ず、いつものメンバーで、いつもとちょっと違う雰囲気で礼拝をするもの、という認識だ。

 そういうことを十年以上見てきたけれど、主催者側が反省するとか、改善を試みるとか、そういう姿は見たことがない。

 また一般企業で例えるが、これは赤字経営なのを知りながら、何の改善もせず何年も同じことを繰り返しているようなものだ。
 おそらくそんな企業に融資する銀行はないだろう。

 という訳で、伝道集会を開こうという教会の姿勢には頭が下がるけれど、本当に伝道する気があるのだろうかと、私は不思議に思っている。

2013年8月13日火曜日

「愛かカネか」に見られる二元論の危険性

「愛とカネ、どっちを選ぶか」というテーマが、一昔前にドラマや映画で流行っていたと思う。
「貧乏だけど本当に愛している彼」と、「愛せないけどカネは持っている彼」のどちらを選ぶか、というような構図だ。ジェームズ・キャメロンの「タイタニック」も、同じような構図を持っていると言える。

私は単純に、「そりゃ愛だろう」と思っていた。いろいろなドラマや映画を見ても、どうやらそれが正解のようだった。「最後は愛だよ」とか「カネで買えないものがあるよ」とかいう表現も、耳タコなくらい使われていた。

けれど今の私は、少し違う答えを持っている。
教会の運営に問題が生じ、おカネがどこにもまったくない状態というのを経験して、考え方が変わったからかもしれない。

この「愛かカネか」というテーマは、少々乱暴な二元論ではないかと思う。なぜなら愛を取るならカネはゼロ(反対に言うなら、カネを取るなら愛はゼロ)という状況は、現実的でないからだ。

どんなに愛し合っていても、カネがなければ生活できない。愛があってもカネは必要だ。それに本当に愛しているなら、相手も自分も困らないよう、実際的な努力をしようとするはずだろう(それが愛でもある)。何の努力もしない、だけど愛している、というのは単なる偽善かアホだと思う。

逆にカネが豊富にあるから、愛が反比例的に減少していくということもない。もちろんカネで狂う人はいるけれど、愛の有無とカネの有無とは、基本的に因果関係はないはずだ。

そう考えると、この「愛かカネか」というテーマは、物語向けにわかりやすくデフォルメされた二元論でしかないような気がしてくる。

もちろん、その概念が言いたいことはよくわかるし、そういう究極的な選択を迫れらる時もあると思う。
子どもの身代わりとなって死んでいった親というのは、いつの時代にもいる。そうやってカネを含めた全てを捨てて、愛する者を守るというのは素晴らしいことだし、正しいことだと思う。けれど、そういう究極的な選択を毎日する訳にはいかない。

もしそういう二元論が日常的になっているとしたら、注意が必要だと思う。

例えば聖書は、「神と富の両方に仕えることはできない」と確かに言っている。けれどこれを利用して、「だからカネを持ってはいけない。捧げなさい」と教会が言ったとしたら、それは行き過ぎだろう。どちらか片方しか選べない、究極的な二元論に日常的に持っていくのは横暴でしかないと思う。
聖書をよく読むと、人間にとって金銭が必要であると認めていることが、すぐにわかるはずだ。

人間というのは、勧善懲悪的に白黒はっきりさせにくい存在だと思う。心は複雑なものだし、いろいろな感情や思考が潜在している。それをイエスかノーかで割り切るのは、確かに時として必要だろう。けれどそれに終始してしまうとしたら、複雑さも奥行きもない、およそ人間らしくない人間になってしまうのではないかと私は思う。

2013年8月12日月曜日

ゴールから逆算して生きるススメ

「ゴールから逆算して考える」というようなフレーズを、どこかの予備校が使っていた。受験までに必要な学力が得られるよう、計画的に受験勉強を始めよう、という意味だと思う。

 ゴールを見据えてスタートするというのは、受験に限らずいろいろな場面で必要になると思う。例えば〆切が決まっている仕事とか、早く解決しなければならない課題とかは、そういう考え方で取り組むのが確実ではないだろうか。「アリとキリギリス」で言えば、アリの考え方と同じだ。

 私は仕事柄、高齢な方と接することが多い。中には、人生の終末を迎えておられる方々もいる。そういう方々の人生の最期の一幕を見させてもらえばもらうほど、自分のそれを考えずにいられなくなる。自分はどのような終焉を迎えるのか。現時点からの延長線上にある終焉はどんなものなのか。その時自分は何を思っているのか。あるいはそんなこと考えられなくなっているか…。

 そんなのまだ先だと思う人もいるだろうけれど、時間というのは案外早く流れていく。若いうちは一年が異様に長く感じられるけれど、年を追うごと、それは加速されていく。勤め人などで、いつの間にか一年、二年が過ぎてしまったという人は少なくないと思う。

