他宗教の信者を許容することと、その神を許容すること。

2013年8月2日金曜日

雑記

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  作家・塩野七生氏の著書の一節を自動ツィートするbotアカウントがあって、私も拝見している。興味深いツィートがあった。

 ある人の神を許容することは、その人自身を許容すること、ということだろうか。
逆に言うと、その人の神を許容しないなら、その人自身を許容しないことになる、ということだと思う。

 私の教会ははるか以前、公園伝道を盛んにしていて、私も行ったことがある。
「神様が世を愛されたから、私たちもこの地域の人々を愛するべきだ。そして真の神様を伝えるべきだ」ということを伝道前に教えられた。それはそうだと納得して、未信者の人や他の宗教の人を見つけるため、公園で過ごす人たちに話しかけたりした。

 結果はいろいろだったけれど、私が「これは絶対無理ではないか」と思ったのは、他の宗教の信者に伝えることだ。

 もちろんどの宗教の人とも普通に話すことはできるし、友好的な雰囲気にもなるけれど、神については絶対に譲れない境界線みたいなものがあった。しかもその境界線は相手にだけあるのでなく、私自身にもあった。つまり、私の神様を相手は受け入れないし、相手の神様を私が受け入れる訳にもいかない。

 という訳で、他の宗教の方と神について話し出すと、いつまでも平行線のまま、何となく別れることになった。あるいは険悪な雰囲気になって別れることになった。
 以来、伝道の時に、他宗教の信者を避けるようになったのは言うまでもない。

 それについて特に考えることもなかったけれど、上述のツィートを見て、その時の感覚を思い出した。

 確かに、クリスチャンは世界中の人々を愛するべきだし、神について伝えるべきだ。聖書もそう命じている。
 が、他宗教の信者も、その点は同じようなものではないだろうか。クリスチャンが神を絶対的存在として信じているように(私もそうだ)、他宗教の方々も、自分の神を絶対に信じている。文字通り自分の命をかけて、その信仰を貫き通す人たちもいる。クリスチャンが本気であるように、彼らも本気なのだ

 私は漠然と、「他の宗教の神は受け入れないけど、その人自身を愛することはできるはず」と思っていた。
 が、普段は仲良くても、信仰の話になると必ず険悪になってしまうとしたら、本当の意味で相手を受け入れているとは言えないような気がする。

 現在日本は平和だし、信教の自由というのはまだ憲法で保障されているから、宗教的な争いは表面的にはない。少なくとも大勢が死んでしまうような事態にはなっていない。だからこの問題も、それほど注目されることもないかもしれない。

 が、例えば禁教という事態になったら、そうも言っていられないのではないだろうか。私のように「他の神は受け入れないけど、その信者自身は愛する」なんて言うのは偽善でしかなくなるだろうし、「険悪なムード」なんかはるかに越えた争いになると思う。

 歴史的にも、宗教間の争いに解決がないことは証明されている。

 宗教を信仰する者として、そういう究極的なことについても考えるべきだと、そのツィートを見て思わされた。
 もちろん、簡単な答えなどないだろうけれど。

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