キリスト教会のために祈るムスリム

2013年8月19日月曜日

キリスト教信仰

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 エジプトのクーデター政権とそれに反対するデモ隊との衝突の様子が、日本でも報道されている。死傷者数は増える一方である。
 ネットを見ると報道姿勢に問題ありとのことだが、一つのツィートが印象に残った。


 それによると、キリスト教会が守られるためにムスリムたちが祈っているとのことだ。暫定政権を支持するキリスト教会がイスラム勢力の一派(原理主義らしい)から襲撃を受けていて、それを是認できない一般のムスリムたちがキリスト教会を囲い、祈っている、ということらしい。

 つまり、イスラム教徒がキリスト教徒を守ろうとしてる、ということだろう。これは絶対ガセだと私は思った。何故なら私が聖霊派教会で熱心だった頃、ムスリムと言えば「敵の中の敵」みたいなものだったからだ(今にして思うと、その根拠はどこにもない)。もしムスリムたちが残らず滅びたとしたら、当時の私たちは諸手を挙げて「ハレルヤ」と叫んだことだろう。

 だからクリスチャンにとって、ムスリムのために祈るなど思いつきもしないのではないか。少なくとも私の教会ではそうだった。
 しかし、その逆は存在するらしい。

 確かに、そのツィートのソースも検証されるべきかもしれない。けれどそのツィートに対する好意的なコメントの数々を見ていると、それが事実かどうかより、そう願っている人々が存在するという事実の方が重要ではないかと思うに至った。

 少し前になるが、トム・クルーズ主演のSF映画「オブリビオン」を劇場鑑賞した(ネタバレ注意)。
 トム・クルーズ演じるジャックは、地球上のエイリアンの残党を退治する監視人みたいな存在なのだが、実は彼の方が監視されていて、敵と思っていた存在が味方だった、というのがタネだ。

 これは映画だけの話でなく、実際にもあると思う。好ましくない人物が味方になってくれたり、その逆もあったりする。敵と味方は入れ替わることがある。クリスチャンの人間関係だってそうなのだから、異宗教間の人間関係もそうだろう。あの宗教の人間は敵、この宗教の人間も敵、と一方的に決めつけるのは狭量すぎる。

 それに敵だとしても、その不幸を喜ぶというのはダメだろう。
 日本で神社仏閣やモスクが襲撃されたとしたら、キリスト教会やクリスチャンたちはどうするだろうか。罪深い異教徒たちには当然の報いだと、高みの見物に徹するだろうか。
 もしそうだとしたら、そこにこそ日本にキリスト教が広まらない理由があるような気がする。

追記)
 そのムスリムの方々が「敵のために祈れ」を実践しているとしたら、クリスチャンこそ見習うべきだと私は思う。


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