 悲観的に聞こえるかもしれないけれど、私たちは日々、自分自身の終焉に向かって歩いている。その終焉をどう飾るか、どう迎えるかは自分次第だろう。もちろん予測できないこともたくさんあるだろうけれど、少なくともその終焉に臨む態度とか姿勢とかいうものは、紛れもなくその人自身が反映される。

 受験や仕事は短いスパンで計画できるだろうけれど、人生そのものも、まったく同じ要素を含んでいる。
 自分の人生のゴールを思い描き、そこから逆算して(何かを)スタートさせることは、一つの価値ある生き方だと私は思う。もちろんどう生きるかは人それぞれだけれど、何かを成し遂げたい、一定の成果を見たい、とするならば、非常に助けになるだろうと思う。

 この「ゴールから逆算して生きる」ことの良い点は、それをするのに遅すぎることはないというところだ。何歳になっても、自分の余生をある程度見積もった上での逆算ならできる。それより長ければ儲け物、短くても、ある程度は達成できる。たとえ途中で終わったとしても、「何もしなかった」と後悔することはない。

追記)
 もちろんこれは、人生において何かを成し遂げるべきだ、という考え方が前提になっている。べつに何も成し遂げる必要はない、という考え方ももちろんあると思うし、それを否定する気はない。

2013年8月11日日曜日

恵みが恵みでなくなる瞬間:日本人の「恩返し精神」のデメリット

 キリスト教信仰の大きな特徴を一つ挙げるなら、「恵み」の概念があると思う。

 イエス・キリストが十字架で、全人類の(そして私個人の)罪の罰を代わりに受けて下さった。私たちはそれをただ信じるだけで、罪を許され、死後に魂が天国に導かれる、というのが「救い」の教理だ。

 ポイントは「ただ信じるだけでいい」という、一切の要求がないところだ。救いを受けるためにしなければならない行動というか、ノルマというか、そういうものはない。何もしないで救われる。だから「恵み」と言われている。

 私はあらゆる宗教の教理を知っている訳ではないから断言できないが、基本的に宗教は人に対して、「救われるための行い」を要求するものだと思っている。仏教とヒンズー教なら「解脱」、イスラム教なら「六信五行」、ユダヤ教なら「律法」といった具合に、「〇〇しなければ救われない」というルールがある。仏教の「解脱」というのは、それを達成するまで人は何度でも生まれ変わる、というものらしい(他宗教のことは教科書程度の知識なので、間違っていたら勘弁してほしい)。

 一方、キリスト教にはそういうノルマはない。
「でも大宣教命令があるじゃないか」とか「世界管理命令があるじゃないか」とか言う人がいるかもしれないが、それらの命令は救いの条件ではない。順番が逆だ。大宣教命令を実行したから救われるのでなく、あくまでイエス・キリストを救いの神として信じるから救われるのだ。
 そして信じて救われた結果、その感謝として、また情熱として、大宣教命令に向かっていくのだと思う。

 こういう「一方的な恵み」は、日本人にはあまり馴染みがないだろう。義理を果たすとか恩義に報いるとか、礼節を重んじるとか義理人情とかいう言葉があるように、日本文化には「ただでしてもらうわけにはいかぬ」という恩返し的精神がある。自分自身を見てみてもそう思う。

 そういう日本人に「これは恵みだからあなたに差しあげます」と言っても、単純に受け取ってもらえないことが多いような気がする。あるいは受け取ったとしても、「何かしなければ」「恩返ししなければ」と思ってしまうのではないだろうか。そしてその結果律法的になって、「〇〇しなければならない」という発想になってしまうのではないだろうか。
 今日のキリスト教会の律法主義的傾向は、そういうところにも根があると私は考えている。

 さらにそれを突き詰めていくと、「大宣教命令を遂行しなければ救われない」という極端な、間違った教理が生み出される危険性につながる。現にそういうことを言っているクリスチャンたちはいる。彼らはおそらく熱心な信仰者なのだろうが、その熱心さが間違った方向に突き進んでしまうとしたら、たいへんな悲劇だ。

 ここにも、「趣旨がちゃんと伝わらない」現象が見られる。ただしこの場合は人と人とでなく、神と人との間でのことだ。神がこうと言うことに、人間がいらぬ付け足しをしてしまう。結果、見当違いな自己満足的信仰になってしまう。

 もちろん、日本人のそういう「恩返し気質」は、美徳でもある。日本が世界に向けてアピールできる特徴だし、素晴らしい模範だと思う。それはそれで失ってほしくない。

 けれど同時に、その気質がもたらす弊害にもしっかり目を向けるべきだと思う。時に恩返しを捨て、「恵み」を「恵み」として受け取る柔軟さがないと、「日本はいつまでたってもキリスト教が広まらない国」と言われ続けてしまう気がする。

