「劇場型信仰」の二次被害と真の「いのち」について考えてみた

2013年8月26日月曜日

キリスト教信仰

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 前回「劇場型信仰」の問題点について書いたが、今回は主にその二次被害について書きたい。

 ちなみに「劇場型信仰」とは、人為的(あるいは作為的)な感動体験を霊的体験と混同し、それを「神の臨在に満ちた礼拝」とか、「いのちに溢れた教会」とかと考える信仰の在り方を指す、私の勝手な造語だ。

 それが単に聖霊派のスタイルを踏襲したものなのか、その教会の牧師の必死な探求(?)の結果なのか、あるいは根本的な悪意なのか、出処はそれぞれだと思う。

 けれどそういう教会で育った信徒とか、他の教会を知らない信徒とかからすると、礼拝とはいつも感動に満ちたドラマチックなものであり、教会とはそういう熱いところなのだ。
 だから「どれだけ感動したか」「どれだけ涙を流したか」「どれだけ喜べたか」が、礼拝の良し悪しとなってしまう。
大きな集会の後、信徒どうしで「今日はすっごい恵まれたよ」等と話しているのをよく見るが、その心理には、多分にこの判断基準の影響があるのではないかと私は思っている。

 そういう「感動」を基準にするクリスチャンからすると、(こう書くのは大変失礼だが)伝統的な教会の礼拝というのは、「信じられないくらい退屈な礼拝」ということになる。

 常識的な人ならそこまで露骨な表現はしないだろうが、中にはそうでない人もいる。彼らは「退屈だ」を通り越して、「あの教会には神様の臨在がない」とか「いのちがない」とか「真理が開かれていない」とかと言い出してしまう(実際にそういう表現をする牧師を私は知っている)。

 しかし、信徒がそう考えるのは、やむを得ないと思う。何故なら彼らには、感動して涙を流すことや、腹を抱えて笑うことや、テンポの良いリズムにのって歌ったりメロディアスな曲を熱唱したりすることが「神の臨在」であり、「いのちに溢れた礼拝」だからだ。そう教えられてきたのだし、そう生きてきたのだ。
 これは劇場型信仰が招いた二次被害であろうと私は思う。

 もちろん、だからといって伝統的なスタイルにダメだしする権利は誰にもないし、知らなかったでは済まされない。けれどより責任が重いのは、その被害の発端である牧師やリーダーたちだろう。「教師は格別厳しい裁きを受ける」と聖書に書いてある通りだ。

 では、クリスチャンは伝統的なスタイルの礼拝をすべきだろうか。
 これは何とも言えない。けれど、聖霊派の活発な教会に「いのち」を求めてやってくる伝統的教会の牧師が少なくないのを見ると、私たちはこの「いのち」について、もっと深く考えるべきだろうと思う。

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