「劇場型信仰」の落とし穴

2013年8月25日日曜日

カルト問題 キリスト教信仰

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前回「劇場型信仰」について書いたが、この信仰の在り方は大きな問題を孕んでいるだろうと思う。

教会がカルト化してしまう原因の一つは「体験主義」にあると私は常々考えている。賛美を歌う中で不思議な力を感じたとか、牧師に按手されて安心感を覚えたとか、そういう感情的体験の連続を「霊的体験」と思い込み、それによって信仰が成長した、霊的になった、と思い込んでしまう。そこにある神経学的・心理学的作用を考慮することがない。結果、信徒たちは更なる献身・献金に走り、牧師に完全服従する「牧師崇拝」に陥ってしまう。この構図は、カルト化教会に共通していると言える。

この体験主義には、「劇場型信仰」(と私が勝手に命名している)も深く関わっていると思う。つまり礼拝や教会行事で「感動」することで、「神様を体験した」と思い込んでしまうということだ。

かつての教会の礼拝の説教を思い出してみても、いちいち感動させるような演出が多かった。例えば、「私が落ち込んでもうダメだと思った時、神様がこれこれの方法で私を励まして下さった」とか「ギリギリの状況で神様が助けて下さった」とか、牧師が涙ながらに熱く語る。よくよく考えてみると聖書が全く引用されない説教なのだけれど、涙に濡れる会衆(私も含めて)に、そんなことに気づく余裕があっただろうか。

が、それは説教だけでは終わらない。礼拝の最後に「招き」の時というのがあって、説教に応答したいという信徒たちが、講壇の前に集まる。そこで順番に牧師の按手を受ける。そこでは牧師が信徒に「個人預言」することもあって、例えば「私はあなたのことを理解している、あなたの苦しみを全て理解している、と神様が語っておられる」とかと優しく語りかけられる。真面目な人は、それだけでも涙腺崩壊である。

とにかくいろいろな形で感動させられ、「だから神様に従うのが一番なのだ。そして神様は今、これこれを語っておられる!」と牧師に迫られて、皆最後は涙ながらに祈ったり叫んだり。

そんなふうな感動のオンパレードの礼拝が、毎週繰り広げられる。
ある人はそれを「いのちに溢れた教会」とか「生きた神様に出会える教会」とか表現するかもしれないが、私には、単に感動させて感情を盛り上げているだけのような気がしてならない。

純粋な信徒たちは、そういう形であっても「素晴らしい教会で素晴らしい礼拝をしている」と信じるだろう。確かに、そういう体験や感動も必要だと思う。「理解されている」という安心感も、人間として必要だと思う。

けれど、そこに聖書理解の蓄積と、それに基づく健全な視点や判断経験の蓄積がなく、ただ日々感動しているだけだとしたら、その教会生活や信仰生活には、一体どんな未来が待っているだろうか。

いいえ、私たちの教会は聖書の学びも弟子訓練もやっているし、みんな確実に成長してきている、と主張する人はいるだろう。それはそれで良いことだと思う。けれど、いつまでたっても牧師の判断を仰がねば判断できない、確信できない、決められないとしたら、その聖書教育には大切な何かが欠けているということになる。

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