恵みが恵みでなくなる瞬間:日本人の「恩返し精神」のデメリット

2013年8月11日日曜日

キリスト教信仰

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 キリスト教信仰の大きな特徴を一つ挙げるなら、「恵み」の概念があると思う。

 イエス・キリストが十字架で、全人類の(そして私個人の)罪の罰を代わりに受けて下さった。私たちはそれをただ信じるだけで、罪を許され、死後に魂が天国に導かれる、というのが「救い」の教理だ。

 ポイントは「ただ信じるだけでいい」という、一切の要求がないところだ。救いを受けるためにしなければならない行動というか、ノルマというか、そういうものはない。何もしないで救われる。だから「恵み」と言われている。

 私はあらゆる宗教の教理を知っている訳ではないから断言できないが、基本的に宗教は人に対して、「救われるための行い」を要求するものだと思っている。仏教とヒンズー教なら「解脱」、イスラム教なら「六信五行」、ユダヤ教なら「律法」といった具合に、「〇〇しなければ救われない」というルールがある。仏教の「解脱」というのは、それを達成するまで人は何度でも生まれ変わる、というものらしい(他宗教のことは教科書程度の知識なので、間違っていたら勘弁してほしい)。

 一方、キリスト教にはそういうノルマはない。
「でも大宣教命令があるじゃないか」とか「世界管理命令があるじゃないか」とか言う人がいるかもしれないが、それらの命令は救いの条件ではない。順番が逆だ。大宣教命令を実行したから救われるのでなく、あくまでイエス・キリストを救いの神として信じるから救われるのだ。
 そして信じて救われた結果、その感謝として、また情熱として、大宣教命令に向かっていくのだと思う。

 こういう「一方的な恵み」は、日本人にはあまり馴染みがないだろう。義理を果たすとか恩義に報いるとか、礼節を重んじるとか義理人情とかいう言葉があるように、日本文化には「ただでしてもらうわけにはいかぬ」という恩返し的精神がある。自分自身を見てみてもそう思う。

 そういう日本人に「これは恵みだからあなたに差しあげます」と言っても、単純に受け取ってもらえないことが多いような気がする。あるいは受け取ったとしても、「何かしなければ」「恩返ししなければ」と思ってしまうのではないだろうか。そしてその結果律法的になって、「〇〇しなければならない」という発想になってしまうのではないだろうか。
 今日のキリスト教会の律法主義的傾向は、そういうところにも根があると私は考えている。

 さらにそれを突き詰めていくと、「大宣教命令を遂行しなければ救われない」という極端な、間違った教理が生み出される危険性につながる。現にそういうことを言っているクリスチャンたちはいる。彼らはおそらく熱心な信仰者なのだろうが、その熱心さが間違った方向に突き進んでしまうとしたら、たいへんな悲劇だ。

 ここにも、「趣旨がちゃんと伝わらない」現象が見られる。ただしこの場合は人と人とでなく、神と人との間でのことだ。神がこうと言うことに、人間がいらぬ付け足しをしてしまう。結果、見当違いな自己満足的信仰になってしまう。

 もちろん、日本人のそういう「恩返し気質」は、美徳でもある。日本が世界に向けてアピールできる特徴だし、素晴らしい模範だと思う。それはそれで失ってほしくない。

 けれど同時に、その気質がもたらす弊害にもしっかり目を向けるべきだと思う。時に恩返しを捨て、「恵み」を「恵み」として受け取る柔軟さがないと、「日本はいつまでたってもキリスト教が広まらない国」と言われ続けてしまう気がする。

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