カルト被害に遭って人生を狂わされた、という人は少なくないと思う。その被害の程度は様々だろうが、中には深刻な、致命的なレベルのものもあると思う。本当に気の毒だ。
それに比べると、私の経験した被害というのは軽いのだろう。だから深刻な被害者の方々の心痛は、想像はできても理解はできないのかもしれない。前回の記事の表現を用いるなら、私には彼らの包帯を巻く資格はないのかもしれない。
が、私や他の信徒の方々が体験した被害も、決して小さなものではなかった。教会が解散になって随分たったような気もするが、まだその痛手を引きずっている人は多い(と思う)。私もその例外ではない。
私のケースで言うと、教会の事業のためにキャリアを捨てたのと、その事業の中で様々な搾取に遭ったというのがある。もっとひどい被害に遭われた方には本当に恐縮だが、私のそれも取り返しのつかないダメージなのは変わりない。何故なら一度捨てたキャリアはそのままの形では取り戻せないし、やり直すにしても、その遅れは歴然としているからだ。
あの時捨てていなければ、と思うこともある。そうであれば今頃どうだったろうかと。
ケースはそれぞれ違うけれど、他の信徒の方々も、心境的にはそれに近いと思う。
私たち信徒は老若男女を問わず、皆が何かを捧げ、何かを諦め、神様のためだと思って何かに努めた。が、志半ばのまま、その何かは消えた。あとには捧げ尽くして何も残っていない自分自身だけが残った。
心の痛む出来事だ。騙されたのは確かだけれど、どこかで自己責任とも感じている。加害者を一方的に責められない気持ちもある。いろいろな感情が入り交じり、混乱してしまう。そして何よりひどいのは(そして同時に希望なのは)、それでも人生は続いていくということだろう。
時間は嫌でも過ぎていくし、私たちは生きるために別の何かをしなければならない。失ったキャリアも可能性も関係ない。そうやって目の前の何かに対処することで日々が過ぎていくとしたら、私たちの被害というのは、いつまでもそのままで残っているような気がする。
もちろん具体的なことは時間と共に忘れていくだろうけれど、例えばキャリアの問題などはいつまでも残る。履歴書の学歴や職歴がいつまでも自分について回るのと同じように。
それは恐ろしい悪夢のようだけれど、だからこそ私たちは強く逞しくなれるのかもしれない。そしてその強さや逞しさが、そういう被害に遭ったからこそ体得できたものだとしたら、それは決して悪いことばかりではなかったということだろう。
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