神様の為にした「決心」が続かない2つの理由

2013年8月24日土曜日

キリスト教信仰

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 大きな集会に参加したクリスチャンたちが、そこで大いに感動し、いろいろ決心するということがある。

「迷っていたけど、洗礼を受けることにしました」
「これこれの献金を捧げることにしました」
「神様にこの人生を捧げます」
 決心することは、人によってそれぞれだ。

 そうやって信仰に目覚める(?)のは神様の為だろうから、良いことだと思う。しかしよく見るのは、そういう大集会で大決心をした割に、直後から普通の生活に戻っているという姿だ。いや、普通ならまだいいかもしれない。下手すると、いつものようにクリスチャンとしてよろしくない会話や行為を楽しんでいたりする。
 そういうのを見てしまうと、あの涙ながらの祈りや告白は一体何だったのだろうかと、多くの人が思うだろう。そして案外本人自身も、同じように感じていたりする。

 私もそうだけれど、神様に対して決心したことが長続きしない、ということは誰しもよくある。そして意思の弱い自分自身を責めることになる。
 けれど、それは仕方のないことだと私は思う。

 プロテスタントの超教派的な集会に限って言えば、その原因は二つあると私は考えている。

 そういう集会は内外の有名牧師や宣教師を招いて、けっこう大々的に開かれる。そこで大勢で賛美の歌を歌ったり、長い時間祈ったり、ゲストの感動的な話を聞いたり、ゲストに個人的に祈られたりするのだ。その中で多くの人が、感情的な高揚感を体験する(それを「霊的な高揚感」だと言い張る人もいるだろう)。
 問題の一つはここにあって、そういう状態の時に、「神様の為に生きるか、そうでない人生を生きるか」という二者択一を迫られる、ということだ。まるで人生にはそのどちらかしかなくて、片方を選べば片方は選べない、と言われているようである。あらゆる多様性が排除され、「神かこの世か」という単純な二元論に落とし込まれるのだ。

 感情的高揚感(霊的高揚感でもいいが)にある人々はその二者択一しか見えなくなって、どちらか一方を選ぶことになる。そしてそのどちらを選ぶかは明白だ。多くの人が、冒頭のような決心をすることになる。

 もう一つの原因は、その二者択一に「犠牲的精神」という美徳が追加されることだ。
 聖書にある殉教者の例とか、ここ数世紀の殉教者たちの話とかが持ち出されて、「神様の為に命を投げ出すことの素晴らしさ」みたいなものが提示される。高揚している人たちがそれを聞いたらどうなるか、容易に想像がつくだろう。「私もこの命を神様に捧げます」と泣き出す人が複数現れて、その感情が会衆中に伝搬していく。普段それほど熱心でない人も、そういう状況だと「よし、自分も!」とかなる。
 それにこの「犠牲的精神」というのは、とかく日本人には好まれるものだ。そういう精神的土壌の影響も少なくないと思う。

 しかし集会が終わり、いい気分で(彼らは「大いに恵まれた」とか言うだろう)帰っていく。疲れてもいるだろう。ふと冷静になってみると、なんであんなに盛り上がったんだろうと、不思議になるかもしれない。

 もちろんそういう集会で本気で決心して、本気で実行する人もいるかもしれないが。

 信仰は感情でもなく理屈でもない、と私の牧師はよく言っていて、私もそれには同意している。けれど、どうもそういう信仰的決心の場面になると、感情的に高揚させておいて神様の方を選ばせる、というのが私の牧師の手法だったように思える。そしてそれは、私の牧師だけではなさそうだ。
(私はこれを「劇場型信仰」と勝手に呼んでいる。)

 神様の為にこれこれの決心をしたけれど続かない、という人は、その決心をどういうふうにしたか、思い出してみるといいかもしれない。
「とても恵まれた集会」でした「霊的な高揚感」による決心ならば、きっと続くはずだろうし、成し遂げるはずだろうから。

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