礼拝説教で「語られたことを日々実践」する方法とその意味について考えてみた

2013年8月23日金曜日

キリスト教信仰

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 多くの教会は日曜に礼拝をする。そこでは牧師が説教をする。その説教のテーマはいろいろあるが、牧師が決めたり役員会みたいなものが決めたりする。

 その説教を聞くというのも、礼拝行為の一つであろうと私は思っている。そのテーマがたとえ人為的に決められたとしても、究極的には神様からのメッセージとして受け取る。それが信仰というものだろう。

 だから信徒は、毎週神様の言葉を聞けるということになる。それはいわゆる「恵み」だろう。悩んでいる人には、それが何らかの指針にもなり得る。そうでなくても「語られたことを日々実践」するためのキッカケにはなる。

 しかしその「恵み」が十分に機能しているかと言うと、いまいち怪しいところがある。
 知り合いの牧師の言を借りるなら、

誰も先週の説教内容なんて覚えていない

 ということになる。
 もちろん全員が全員そうという訳ではないだろう。けれど、そういうことは残念ながら多いだろうと、私も経験的に感じている。

 週報には説教内容をメモする欄があったりして、それに書き込む人も多いと思う。けれど、それをどれだけの人がマメに見直すだろうか。私は年一回くらい、整理がてらに見直す程度だ。それでも見直さないよりはマシだろうが、「語られたことを日々実践」するという観点からすると、まったくダメだと思う。

 それに、説教中にメモなど取らないという人もいるし、優雅に船を漕ぐという人もいる。

 おそらく多くの人が正直なところ、語られることをそれほど期待していないのだと思う。あるいは聞きはするが、心に留めようとは思っていない。あるいは実践しようとは思っていない。それを真剣に実践しようとするのは、本当に悩み苦しんでいる人たちに多い。

(こう書くと熱心なクリスチャンの方々に怒られそうだから、あくまで私自身のダメさを暴露する話として読んでいただきたい。)

 それが本末転倒であることは間違いないけれど、クリスチャンとして真剣に生きようとするのでなければ、それほど問題ではないと私は思う。働くことと、自分の仕事に対して真剣なこととは違う。それと似たようなものではないだろうか。本末転倒なことなど世の中には沢山あるのだから、教会の中にあってもべつに不思議ではない。

 その上であえて書くけれど、説教内容を日々実践しようとするなら、その全部でなく、どれか一つをつまむ程度が良いと思う。

 説教を30分も40分も聞いていれば、誰でもどれか一つは心に響く部分があるだろう。それが本筋から逸れた部分だとしても、心に響いたなら「語られた」と思っていい気がする。あとはその一点を心に残しておけばいいと思う。覚えてさえいれば、それを実践するチャンスもある。

 たとえそのチャンスがなかったとしても、覚えていただけでも十分だと思う。私のように覚えてさえいない人の方が、圧倒的に多いのだから。

 ただし、そうやって「語られたことを日々実践」した結果どうなるかは、また別の話だろう。それはクリスチャンとして最終的にどうなりたいかという、案外究極的な話につながっていくと思う。

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