2013年8月10日土曜日

人生をやり直せないのは、不幸なことではない

 時間を戻してやり直せたら、と思うことがある。もちろん不可能だから、想像するだけなのだが。

 最近そう思ったキッカケは、海外ドラマ「フリンジ」の最終回を観たことだった。最近リリースされたシーズン5で、同シリーズは無事に完結した。

 シーズン5のあらすじを簡単に書く(ネタバレするので、これから観たい人は注意してほしい)。

 2015年、地球は未来人の侵略を受け、あっけなく敗北してしまう。フリンジ・チームはレジスタンスとして活動するが、難を逃れるため仮死状態となる。それから21年後の2036年、チームは仮死状態を解かれ、活動を再開する(シーズン5の舞台は主にこの2036年である)。
 チームには、未来人の侵略から地球を救う起死回生の計画がある。それは未来人の進化のポイントとなった2167年にタイムワープし、その進化に干渉することだった。
 紆余曲折を経て計画は成功、進化に干渉した結果、2015年の未来人侵略はなかったことになった(時間をリセットした、という表現だった)。

 細かいエピソードがいろいろあって私は感動しつつ観た。けれど一つ寂しかったのは、2036年のフリンジ・チームの戦い(つまりシーズン5そのもの)が全て、存在しなかったことになった、ということだ。それはそれでハッピーエンドなのだが、多くのキャラの苦労とか犠牲とか思いとか、そういうものが全部なかったことになったのは、どこか夢オチに似ている気がした。
 徒労というか、今まで観たのは一体何だったんだろう、という感覚だ。

 私たちの人生にはいろいろなことが起こる。良いことや計画通りということもあるだろうし、想定外なことや不運なこともあると思う。良いと思っていたことが、実は悪いことだったと気づくことがあるかもしれない。
 そういう時、時間を戻したいと思うことがあるだろう。時間を戻してやり直せたら、もっと良い選択ができるのにと思うからだ。

 けれど、それは現実的には不可能だろう。もし可能だとしても、単に時間を戻しただけならまた同じ選択をしてしまうのではないだろうか。その結果を知った状態でやり直すからこそ、戻る意味があるのだ。

 だがこの考え方を突き詰めると、結果を知ったうえでなければ選択しない、という生き方になると思う。自分の選択に責任を持ちたくない、ということでもあると思う。枝分かれするルートの先を見るように、得なこと、良いこと、楽しいことだけを上手に選びながら生きられるとしたら、確かに安楽かもしれない。けれど、人間らしくないような気がする。
 結果がわからない選択肢のどれか一つを選び、その結果が良くても悪くても自分の責任として受け入れ、そこから何かを学ぶ、というのが人としての生き方だと私は思う

 確かに失敗としか思えない選択もあるだろうけれど、それ以外の選択の結果を知ることはできない。であるなら、それが本当に失敗だったかどうかは、私たちには判断しきれないはずだ。もしかしたら、その「失敗」は後に良い結果につながるかもしれない(もちろん犯罪行為を選択するのは論外で、その結果良いことが起こるとは私は思わない)。

「フリンジ」は良いドラマだけれど、この「時間をリセットする」という考え方を私たちの人生に適応すべきではないと思った。

 私たちは結果のわからないことを日々選び、その実際の結果を見ている。良いことも悪いこともあるだろうが、どれもやり直せない。そしてその結果はいつまでも、私たちの人生に残るだろう。
 けれどそういうことを通して選択の重要性を知ることができるなら、それは決して悪いことではない。いや、良いことだと私は思う。

2013年8月9日金曜日

敵意があると、話し合ってもムダになる

 麻生副総理の発言問題について以前書いたが、その関連で書きたい。

 話の趣旨が伝わらず、枝葉末節ばかりが突かれるのは酷いことだ。けれど、そういうことは残念ながらよくある。その背景には主義主張の違いもあるが、それ以上に敵意が存在している場合がある。
 と、いうのが以前の記事の趣旨である。

 この「敵意」というのは、コントロールが難しい感情の一つではないかと思う。キリスト教団体の内部をいくつか見てきたけれど、まとまらない議論の背後には、やはり個人的な敵対関係が存在することが多かったと思う。

 意見はそれぞれ違っていて当然だが、それを擦り合わせるのが議論の役割の一つであろう。キリスト教団体であるなら、聖書の基準に照らし合わせつつ、ある程度の妥協点を見出していくべきだろう。

 けれど、互いに(あるいは一方に)敵意があると、妥協点も解決案も見出せなくなる。あるいはどちらか一方が、全面的に妥協しなければならなくなる。どちらもストレスフルなことだ。

 そこでもし自分の中にある敵意に気づき、捨てることができるなら、事態は改善するだろう。けれど多くの人が、「自分は間違っていない」と信じている。自分が正しいと思っている以上、過ちに気づくということはあり得ない。

