「ヤベツの祈り」に見られるハウツー式祝福取得根性

2013年8月30日金曜日

キリスト教信仰

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 もう一昔前のことだが、「ヤベツの祈り」というのがキリスト教書店から出版された。
 聖霊派の諸教会ではかなり流行ったのではないかと思う。もしかしたら他教派でもそうだったかもしれない。私の教会も例外ではなかった。

 その本の要点は、第一歴代誌4章10節にのみ登場する、ヤベツという人物の祈りにある。不幸な身の上だったらしい彼は神に祝福を求め、聞き入れられた。だから彼のように祈れば、私たちも祝福される、という訳だ。

 それはそれで間違いではないと思うけれど、何だか違和感があったのは覚えている。本は読んだけれど、実践しようとは思わなかった。当時「ヤベツの祈り」はあちこちで耳にしたけれど、私は気に留めることもなく、いつの間にかすっかり忘れていた。

 今にして思うと、「ハウツー本みたいだな」というのが私の違和感の正体だったような気がする。釣りのハウツー本は「どうやったら釣れるようになるか」を解説しているはずだが、それと同じように「ヤベツの祈り」というのは、「どうやったら神の祝福を受けられるか」を解説しているように思える。

 もちろん、神様の祝福を受ける条件・受けられない条件というのは聖書に書かれている。「神を認めるなら何をしても栄える」とか「悪を行う者は滅びる」とか、探せばキリがない。そして祝福を受けられない条件について言えば、それらは絶対条件だと判断できる。しかし、祝福を受ける条件というのは、絶対条件ではないような気がする。少なくとも、「それをすれば必ず、願ったことがかなえられる」という絶対的な約束ではないのではないか。

 そう考えると、「ヤベツの祈り」という書籍は、やはり神様を相手にした(あるいは利用した)ハウツー本ではないかと思えてしまう。その「神様」というのは人格のある生きた存在でなく、祝福を吐き出す自動販売機みたいな存在だ。

「神様は今もリアルに生きている」というのがキリスト教の重要な教理のはずだが、その書籍によると、そうではないということになる。

 また、その本が単なる流行で終わったしまったという点も見過ごせない。新しく開かれた真理などでなく、皆でのっかっただけのブームなのではないだろうか。




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