「霊的覚醒」が起こるかどうかより、それが起こった後どうなるかの方が大切だ

2013年8月17日土曜日

カルト問題 キリスト教信仰

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霊的覚醒」という言葉が、一部の教会やクリスチャンたちの間で盛んになっている。
 マンネリ化した信仰生活から抜け出し、クリスチャンとして活性化するには、この「霊的目覚め」が必要だということだ。「リバイバル」に近い言葉(あるいは同義)かもしれない。

 何をもって「霊的覚醒」と呼ぶかは諸々ありそうだが、無難なところで言うと「罪の自覚と悔い改め」とか「神様への再献身」とかではないかと思う。要するに、

「今までハンパな信仰生活でごめんなさい、これからは真剣に神様のために生きます」

 という、反省の時なのだと思う。
 だったら単に「主への反省」で良さそうなものだが、それをいちいち「霊・的・覚・醒」と表現するところに劇場化を感じてしまう。
 もっとも、罪の悔い改めで恥ずかしい思いをした後、何とか体裁を繕いたくてそういう劇的な表現をしたくなるのだとしたら、その心境はよくわかる。

 ともあれ、そういう「覚醒」を求めて日々声を大にして祈ったり、歌ったり、「リバイバル集会」を開いたりする教会がある。ある牧師は「目覚めよ!」と講壇の上から信徒たちに呼びかけている(どうやら彼自身はちゃんと目覚めているようだ)。
 彼らはもしかすると、大集会の中で炎の舌が現れるような大現象が起こり、ソロモンの神殿の祭司たちのように立っていられなくなって、「主の臨在」に圧倒されるようなことを期待しているのかもしれない。

 確かにそういうことも起こり得ると私は信じているけれど、そういう反省(霊的覚醒)はもっと地味な出来事とか、当たり前の日常の中とかにも機会があると思う(そもそも大集会や大現象がなければ自分の罪を自覚できなかったり告白できなかったりするなら、覚醒云々の前にすべきことがある)。

 例えば私の教会は牧師が突然失踪し、混乱の末に解散してしまった。それは確かに大変なことだったけれど、おかげで気づけたことも沢山ある。反省すべきことばかりで、今もまだ途上にあるけれど、信仰を根本的に見直す大切な機会となったのは間違いない。それはまさしく「霊的覚醒」と呼べるだろうと私は思う。

 それがもし起こらなかったらと想像すると、私はかえって恐ろしくなる。
 その意味で、私の教会が求めていた「霊的覚醒」とか「リバイバル」とかいうものは、教会が解散するという形で答えられたのかもしれない(教会の解散を願っていたという意味ではない)。
 

 今もし「霊的覚醒を求めているとしたら、今のうちに反省すべきことを反省しておいた方が良いと私は思う。それが本当に起こった時、自分たちの方が耐えられなかった、なんてことにならないように。

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