「愛かカネか」に見られる二元論の危険性

2013年8月13日火曜日

キリスト教信仰

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「愛とカネ、どっちを選ぶか」というテーマが、一昔前にドラマや映画で流行っていたと思う。
「貧乏だけど本当に愛している彼」と、「愛せないけどカネは持っている彼」のどちらを選ぶか、というような構図だ。ジェームズ・キャメロンの「タイタニック」も、同じような構図を持っていると言える。

私は単純に、「そりゃ愛だろう」と思っていた。いろいろなドラマや映画を見ても、どうやらそれが正解のようだった。「最後は愛だよ」とか「カネで買えないものがあるよ」とかいう表現も、耳タコなくらい使われていた。

けれど今の私は、少し違う答えを持っている。
教会の運営に問題が生じ、おカネがどこにもまったくない状態というのを経験して、考え方が変わったからかもしれない。

この「愛かカネか」というテーマは、少々乱暴な二元論ではないかと思う。なぜなら愛を取るならカネはゼロ(反対に言うなら、カネを取るなら愛はゼロ)という状況は、現実的でないからだ。

どんなに愛し合っていても、カネがなければ生活できない。愛があってもカネは必要だ。それに本当に愛しているなら、相手も自分も困らないよう、実際的な努力をしようとするはずだろう(それが愛でもある)。何の努力もしない、だけど愛している、というのは単なる偽善かアホだと思う。

逆にカネが豊富にあるから、愛が反比例的に減少していくということもない。もちろんカネで狂う人はいるけれど、愛の有無とカネの有無とは、基本的に因果関係はないはずだ。

そう考えると、この「愛かカネか」というテーマは、物語向けにわかりやすくデフォルメされた二元論でしかないような気がしてくる。

もちろん、その概念が言いたいことはよくわかるし、そういう究極的な選択を迫れらる時もあると思う。
子どもの身代わりとなって死んでいった親というのは、いつの時代にもいる。そうやってカネを含めた全てを捨てて、愛する者を守るというのは素晴らしいことだし、正しいことだと思う。けれど、そういう究極的な選択を毎日する訳にはいかない。

もしそういう二元論が日常的になっているとしたら、注意が必要だと思う。

例えば聖書は、「神と富の両方に仕えることはできない」と確かに言っている。けれどこれを利用して、「だからカネを持ってはいけない。捧げなさい」と教会が言ったとしたら、それは行き過ぎだろう。どちらか片方しか選べない、究極的な二元論に日常的に持っていくのは横暴でしかないと思う。
聖書をよく読むと、人間にとって金銭が必要であると認めていることが、すぐにわかるはずだ。

人間というのは、勧善懲悪的に白黒はっきりさせにくい存在だと思う。心は複雑なものだし、いろいろな感情や思考が潜在している。それをイエスかノーかで割り切るのは、確かに時として必要だろう。けれどそれに終始してしまうとしたら、複雑さも奥行きもない、およそ人間らしくない人間になってしまうのではないかと私は思う。

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