 こういうことは、いろいろな団体に当てはまると思う。現在の日中問題や日韓問題にしても、両者にははじめから敵意が存在しているように思える。
 日本国憲法を変えて正当な軍事力を持とうとする動きも、そういう敵意の延長線上にあると言ったら、言い過ぎだろうか。

 聖書には、「キリストは全ての敵意を廃した」という箇所がある。クリスチャンがキリストの言葉を体現すべき存在だとしたら、まずはクリスチャン自身がそういう敵意から解放されるべきだろう。そして敵意に邪魔されない議論をすべきだろう。

 それができないとしたら、それは日本のクリスチャンの未熟さの現れではないかと思う。
 もちろん私自身も含めての話だが。

2013年8月8日木曜日

「正しいこと」は安易に得られるものではない

 正しいことをしたい、あるいは間違ったことはしたくない、と願う人は多いと思う。

 もちろんいろいろな事情があって、悪事に手を染める人はいるだろう。例えば盗む以外に食べる手段がないとしたら、おそらく多くの人が盗みを働く。けれど、もしそういう事情とか理由とか必要性とかがまったくなかったとしたら、おそらくほとんどの人は、その盗みをしようとは思わないだろう(もちろん、盗みを楽しむ愉快犯はいると思う)。
 あえて悪いことをしようという人は、きっと少ないはずだ。

 あるいは「正義」と「悪」とは相対的なものだと言われるかもしれない。ある人の正義は他人にとって悪になり得ると。それは確かに事実で、例えば牛はヒンズー教では神聖視されるけれど、日本では食材の一つでしかない。けれど、やはりそれぞれが正しい(あるいは間違っていない)と信じていることをしているのだ。

 こうは書いても性善説を推すつもりはなく、人には悪事を厭わない性質があると私は思っている。けれど同時に、誰の心にも善でありたいと願う部分が(わずかかもしれないが)あるとも思っている。
 その結果、本当に善であれるかどうかは別問題だが。

 とにかくそういう訳で、人はできる限り正しくあろうとするものだと、私は考えている。

 が、何にでもバランスは必要だ。絶対に正しくなければならないと頑なに思い込んでしまうのはかえって危険だと思う。
 例えばそういう人が新興宗教の勧誘を受け、いわゆる「ラブシャワー」の洗礼を受けてすっかり心酔してしまったらどうなるだろうか。その宗教の教義を絶対の正義・真実と信じて生きていくことになる。その宗教が社会的に無害であればいいけれど、悪意を秘めているとしたら悲劇だ。彼は絶対だと信じているものによって、何かを破壊してしまうことになる。

 例えばキリスト教を標榜する教会でも、同様の危険性はある。そこの牧師なりリーダーなりが欲にかられ、教義をうまく利用した私利私欲事業を始めてしまうかもしれない。そこの信徒はそれを絶対に正しいと信じているから、事態は複雑なものになる。

 聖書を深く学べば学ぶほど、解釈に揺れる部分が見えてくる。AかBか、その決定打がない事柄というのは少なくない。それをAだ、あるいはBだと決めつけて信じるのは一つの手ではあるけれど、視野を狭めることになりかねない。それにそれは、一つの可能性だけを取り上げ、もう一つの可能性を潰すということでもある。私はそれは間違っているのではないかと思っている。

 正しくありたいと願うのは素晴らしいことだ。それを実行できる人は意外に少ない。
 けれど、それが本当に正しいかどうか断定できないことはたくさんある。もしかしたら自分の信じているものが間違っているかもと考えるのは、不信仰と思われるかもしれないが、私はそうは思わない。逆に信仰を吟味する真摯な姿勢だと思う。

 それはカルト被害を防ぐ方法でもあるだろうし、それだけでなく、人生を生きるうえで大切な考え方であろう。「正しいこと」は安易に得られるものではない。ある意味それは、生きる限り探し続けるものなのかもしれない。

「棚上げ」の必要性

 議論を尽くすことは重要だ、とよく言われる。けれど、議論を尽くしたから分かり合えるとは限らない。決定的な対立になることもある。

 おおよそ議論の行き着く先というのは、一応の合意点に到達するか、決別するかのどちらかであろう。その決別というのが、単なる物別れで済むならまだいい。深刻な争いになることもある。

 歴史的に見ても、部族間や宗教間、国どうしの戦争というのは絶えることがない。それは、話し合いでは解決できないことがあるという証明であろう。

 誰かと個人的に話すレベルでも、到底分かり合えないというか、そもそも話し合いが成立しない人というのがいる。はじめから立場や価値観や向いている方向が決定的に違っていて、まったく接点がないように感じることが、私にはある(それは相手が悪いということでなく、かといって私が悪いということでもなく、止むを得ない何かによってそうなっているような気がする)。

