クリスチャンは何が「特別」なのか

2013年8月22日木曜日

キリスト教信仰

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 クリスチャンという存在は良くも悪くも「特別」だろうと思う。
 前回の記事で言うなら、一般人にとってクリスチャンとは「心の弱い人たち」なのかもしれない。

 けれどクリスチャン側にはおそらく、そういう否定的な認識はない。むしろ良い意味での「特別」感を持っている。

 例えば私のかつての牧師は、クリスチャンを「この世を超越したハイレベルな存在」と言っていた。金持ちや権力者を妙に意識していたから、対抗意識みたいなものがあったのだと思う。「私たちクリスチャンこそ、この世に影響を与える存在だ」と強調していた(それが各種事業を展開させる原動力であっただろう)。

 それに近い心理構造だとは思うが、クリスチャンを「繁栄の存在」と信じる教会もある。クリスチャンは何がなんでも繁栄していなければならない、繁栄しないのは罪等の問題があるからだ、いうのがその言い分だ。彼らにとって、労せずして富を得ることは「強い信仰」とか「成熟した信仰」ということになるだろう。

 あるいは、クリスチャンを「罪のない清らかな存在」と信じる教会もある。それは基本的に間違っていないけれど、「私は罪を犯したことがない」とまで牧師が言い張るのを聞いては、いささか心配にもなる。彼らにとって「互いに罪を言い表す」というのは不可能ではないだろうか。と言うより、そもそもそういう概念がないかもしれない。

 それに関連して、クリスチャンは「何でも許されている存在」と信じる教会(というかクリスチャン)があるかもしれない。それも基本的には間違っていないと思うけれど、人に暴言を吐いて謝らないとか、間違いを認めないとか、約束事を平気で破るとか、そういう悲しい事例を見ていると、「許し」に関して聖書を読み直すべきではないかと思ってしまう。

 私は、クリスチャンは「より高次な倫理観を備えなければならない存在」だと思う。マタイ5章から7章はクリスチャンには有名だろうが、例えば「兄弟に腹を立てただけで裁かれる」と書いてある。この一事を達成することに比べたら、繁栄する方がまだ容易な気がする。

「繁栄」とか「罪がない」とか「許されている」とかいうのも、クリスチャンとしての「特権」だろう。それを享受することも聖書的だと思う(繁栄というのはちょっと疑問だが)。
 けれど、それと同時かそれ以前に必要なのは、そういうクリスチャンとして持つべき倫理観を得ようと努めることだと思う。

 クリスチャンの「特別」さとは楽しいことや嬉しいことばかりではない。むしろ大変なことの方が多いのではないかと思う。
 もちろん、真面目にクリスチャンをやろうとするならの話だが。

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