2019年7月11日木曜日

ルツ子さんの泣くに泣けないクリスチャン生活【第2話】

――――――――――――――――――――――――――――――――
『キマジメくんのクリスチャン生活』のスピンオフ作「ルツ子さんの泣くに泣けないクリスチャン生活」第2話です。電車でどこかに向かうルツ子さん。どこか様子が変です。彼女にいったい何が待ち受けているのでしょうか……。(前回の話はこちら
――――――――――――――――――――――――――――――――

 しばらくするとホームにアナウンスが流れた。まもなく電車が到着するという。ルツ子さんは緊張して生唾をのんだ。手の震えがまたひどくなる。震えを止めようと手を握ると、嫌な汗が手掌全体に広がった。
「大丈夫、大丈夫……」
 ルツ子さんは自分に言い聞かせた。大丈夫、取って食われるわけじゃないんだから。いや、もしかしたら取って食われた方がいいのかもしれない。そしてそのままエリヤのように天まで上っていければ……。いやいや、そんなのやっぱり駄目駄目。
 電車がやって来た。ルツ子さんの前を通過して、徐々に速度を落とす。彼女は風圧で半歩ほどよろけながら、動体視力をフル稼働して車内の様子を確認した。先頭車輌は混雑していたが、徐々に余裕ができ、次第に空席が目立つようになった。そしてルツ子さんの目の前で止まった最後尾の車両はほとんどガラガラだった。
 ルツ子さんは深く息を吐いた。
「ほら、やっぱり大丈夫」
 ドアが開いても誰も降りてこない。ルツ子さんは幾分元気を取り戻して、車内に足を踏み入れた。サッと見回すと乗客はまばらで、空席の方が多い。しかも女性ばかりだ。
 女性専用車両の時間が終わったばかりだから、これは当然と言えば当然かもしれない。ルツ子さんは握りしめた手を緩めた。そして長椅子の端に座った。もちろん座る前に座面を確認するのを怠らない。汚れていたら大変だから。
 一つのハードルを乗り越えた気がした。今日はまだハードルがあるけれど、はじめが肝心だ。この勢いで全てのハードルを軽々クリアしていきたい。
 スマホを見ると9時9分。3駅5分として9時15分には着くだろう。待ち合わせは10時だから、まだまだ余裕だ。さっきの電車を乗り過ごしたのは大した失敗ではなかったということだ。
(いや、むしろこっちが正解だったのかも)とルツ子さんは思った。(さっきの電車に乗ったら何か酷い目に遭っていたのかもしれない。この電車に乗るように、神様がわたしの足を遅めて下さったってことかもしれない……。神様に感謝しなきゃ)
 そしてルツ子さんは目を閉じて、今朝何度目かになる感謝の祈りを小声で捧げた。
 電車の唯一の利点は、小声で祈れることだ。ガタンガタンうるさいから多少声を出しても聞かれないで済む。それ以外に電車に利点などない。少なくともルツ子さんにとっては。
