これまで「カルト」というと、私は怪しげな新興宗教をイメージしていた。けれど、今では同様の怪しさ(というか破壊性)が、キリスト教会にも宿るということだろう。
関わる者を結果的に傷つけ、その人生を破壊していくとするなら、それはキリストの愛を語るニセモノと言わざるを得ない。そのうえ「キリスト教会」を名乗る分、罪は大きいのではないだろうか。
このカルト化教会というのは、「普通だった教会がカルトと化し、以前とは似ても似つかないモノになってしまった」みたいに認識されていると思う。つまり、不幸にも悪い方に転んでしまった、何か間違いが起こってしまった、ということである。
しかし、実際にそれを経験した私としては、それは間違いとか不運とかではなく、なるべくしてなったようにしか思えない。聖書の毒麦の例みたいなもので、成長してその本性がハッキリ現れた、と表現した方がしっくりくる。
もちろん、初めからそれがわかっていた訳ではない(わかっていれば行かなかっただろう)。初めはその毒が小さく、かつ自分の知識も経験も今よりもっと不足していたから、見抜けなかったのだと思う。
今にして思うと、その「小さな毒」というのを私はわずかな違和感として感じていた。しかし自分が不信仰なせいだとか、未熟なせいだとか、そういうふうに思っていた(そう思わせられていたのかもしれない)。
その小さな毒(違和感)をいったん見過ごしてしまうと、その後それが徐々に大きくなっていっても、もう毒として認識することはできないだろう。鍋に入れられたカエルが、沸騰するまでそれに気づかないのと同じようなものだ。
ハタから見るとおかしなことも、当事者にはそうではない、ということがある。
教会が解散に至るまでの数年間、その「毒麦」は非常に大きなものに育っていたと思う。
例えば「霊的戦い」が盛んになっていて、私たちは「日本を解放するため」に各地に祈りに行っていた。都内を巡ったこともあった。牧師によると、どうやら東京は、江戸時代の某将軍が張った「結界」だらけで、それが縛りとなって主からの祝福がとどめられてしまっているらしい。それを解放するのが私たちの役目だと、牧師が例の「劇場型メッセージ」で語り、私たちはバカ正直に解放を宣言して祈っていた。
今なら、「ここ教会だよね、陰陽師の集いじゃないよね」と突っ込めるが、当時は「私たちこそ神のしもべ、日本の解放者。これは他の人々にはまだ理解できない真理だ」と信じていたからタチが悪い。
他にも、「事業がうまくいかないのは某秘密結社が邪魔しているからだ」とか「何年何月に大地震が起こる」とか、もはや聖書的でないどころか、正気とも思えないような事柄が真剣に信じられるようになっていた。
この状態の恐ろしい点は二つある。一つは、キリスト教信仰であってもここまで暴走してしまうという点。もう一つは、それを暴走などとは微塵も考えないという点だ。
という訳で、「カルト化教会」というのは、普通の教会がダークサイドに堕ちてしまったというより、初めからそうだったものが顕在化しただけなのだと思う。
そしてそれが顕在化する前に見抜けたとしたら、クリスチャンとして正しい判断力を持っている証拠であると思うし、私たちはそれを持たなければならないのだと思う。