 そういう一対一の対立というのも、突き詰めれば争いになるだろうし、究極的には殺し合いみたいなことになっていくのだと思う。
 それを避けるには、どちらかが諦めて主張を引っ込めなければならないのだと思う。諦めない限り、決して衝突は避けれらない。

 しかし、例えばこれが宗教間の対立となると、両者とも、「諦める」という選択肢は初めからない。相手を諦めさせることでしか、自分の安全地帯を守る術がないからだ。

 この対立を一切の妥協なしに続けるとしたら、もはや血で血を洗うバトルロイヤルを繰り広げるしかない。けれど、そんなことをしていたら命がいくつあっても足りない。

 争わず、同時に諦めないで済む方法は、「棚上げ」しかないと思う。尖閣諸島を巡る日中間の対立に、若干似ているかもしれない。

「棚上げ」というのは中途半端な、臭いものに蓋をするような行為に思えて、正義感の強い人には耐え難く映るかもしれない。けれど、その「棚上げ」が相入れないものどうしを何となく共存させ、相互理解の可能性を探るための時間稼ぎになるとしたら、あながち悪いものでもないだろう。

 おそらく多くの人が、そういう風に何かを我慢しながら、生きているのだと思う。

2013年8月6日火曜日

窮地の敵に同情するか、さらに拳を振りかざすか:米軍ヘリ墜落事故をみて

沖縄の山中、住宅地から2キロ程のところに、米軍のヘリが墜落した。3名が負傷、1名が行方不明となった。その1名は残念ながら、死亡した可能性が高いとのこと。

その事故に対する日本国内の反応は、大きく二つに別れている。
一つは、「だからオスプレイも米軍基地もいらない。追い出すべきだ」というもの。
もう一つは、「死者に哀悼の意くらい表したらどうだ」というもの。

前者は、墜落地点が住宅地そばだったのを強調して、「大惨事になっていたかもしれない」と基地反対を訴えている。後者は、その兵士たちが東日本大震災の救援活動に従事していたのを強調して、「追い出せと言う前に感謝くらいすべきだ」と訴えている。

もしかしたら両者は、基地反対という点では同意見なのかもしれないけれど、少なくとも上記の点では対立している。

私は現地にいる訳でもなく、詳細を知っている訳でもない。だからテレビやネットの情報から判断するしかないけれど、どちらの主張も間違っていないように思える。確かに住宅地に墜落するような訓練はしてほしくないし、そうであってもなくても、事故に遭った兵士の方々は気の毒だ。

そういう認識の上で書くけれど、「哀悼の意くらい述べるべきだ」というのはとても配慮のある、大人な意見だろうと思う。「ドラえもん」のキャラで言えば、出木杉君あたりが言いそうだ。
それに比べ、死傷者について一切ふれず「米軍を追い出せ」と鼻息を荒くするのは、いかにも品がないように思われる。こちらは出木杉君に比べてジャイアンみたいなものかもしれない。

どちらが理想かと言えば、出木杉君かもしれない。

けれど、ジャイアンみたいな反応になるのも仕方ないのではないか、と私は思った。

私は沖縄に住んだことがないから、基地の存在のデメリットを肌で感じたことはない。よく報道される、米兵による被害事件というのも経験がない。けれど、もし自分や近しい人がそういう被害に遭うか、そういう危険に恒常的に晒されているとしたら、とても冷静ではいられないだろうと思う。もし何かされたら復讐を考えるだろうし、今回のような事故が起きたら「ざまあみろ」ときっと思ってしまう。

そういう当事者の方々の気持ちとか思いとかを無視して、正論を振りかざすのは、本当の意味の「配慮」とは言えないような気がする。

もちろん、敵であっても窮地にあれば助ける、というのが理想ではあると思う。それができるのは「良い人間」かもしれないし、私たちはそれを目指すべきなのかもしれない。

2013年8月5日月曜日

クリスチャンの敬虔さとは

 クリスチャンの「敬虔さ」を測るのは、難しい作業だろう。
 まず何をもって敬虔と言うべきか、そこから議論になるのではないかと思う。

 私が教会で教わってきた基準をあえて書くならば、その敬虔さとは「主との交わりの深さ」ということになる。主と深く交わる人ほど信仰深く、霊的で、敬虔だと評される。
 もちろん、そこには「交わり深さ」をどう測るべきかという、また別の議論がある。けれど、この記事の趣旨はそこを明確にすることではないので、ここでは単に「どれだけ祈ったか、聖書を読んだか、瞑想したか」とかいう神様に対する内省的行為を「主との交わり」と呼びたい。