 祈りに集中していて気づかなかったが、次の駅で電車が止まった。そしてドアが開くと、車内に動きがあった。ルツ子さんは何やら気配を感じて、目を開けた(まだ祈りの途中なのに!)。
 すぐ隣に、男性が座っている。
 ルツ子さんは驚いて飛び上がりかけた。いやわずかに飛び上がったかもしれない。え、なんで? ルツ子さんは声に出すところだった。こんなに空いてるのに、なんでわざわざわたしの隣にくるの?
 明らかに不自然だ。席に余裕があるのだからスペースを空けて座るのが礼儀と言うか常識と言うか、他に何と言うべきかわからないが、とにかくそういうもののはずだ。なのにこの男性ときたら(顔など見られないけれど)ぴったり寄せて隣に座っている。肩が軽く触れて、微妙に体温が伝わってくるのが不快でならない。
 ルツ子さんは座り直す振りをして、男性との距離を空けた。仕切り板に体をこすりつける形になったが仕方がない。これで肩は触れなくなった。しかし胸がドキドキする。また手が汗ばんできた。
 すると男性も座り直して、さらにルツ子さんに接近してきた。そしてまた肩が触れ合った。仕切り板と男性に挟まれて、なぜか肩身の狭い思いをするルツ子さん。え、なんで?
 ルツ子さんは思い切って席を立とうかと思った。するとどこかから声がした。いや、聞こえた気がした。
「おいおい、どこに行くんだね」
「一度座った席を離れるとは、失礼な女だな」
「座席はお前のものじゃないんだぞ? 誰がどこに座ろうが自由だろうが!」
「せっかくお前の隣に座ってあげたんじゃないか。感謝しなきゃ駄目だろう。これだから女ってやつは……」
(ご、ごめんなさい! ごめんなさい!)ルツ子さんは一生懸命謝った。(もうしませんから、どうか許して下さい。ごめんなさい!)
 ルツ子さんはいつのまにか暗闇の中にいた。そしてまたどこかへ落ちていくのを感じた。底なしの穴の中へ。あれ、でもここ電車じゃなかったっけ?
 気づくと太腿に、手の感触があった。ゴツゴツした手だ。その手はゆっくり左右に動き、ルツ子さんの太腿をまさぐり、次第に内側に侵入してくるようだった。しかしこの感触が現実のものなのかどうか、ルツ子さんにはよくわからない。
「ふむ、なかなかいい肉付きの脚じゃないか」
「女の脚はある程度太くなくちゃいかん。太さでお産の早さが全然変わるんだから。馬と同じだよ、君」
「この脚だったらいい子を産みそうじゃないか。うむ、合格点をやってもいいな」
 そんな声が内側からか外側からかよくわからないところから聞こえてくる。そうこうしているうちに、手はどんどん内股に入ってくる。ルツ子さんはどうしたらいいかわからない。これだけ謝っているのに……。
 そのときふと、ルツ子さんの右腕が強く掴まれた。か細い手だった。だが力強かった。
「ルツ子、こっちおいで。一緒に座ろう」
 ルツ子さんはいきなりその手に引っ張られ、無理やり席を立たされた。太腿をまさぐる手はそれで離れた。あれ、あの手はやっぱり現実だったのか、とルツ子さんはその瞬間思った。(続く)

