聖霊派の諸教会ではかなり流行ったのではないかと思う。もしかしたら他教派でもそうだったかもしれない。私の教会も例外ではなかった。
その本の要点は、第一歴代誌4章10節にのみ登場する、ヤベツという人物の祈りにある。不幸な身の上だったらしい彼は神に祝福を求め、聞き入れられた。だから彼のように祈れば、私たちも祝福される、という訳だ。
それはそれで間違いではないと思うけれど、何だか違和感があったのは覚えている。本は読んだけれど、実践しようとは思わなかった。当時「ヤベツの祈り」はあちこちで耳にしたけれど、私は気に留めることもなく、いつの間にかすっかり忘れていた。
今にして思うと、「ハウツー本みたいだな」というのが私の違和感の正体だったような気がする。釣りのハウツー本は「どうやったら釣れるようになるか」を解説しているはずだが、それと同じように「ヤベツの祈り」というのは、「どうやったら神の祝福を受けられるか」を解説しているように思える。
もちろん、神様の祝福を受ける条件・受けられない条件というのは聖書に書かれている。「神を認めるなら何をしても栄える」とか「悪を行う者は滅びる」とか、探せばキリがない。そして祝福を受けられない条件について言えば、それらは絶対条件だと判断できる。しかし、祝福を受ける条件というのは、絶対条件ではないような気がする。少なくとも、「それをすれば必ず、願ったことがかなえられる」という絶対的な約束ではないのではないか。
そう考えると、「ヤベツの祈り」という書籍は、やはり神様を相手にした(あるいは利用した)ハウツー本ではないかと思えてしまう。その「神様」というのは人格のある生きた存在でなく、祝福を吐き出す自動販売機みたいな存在だ。
「神様は今もリアルに生きている」というのがキリスト教の重要な教理のはずだが、その書籍によると、そうではないということになる。
また、その本が単なる流行で終わったしまったという点も見過ごせない。新しく開かれた真理などでなく、皆でのっかっただけのブームなのではないだろうか。
ヤベツの祈りは昔から聖書に記録されていますから、別に新しい発見でも何でもありません。本は単なる流行だったかもしれませんが、実践に開かれて続けている人達はそれなりにいらっしゃいます。
返信削除ハウツーというよりは、信仰の原則でありましょう。ユダヤ人たちはその姿勢を持てなかったためにバアルなどに頼ったわけで、ヤベツの祈りはそれと好対照ということになります。
別に主の祈りのように、祈りのトラックとして用いる必要はありませんし、祈願の形よりは信仰告白の形で祈るべき部分も有るなとは思います。
私たちを執り成し手として召された主の御心を思えば、ヤベツの祈りを用いて他人の祝福を祈る実践へと発展させられるべきではないかと考えます。
所謂「ヤベツの祈り」に限らず、同じ言葉をただ繰り返すような祈りは慎むべきであると考えます。
返信削除それは、機械論的・魔術的因果律によって神をとらえるということであり、神の主権と権威を消極的に拒否しているものであり、魔術的なものだと言えます。
その意味では、「主の祈り」も場合によっては魔術的な祈りにもなり得ます。
しかし、本当の「ヤベツの祈り」とは、祈りが聞かれるための条件的なものではなく、神に対する熱心の故に強く祈り、その姿勢がよしとされたので祈りが聞かれた、というものではないかと私は思います。
祈りが聞かれるのには、確かに条件があると思いますが、その主権が完全に人間側にあるとは考えられず、また思えもしないのです。