 この主との交わりは、基本的に時間がかかる行為だと思う。忙しい現代人には、その時間をどうやって捻出するかは大きな課題であろう。ある人は睡眠時間を削って聖書を読むかもしれないし、ある人は趣味を減らして祈るかもしれない。またある人は、それほど忙しくない仕事に転職して主との時間を持つかもしれない。
「交わりの深さ」を求めるなら、そういう時間的犠牲は絶対必要になる。したいことを何か諦めないと、難しいだろう。

 私の教会では、敬虔さとはそういうふうにして得るものだった。すなわち、そういう時間的犠牲を払って聖書に親しみ、よく祈り、御声を聞こうと努める過程の中で、人はいつしか敬虔になっていく、ということである。

 そして敬虔になった結果どうなるかと言うと、牧師の言葉を借りるなら、「主によく用いられる器」になる。つまり、いろいろな奉仕で「活躍」するようになる、忙しくなる、ということだと思う。

 そうなると、一つ単純な問題が生じる。用いられて忙しくなった結果、敬虔さを支える「主との交わり」を持ちづらくなってしまうのだ。主と交わるほどよく用いられ、よく用いられるほど主と交われなくなる、という二律背反的な、ヘビが自分の尻尾をどんどん食べていくような、ヘンテコなことになってしまう。

 これは私の教会でも大きな課題だったし、熱心な人ほどその答えを探し求めて葛藤していた。結局、私を含めて誰もその答えを見つけられなかったようだけれど。

 多少の差はあると思うけれど、この二律背反の問題は、あらゆるキリスト教信仰、ひいてはあらゆる宗教信仰に潜在しているのではないかと思う。
 と、言ったら大げさだろうか。

 話を大きくしてしまったようだけれど、実は私なりの答えというのはある。
 私の教会の前提を無視することになるが、敬虔であろうとなかろうと、忙しくて何もできなくなるくらい活躍する必要はない、ということだ。

2013年8月4日日曜日

それでも人生は続く。それは悲劇なのか、希望なのか。

 前回に続いてカルト被害の話を。

 カルト被害に遭って人生を狂わされた、という人は少なくないと思う。その被害の程度は様々だろうが、中には深刻な、致命的なレベルのものもあると思う。本当に気の毒だ。

 それに比べると、私の経験した被害というのは軽いのだろう。だから深刻な被害者の方々の心痛は、想像はできても理解はできないのかもしれない。前回の記事の表現を用いるなら、私には彼らの包帯を巻く資格はないのかもしれない。

 が、私や他の信徒の方々が体験した被害も、決して小さなものではなかった。教会が解散になって随分たったような気もするが、まだその痛手を引きずっている人は多い(と思う)。私もその例外ではない。

 私のケースで言うと、教会の事業のためにキャリアを捨てたのと、その事業の中で様々な搾取に遭ったというのがある。もっとひどい被害に遭われた方には本当に恐縮だが、私のそれも取り返しのつかないダメージなのは変わりない。何故なら一度捨てたキャリアはそのままの形では取り戻せないし、やり直すにしても、その遅れは歴然としているからだ。

 あの時捨てていなければ、と思うこともある。そうであれば今頃どうだったろうかと。

 ケースはそれぞれ違うけれど、他の信徒の方々も、心境的にはそれに近いと思う。
 私たち信徒は老若男女を問わず、皆が何かを捧げ、何かを諦め、神様のためだと思って何かに努めた。が、志半ばのまま、その何かは消えた。あとには捧げ尽くして何も残っていない自分自身だけが残った。

 心の痛む出来事だ。騙されたのは確かだけれど、どこかで自己責任とも感じている。加害者を一方的に責められない気持ちもある。いろいろな感情が入り交じり、混乱してしまう。そして何よりひどいのは(そして同時に希望なのは)、それでも人生は続いていくということだろう。

 時間は嫌でも過ぎていくし、私たちは生きるために別の何かをしなければならない。失ったキャリアも可能性も関係ない。そうやって目の前の何かに対処することで日々が過ぎていくとしたら、私たちの被害というのは、いつまでもそのままで残っているような気がする。

 もちろん具体的なことは時間と共に忘れていくだろうけれど、例えばキャリアの問題などはいつまでも残る。履歴書の学歴や職歴がいつまでも自分について回るのと同じように。

 それは恐ろしい悪夢のようだけれど、だからこそ私たちは強く逞しくなれるのかもしれない。そしてその強さや逞しさが、そういう被害に遭ったからこそ体得できたものだとしたら、それは決して悪いことばかりではなかったということだろう。

2013年8月3日土曜日

被害に遭わなければわからない危険

「カルト」の定義はおおまかには「反社会的宗教団体」だそうだが、細かいところは曖昧なようだ。犯罪行為の有無とか虐待の有無とかマインドコントロールとか、いろいろな要素があって明確な定義はできないのかもしれない。

