伝道にならない伝道集会

2013年8月14日水曜日

キリスト教信仰

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 プロテスタントの聖霊派や福音派が特にそうだと思うけれど、「伝道集会」というのを時々開いている。教会を一般に開放し、未信者の方々を招いて、聖書の神様を知ってもらおうというのが主旨だと思う。一番いいのは、集まった未信者の方が信者になることかもしれない。

 新約聖書に「大宣教命令」というのがあって(その言葉がそのまま書かれている訳ではない)、全世界に福音を伝えることが、クリスチャンの使命とされている。だからその命令を実行したくて伝道集会を開くのだと思う。それはそれで良いことであろう。
 それで多くの未信者が信者になるなら、日本のキリスト教界も活発になっていいだろうと思う。

 けれど、全ての教会の伝道集会を見た訳ではなく、また全ての教会が伝道集会をしているかどうか知らないが、私が見てきた伝道集会というのは、ほとんどが残念なものばかりだった。

 何が残念かと言うと、未信者がほとんど来ないことだ。そこにいるのは大多数が信者で、未信者はほんの一握り、しかも信者の知り合いとか親族とかばかりだ。
 だから伝道集会と言っても、普段の礼拝が少しオープンな感じになっただけ、とも言える。

 これは例えるなら、コンサート会場でコンサートを開いたけれど、スタッフばかりで観客がほとんど入らなかった、というようなものだ。あるいは何かのセミナーを開いたけれど、会場内はスタッフばかり、講師はどこにいるかわからない来場者に向けて話す、というようなものだ。

 これは、一般的に言うなら明らかな失敗だろう。大企業が開催した大規模なイベントであれば、担当者のクビが飛ぶかもしれない。

 伝道集会を開く教会の苦労は、私もよく知っている。多くの信徒が純粋な気持ちでそれに関わっていることも知っている。だからこそ言いたいのだが、それは残念ながら「空を打つ拳闘」ではないだろうか。伝道集会と言いながら、ほとんど(あるいはまったく)伝道できなかったとしたら、そうだと思う。

 あるいは、一人か二人には伝道できたのだからそれで良しとすべきだよ、数じゃないよ、質だよ、聖書も一匹の迷った羊が見つかれば喜ぶと書いてあるじゃないか、と言うかもしれない。
 けれど「伝道集会」と題しておいて未信者が集まらなかったという事実を、真剣に受け止めるべきだと思う。個人伝道で一人に伝道できたら素晴らしいけれど、伝道集会で一人二人しか集まらなかったら、それは集会としての破綻を意味しているからだ。
(それでも破綻しないのは、多くの信徒が義理で参加しているからにすぎない。)

 かくいう私も長年、伝道集会とはこういうものだと思っていた。つまり未信者はほとんど来ず、いつものメンバーで、いつもとちょっと違う雰囲気で礼拝をするもの、という認識だ。

 そういうことを十年以上見てきたけれど、主催者側が反省するとか、改善を試みるとか、そういう姿は見たことがない。

 また一般企業で例えるが、これは赤字経営なのを知りながら、何の改善もせず何年も同じことを繰り返しているようなものだ。
 おそらくそんな企業に融資する銀行はないだろう。

 という訳で、伝道集会を開こうという教会の姿勢には頭が下がるけれど、本当に伝道する気があるのだろうかと、私は不思議に思っている。

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