話の趣旨が伝わらず、枝葉末節ばかりが突かれるのは酷いことだ。けれど、そういうことは残念ながらよくある。その背景には主義主張の違いもあるが、それ以上に敵意が存在している場合がある。
と、いうのが以前の記事の趣旨である。
この「敵意」というのは、コントロールが難しい感情の一つではないかと思う。キリスト教団体の内部をいくつか見てきたけれど、まとまらない議論の背後には、やはり個人的な敵対関係が存在することが多かったと思う。
意見はそれぞれ違っていて当然だが、それを擦り合わせるのが議論の役割の一つであろう。キリスト教団体であるなら、聖書の基準に照らし合わせつつ、ある程度の妥協点を見出していくべきだろう。
けれど、互いに(あるいは一方に)敵意があると、妥協点も解決案も見出せなくなる。あるいはどちらか一方が、全面的に妥協しなければならなくなる。どちらもストレスフルなことだ。
そこでもし自分の中にある敵意に気づき、捨てることができるなら、事態は改善するだろう。けれど多くの人が、「自分は間違っていない」と信じている。自分が正しいと思っている以上、過ちに気づくということはあり得ない。
こういうことは、いろいろな団体に当てはまると思う。現在の日中問題や日韓問題にしても、両者にははじめから敵意が存在しているように思える。
日本国憲法を変えて正当な軍事力を持とうとする動きも、そういう敵意の延長線上にあると言ったら、言い過ぎだろうか。
聖書には、「キリストは全ての敵意を廃した」という箇所がある。クリスチャンがキリストの言葉を体現すべき存在だとしたら、まずはクリスチャン自身がそういう敵意から解放されるべきだろう。そして敵意に邪魔されない議論をすべきだろう。
それができないとしたら、それは日本のクリスチャンの未熟さの現れではないかと思う。
もちろん私自身も含めての話だが。
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