「正しいこと」は安易に得られるものではない

2013年8月8日木曜日

カルト問題

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 正しいことをしたい、あるいは間違ったことはしたくない、と願う人は多いと思う。

 もちろんいろいろな事情があって、悪事に手を染める人はいるだろう。例えば盗む以外に食べる手段がないとしたら、おそらく多くの人が盗みを働く。けれど、もしそういう事情とか理由とか必要性とかがまったくなかったとしたら、おそらくほとんどの人は、その盗みをしようとは思わないだろう(もちろん、盗みを楽しむ愉快犯はいると思う)。
 あえて悪いことをしようという人は、きっと少ないはずだ。

 あるいは「正義」と「悪」とは相対的なものだと言われるかもしれない。ある人の正義は他人にとって悪になり得ると。それは確かに事実で、例えば牛はヒンズー教では神聖視されるけれど、日本では食材の一つでしかない。けれど、やはりそれぞれが正しい(あるいは間違っていない)と信じていることをしているのだ。

 こうは書いても性善説を推すつもりはなく、人には悪事を厭わない性質があると私は思っている。けれど同時に、誰の心にも善でありたいと願う部分が(わずかかもしれないが)あるとも思っている。
 その結果、本当に善であれるかどうかは別問題だが。

 とにかくそういう訳で、人はできる限り正しくあろうとするものだと、私は考えている。

 が、何にでもバランスは必要だ。絶対に正しくなければならないと頑なに思い込んでしまうのはかえって危険だと思う。
 例えばそういう人が新興宗教の勧誘を受け、いわゆる「ラブシャワー」の洗礼を受けてすっかり心酔してしまったらどうなるだろうか。その宗教の教義を絶対の正義・真実と信じて生きていくことになる。その宗教が社会的に無害であればいいけれど、悪意を秘めているとしたら悲劇だ。彼は絶対だと信じているものによって、何かを破壊してしまうことになる。

 例えばキリスト教を標榜する教会でも、同様の危険性はある。そこの牧師なりリーダーなりが欲にかられ、教義をうまく利用した私利私欲事業を始めてしまうかもしれない。そこの信徒はそれを絶対に正しいと信じているから、事態は複雑なものになる。

 聖書を深く学べば学ぶほど、解釈に揺れる部分が見えてくる。AかBか、その決定打がない事柄というのは少なくない。それをAだ、あるいはBだと決めつけて信じるのは一つの手ではあるけれど、視野を狭めることになりかねない。それにそれは、一つの可能性だけを取り上げ、もう一つの可能性を潰すということでもある。私はそれは間違っているのではないかと思っている。

 正しくありたいと願うのは素晴らしいことだ。それを実行できる人は意外に少ない。
 けれど、それが本当に正しいかどうか断定できないことはたくさんある。もしかしたら自分の信じているものが間違っているかもと考えるのは、不信仰と思われるかもしれないが、私はそうは思わない。逆に信仰を吟味する真摯な姿勢だと思う。

 それはカルト被害を防ぐ方法でもあるだろうし、それだけでなく、人生を生きるうえで大切な考え方であろう。「正しいこと」は安易に得られるものではない。ある意味それは、生きる限り探し続けるものなのかもしれない。

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