 その定義が判然としないように、その被害状況もいまいち見えてこない。被害者数とか規模とか内容とかの公式発表はないし、あっても特定の宗教団体に関するものだけで、それも有志の個人や団体が非公式にまとめて下さったものだ。だから「今日本にはこれだけのカルト被害があります」という発表を、正確な数字とともに行うのは難しいようだ。

 が、被害者団体がいろいろ設立されているところを見ると、被害者数というのは決して少なくないのではないかと思う。声を上げられない被害者だって多いだろう。

 カルト被害というのは、まだまだ一般に認知されていない分野だろう。
 1995年のオウム真理教報道がその始まりだったかもしれない。けれど、あれはまだ「変な新興宗教が変なテロ事件を起こした」という視点が主だったと思う。宗教を利用した虐待やマインドコントロールの危険性は、さほど注目を集めたとは言えないのではないか。ましてそれが新興宗教だけでなく、キリスト教にも蔓延しつつある問題だという認識は、ほとんどないだろう。

 一つには、カルト被害にあった被害者が、声をあげにくいという状況があるだろう。被害者の会を作るには誰かが動かなければならないけれど、関係者みんなが被害者だったらそれも難しい。

 もう一つには、被害に遭わなければその危険性がわからない、という状況があると思う。例えば宗教団体内で虐待されていた信者が、逃げ出そうと思えばできたのに、あえてそこにとどまり続けたというケースがある。普通なら「そんなバカな」「自分なら絶対逃げ出す」と思う。当事者にとってそれこそがカルト被害の恐ろしさなのだが、部外者は「そういうのに引っかかりやすい人の、かわいそうな事件」と片づけてしまいかねない。
 あるいはそういう無理解を超えて、カルト被害者を「自己責任だ」と責め立ててしまうかもしれない。

 私も、属していた教会での体験を思い出すと、(すべてではないが)非常に辛くなる。が、なぜ逃げなかったかと聞かれても、私にとってそれは逃げるかどうかの問題ではなかった、と答えるしかない。どうせわからないだろうと、説明を諦めてしまう気持ちにもなる(ちなみに、私の教会がカルトだったかどうかという点について私は判断できない)。

 ともあれ、カルト被害に対する正しい理解と治療のプロセスが、絶対必要だろうと私は思う。この被害の理解と治療については、ヘッロの言葉を引用したい。

「包帯を巻いてやれないのなら、他人の傷にふれてはならない。」

2013年8月2日金曜日

他宗教の信者を許容することと、その神を許容すること。

  作家・塩野七生氏の著書の一節を自動ツィートするbotアカウントがあって、私も拝見している。興味深いツィートがあった。

 ある人の神を許容することは、その人自身を許容すること、ということだろうか。
逆に言うと、その人の神を許容しないなら、その人自身を許容しないことになる、ということだと思う。

 私の教会ははるか以前、公園伝道を盛んにしていて、私も行ったことがある。
「神様が世を愛されたから、私たちもこの地域の人々を愛するべきだ。そして真の神様を伝えるべきだ」ということを伝道前に教えられた。それはそうだと納得して、未信者の人や他の宗教の人を見つけるため、公園で過ごす人たちに話しかけたりした。

 結果はいろいろだったけれど、私が「これは絶対無理ではないか」と思ったのは、他の宗教の信者に伝えることだ。

 もちろんどの宗教の人とも普通に話すことはできるし、友好的な雰囲気にもなるけれど、神については絶対に譲れない境界線みたいなものがあった。しかもその境界線は相手にだけあるのでなく、私自身にもあった。つまり、私の神様を相手は受け入れないし、相手の神様を私が受け入れる訳にもいかない。

 という訳で、他の宗教の方と神について話し出すと、いつまでも平行線のまま、何となく別れることになった。あるいは険悪な雰囲気になって別れることになった。
 以来、伝道の時に、他宗教の信者を避けるようになったのは言うまでもない。

 それについて特に考えることもなかったけれど、上述のツィートを見て、その時の感覚を思い出した。

 確かに、クリスチャンは世界中の人々を愛するべきだし、神について伝えるべきだ。聖書もそう命じている。
 が、他宗教の信者も、その点は同じようなものではないだろうか。クリスチャンが神を絶対的存在として信じているように(私もそうだ)、他宗教の方々も、自分の神を絶対に信じている。文字通り自分の命をかけて、その信仰を貫き通す人たちもいる。クリスチャンが本気であるように、彼らも本気なのだ

 私は漠然と、「他の宗教の神は受け入れないけど、その人自身を愛することはできるはず」と思っていた。
 が、普段は仲良くても、信仰の話になると必ず険悪になってしまうとしたら、本当の意味で相手を受け入れているとは言えないような気がする。

 現在日本は平和だし、信教の自由というのはまだ憲法で保障されているから、宗教的な争いは表面的にはない。少なくとも大勢が死んでしまうような事態にはなっていない。だからこの問題も、それほど注目されることもないかもしれない。

