クリスチャンの敬虔さとは

2013年8月5日月曜日

キリスト教信仰

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 クリスチャンの「敬虔さ」を測るのは、難しい作業だろう。
 まず何をもって敬虔と言うべきか、そこから議論になるのではないかと思う。

 私が教会で教わってきた基準をあえて書くならば、その敬虔さとは「主との交わりの深さ」ということになる。主と深く交わる人ほど信仰深く、霊的で、敬虔だと評される。
 もちろん、そこには「交わり深さ」をどう測るべきかという、また別の議論がある。けれど、この記事の趣旨はそこを明確にすることではないので、ここでは単に「どれだけ祈ったか、聖書を読んだか、瞑想したか」とかいう神様に対する内省的行為を「主との交わり」と呼びたい。

 この主との交わりは、基本的に時間がかかる行為だと思う。忙しい現代人には、その時間をどうやって捻出するかは大きな課題であろう。ある人は睡眠時間を削って聖書を読むかもしれないし、ある人は趣味を減らして祈るかもしれない。またある人は、それほど忙しくない仕事に転職して主との時間を持つかもしれない。
「交わりの深さ」を求めるなら、そういう時間的犠牲は絶対必要になる。したいことを何か諦めないと、難しいだろう。

 私の教会では、敬虔さとはそういうふうにして得るものだった。すなわち、そういう時間的犠牲を払って聖書に親しみ、よく祈り、御声を聞こうと努める過程の中で、人はいつしか敬虔になっていく、ということである。

 そして敬虔になった結果どうなるかと言うと、牧師の言葉を借りるなら、「主によく用いられる器」になる。つまり、いろいろな奉仕で「活躍」するようになる、忙しくなる、ということだと思う。

 そうなると、一つ単純な問題が生じる。用いられて忙しくなった結果、敬虔さを支える「主との交わり」を持ちづらくなってしまうのだ。主と交わるほどよく用いられ、よく用いられるほど主と交われなくなる、という二律背反的な、ヘビが自分の尻尾をどんどん食べていくような、ヘンテコなことになってしまう。

 これは私の教会でも大きな課題だったし、熱心な人ほどその答えを探し求めて葛藤していた。結局、私を含めて誰もその答えを見つけられなかったようだけれど。

 多少の差はあると思うけれど、この二律背反の問題は、あらゆるキリスト教信仰、ひいてはあらゆる宗教信仰に潜在しているのではないかと思う。
 と、言ったら大げさだろうか。

 話を大きくしてしまったようだけれど、実は私なりの答えというのはある。
 私の教会の前提を無視することになるが、敬虔であろうとなかろうと、忙しくて何もできなくなるくらい活躍する必要はない、ということだ。

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