多様性を認めるか、否定するか。クリスチャンとして戦うべきところか、どうか。

2013年8月15日木曜日

キリスト教信仰 教育

t f B! P L
 子どもの教育について、親は真剣に考えていると思う。子どもの不幸を願うということは基本的にないだろうし、むしろ可能な限り良いものを与えたいのだと思う。

 それがクリスチャンであれば、なおさらだろう。彼らは通常の教育に加えて、どうやって子どものキリスト教信仰を育むかも考えなければならない。そしてその結果、ある親はホームスクール、ある親はチャーチスクール、またある親は公立学校を選ぶ。それ以外の選択肢もあるかもしれない。

 私は、必ずしもクリスチャン子弟がホームスクールかチャーチスクールで学ぶべきだとは思っていない。あくまで、選択肢の一つとしてあればいいとだけ考えている。そしてもちろん、ある家庭やある子にとっては、それらの教育方法が高い効果を上げるだろうとも認めている。

 大切なのは、それぞれの親が責任を持ってそれを考え、決断し、その結果を見定めていくことだと思う。(その結果子どもの信仰を育めたかどうかは、また別の話であろうが。)

 大まかであるが、これが私の「クリスチャン教育」に対する考え方だ。
 この考え方も絶対的に正しいものではないと思うけれど、少なくとも多様性を認めるという意味で、バランスが取れているのではないかと思っている。

 けれど、この「多様性」を決して認めない人とか、団体とかが存在する。彼らは自分たちの選んだ道が唯一絶対正しいと信じている。それはそれで構わないのだけれど、それを堂々と他者にも押し付け、当てはめようとする。正直どうかと私は思っている。多様性とはあってはいけないものなのだろうか?

 あるいは、彼らは確固たる信念を持って、他者の誤りを正そうとしているのかもしれない。

 この心理は、宗教者独特のものであるような気がする。例えばキリスト教徒は仏教徒の信仰を正しいとはしないし、ヒンズー教徒はイスラム教徒の神を受け入れようとはしない。自分たちが正しいと主張することでしか、自分たちの存在を守ることができない、それが宗教者の特徴の一つだと思う。

 そう考えると、教育に関して自分たちの絶対性を曲げないのも、それを他者に押し付けてしまうのも、多少は納得できる(が、それを受け入れることはやはりできない)。

 そういう意味で、彼らにとって「意見の不一致」というのは何でも「聖戦」になってしまうのだろう。なんて面倒くさいんだと、私は正直思ってしまう。

 それに、彼らは大切なことを忘れてしまっている気がする。ガラテヤ5章22~23節が言う、私たちが身につけるべき品性についてだ。

QooQ