 が、例えば禁教という事態になったら、そうも言っていられないのではないだろうか。私のように「他の神は受け入れないけど、その信者自身は愛する」なんて言うのは偽善でしかなくなるだろうし、「険悪なムード」なんかはるかに越えた争いになると思う。

 歴史的にも、宗教間の争いに解決がないことは証明されている。

 宗教を信仰する者として、そういう究極的なことについても考えるべきだと、そのツィートを見て思わされた。
 もちろん、簡単な答えなどないだろうけれど。

趣旨の曲解が未来を滅ぼす。麻生副総理の発言問題(?)から。

 麻生副総理の発言が話題になっている。
「ナチスは民主主義を利用して憲法を巧妙に変え、独裁政治に走った。我々はあんな風になってはいけない。我々はナチスの手口を反面教師として学ぶべきだ」というような趣旨の、いたって真っ当な発言だったのに、日本の報道機関が「ナチスの手口に学んで改憲しようと思ってる」と、かなり曲解して報じてしまった。
 そしてその報道だけが世界を巡り、日本は(麻生副総理は?)各国の批判にさらされることになった。野党もそれを真に受けて、「辞職しろ」とか言い出した。

 報道機関は後から、その発言の全文を掲載した。が、報道内容の訂正は特にしていない。

 全文を読んでみたが、趣旨は上述の通りで、何も問題ない。それより報道機関の方がおかしいのではと私は思った。単に読み違えたのなら読解力がなさ過ぎるし、故意的にやったのなら大問題だ。

 こういう「趣旨の曲解」というのは本当に厄介だけれど、日常的にあるものだと思う。

 本当に言いたい結論があるのに、そこに至る途中の一部分だけを引っ張り出され、槍玉にあげられてしまう。そこにあるのは理解しようという心でなく、敵意だったり悪意だったりだと思う。
 が、それでは正常なコミュニケーションにはならないだろう。

 その背景には、主義主張の違いとか、イデオロギーの違いとか、価値観やそこからくる意見の相違とかがあると思う。
 自分とは違う意見や価値観を受け入れられない、認められないから、それにしっかり耳を傾けられないだけでなく、なんとか攻撃の糸口をつかもうとする。そして隙あらば攻めたて、相手を撃破しようとする。
 それは人間にとって本能的なことかもしれない。が、そこに留まっていたら争いは止まないだろう。そこから一歩抜け出し、相手の話をしっかり聞いた上での建設的な議論ができるようにならなければ、より良い未来というのは期待できないのではないだろうか。

2013年8月1日木曜日

天国でも競争?

 天国についてもう少し書きたい。

 あるクリスチャンが自身のブログで、「天国でダンボールの家に住みたいか、宮殿に住みたいか」みたいなことを書いていて驚いた。
 その人によると、人生は天国でのポジションを決めるテストのようなものだそうだ。そのテストの結果、成績の良い人は宮殿に、悪い人はダンボールに、それぞれ永遠に住むことになるらしい。

 言いたいことはよくわかる。宮殿とかダンボールとかが比喩なのもわかる。

 確かに聖書には、全ての人間が死後にさばきを受けると書いてある(黙示録20章)。そしてその基準は、「そのしわざに応じて」だ。だから生前の行いに従ってさばかれる、というのは基本的に正しい。

 また、天国にはそれぞれに住む家があるとも書いてある。イエス・キリストご自身が、それぞれの住まいを準備しておられる(ヨハネ14:2-3)。だから天国でそれぞれの家に住む、というのも正しい。

 が、ある人は家がみずぼらしくて、永遠の劣等感と後悔に苛まれ、ある人は家が豪華で、永遠の優越感に浸る、ということだと納得し難い。
 仮に、地上で貧しいながら主によく仕えた人が天国で宮殿に住み、地上で裕福だったが礼拝を守っただけの人がダンボールに住む、という逆転劇だったとしても、結局そういう競争と上下関係に支配された、この社会の延長線上にあるだけの天国暮らしをしなければならないのだろうか。「私は○○できなかった」「もっと○○すべきだった」という後悔を永遠に持ったまま過ごすのが、天国という場所なのだろうか。

 そういう状況でありながら、「もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」(黙示録21:4)という天国とは、どういうものなのだろう?

 ・・・と、いうのが、そのブログを読んでの私の感想だ。

 その考え方が人に与えるのは、恐怖なのではないだろうか。
 そしてその恐怖は、「もっと奉仕しなければならない」という律法主義につながり、その律法主義は「私の方ができている」「あの人よりは勝っている」という競争原理に行き着くのではないだろうか。

 それと同じ原理の上に天国があるとしたら、そこは「天上の地獄」に思えてならない。