「棚上げ」の必要性

2013年8月8日木曜日

雑記

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 議論を尽くすことは重要だ、とよく言われる。けれど、議論を尽くしたから分かり合えるとは限らない。決定的な対立になることもある。

 おおよそ議論の行き着く先というのは、一応の合意点に到達するか、決別するかのどちらかであろう。その決別というのが、単なる物別れで済むならまだいい。深刻な争いになることもある。

 歴史的に見ても、部族間や宗教間、国どうしの戦争というのは絶えることがない。それは、話し合いでは解決できないことがあるという証明であろう。

 誰かと個人的に話すレベルでも、到底分かり合えないというか、そもそも話し合いが成立しない人というのがいる。はじめから立場や価値観や向いている方向が決定的に違っていて、まったく接点がないように感じることが、私にはある(それは相手が悪いということでなく、かといって私が悪いということでもなく、止むを得ない何かによってそうなっているような気がする)。

 そういう一対一の対立というのも、突き詰めれば争いになるだろうし、究極的には殺し合いみたいなことになっていくのだと思う。
 それを避けるには、どちらかが諦めて主張を引っ込めなければならないのだと思う。諦めない限り、決して衝突は避けれらない。

 しかし、例えばこれが宗教間の対立となると、両者とも、「諦める」という選択肢は初めからない。相手を諦めさせることでしか、自分の安全地帯を守る術がないからだ。

 この対立を一切の妥協なしに続けるとしたら、もはや血で血を洗うバトルロイヤルを繰り広げるしかない。けれど、そんなことをしていたら命がいくつあっても足りない。

 争わず、同時に諦めないで済む方法は、「棚上げ」しかないと思う。尖閣諸島を巡る日中間の対立に、若干似ているかもしれない。

「棚上げ」というのは中途半端な、臭いものに蓋をするような行為に思えて、正義感の強い人には耐え難く映るかもしれない。けれど、その「棚上げ」が相入れないものどうしを何となく共存させ、相互理解の可能性を探るための時間稼ぎになるとしたら、あながち悪いものでもないだろう。

 おそらく多くの人が、そういう風に何かを我慢しながら、生きているのだと思う。

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