2019年7月4日木曜日

ルツ子さんの泣くに泣けないクリスチャン生活【第1話】

――――――――――――――――――――――――――――――――
今週より、『キマジメくんのクリスチャン生活』のスピンオフ作「ルツ子さんの泣くに泣けないクリスチャン生活」をお届けします。全10回ほどを予定しています。本編では知られることのない、ルツ姉妹の苦悩や葛藤を垣間見ることができるかもしれません。毎週木曜日更新予定です。
――――――――――――――――――――――――――――――――

1

 踏切がカンカン鳴った。
 ルツ子さんは驚いて飛び上がりそうになったが、反射的に走りだした。まだ余裕だったはずなのに。時計を見間違えちゃった?
 横断歩道を走り抜け、駐輪場を通ってショートカットし、改札口に突進した。走りながら鞄からSuicaを取り出して、 右手で構える。幸い邪魔になりそうな人はいない。すばやくタッチ1秒、改札を抜けると、まっすぐ階段へ。そのときちょうど反対側のホームに電車が止まるのが見えた。まだ間に合う、きっと間に合う! ルツ子さんは心の中で叫びながら階段を一段抜かしで駆け上がった。長いスカートが脚にまとわりついて邪魔だ(ズボンだったらどんなに良かったか!)。ちなみに階段を一段抜かしで駆け上がる姿は教会の誰にも見せられない。見られたら何を言われることやら。
 階段を上ると、今度は30メートルほどの渡り廊下を駆け抜けた。幸い無人だった。しかし通路が終わって反対側の階段を駆け下りようとして、はたと立ち止まった。電車を降りた人々が群れとなって、階段を上がってくるのだ。ルツ子さんはモーセの杖があったらととっさに願った。この群衆を左右に分けて、乾いた地を走り抜けたい。しかしそんな願いは秒で捨てて階段を駆け下りた。もうなるようになれ!
 そのとき車掌の笛の音が鳴り響いた。ドアが閉まる合図だ。あと少し! ルツ子さんは一段抜かしで階段を駆け下りる。しかし半分下りたところで群衆に飛び込む形となった。さっそく体の大きなスーツ姿の男性に正面衝突しそうになり、ルツ子さんは寸前でかわした。しかしその先にも男性が。向きを変えてもそこにも男性が。八方塞がり。ルツ子さんがキョロキョロしていると、誰かが「チッ」と舌打ちして、彼女の脇を通り過ぎた。
 そのとき、ルツ子さんの中で何かがうごめいた。そして彼女の心臓を鷲掴みにした。いきなり硬直して動けなくなったルツ子さんに、誰かが言った。
「何してんだよ、邪魔だろ」
 いや、そう聞こえただけかもしれない。よくわからない。ルツ子さんにわかるのは、自分が中腰の姿勢のまま、どこかへ落ちていくことだけだった。底なしの穴の中を、どこまでもどこまでも。そしてそんな彼女に向かって、様々な声が上の方から降ってきた。
「なんだこの女は」
「ずいぶん髪の長い女だな。頭髪を失った癌患者に対して失礼だろう」
「こんな長髪は無駄だ。無駄無駄。切ってかつらにした方が社会のためだ」
「おい、誰かハサミを持ってこい」
「いやいや、こんな女の髪は汚れている。かつらになどすべきでない。燃やしてしまえ」
「そうだそうだ、火あぶりだ。こんな女は火あぶりにすべきだ。燃やしてしまえ」
 燃やせ、燃やせ、燃やせ……!
 そんな怒号がいつまでも止まない。ルツ子さんは叫ぼういとした。しかし喉が締め付けられて呻き声さえ出ない。だから声にならない悲鳴を上げた……。
 電車が出発した。ルツ子さんは階段半ばの手すりを掴んだまま、車体が流れて行くのを横目で見送った。人の群れが次から次へ、彼女の横を通り過ぎて行く。
 ルツ子さんは1人ホームに立つと、呆然とあたりを眺めた。またやってしまった。いや、またやられてしまった、と言うべきか。
 次の電車は9時8分。もう女性専用車両の時間は終わりだ。今走り去ったのが最後だったのだ。ルツ子さんは来た道を戻ろうかと思った。しかしそんなことはできない。
 ルツ子さんはホームをトボトボ歩いた。いくつかのベンチを通り過ぎた。座ろうかと思ったが、どれも不潔に見えた。そしてホームの端まで来てしまった。「女性専用車両」と足元に表示がある。
 女性専用車両なんて、もう来ないのに……。
 ルツ子さんは手が汗ばんで、小刻みに震えているのに気づいた。
 いや、女性専用車両でない車両の乗客が全員男性でないことくらい、わかっている。そんなことは確率的にあり得ない。人口の男女比はだいたい50%ずつなのだから、電車にランダムに乗る人たちは多少の差はあれ、男女同数に近くなるはずだ。それが確率論というものだ。
 そうだ、その通りだ……。
 ルツ子さんはそう自分に言い聞かせた。
 これだから外出は、特に交通機関を使った外出は、嫌いなのだ。だいたい碌なことが起きない。無駄に走ったせいで脇が汗ばんでしまったし、髪も乱れている。
「やっぱり帰りたい」
 そう声に出して呟いた。まわりに誰もいないからだ。
 ホームの端に立ち、スマホを取り出した。タイミングよくメールが入っていればいいのに、とルツ子さんは思った。急用が入ったので今日は中止させて下さい、とかなんとか。そうしたらまっすぐ家に帰れるのに。
 しかし当然ながら、そんな都合のいいメールは入っていなかった。つまり予定通りということだ。
 これが神の導きなのだろうか。
「神の導きは時として、わたしたちが好まざるもの、できれば避けたいと願うものだ」と溝田牧師は言う。「しかしだからと言って、意気消沈してはならない。その先に神の大いなる祝福と恵みがあるのだから」
 今日のこれからの予定にも、神様の祝福と恵みがあるのだろうか。ルツ子さんは遠い線路の先を見つめながら、そう考えた。(続く)