あるクリスチャンが自身のブログで、「天国でダンボールの家に住みたいか、宮殿に住みたいか」みたいなことを書いていて驚いた。
その人によると、人生は天国でのポジションを決めるテストのようなものだそうだ。そのテストの結果、成績の良い人は宮殿に、悪い人はダンボールに、それぞれ永遠に住むことになるらしい。
言いたいことはよくわかる。宮殿とかダンボールとかが比喩なのもわかる。
確かに聖書には、全ての人間が死後にさばきを受けると書いてある(黙示録20章)。そしてその基準は、「そのしわざに応じて」だ。だから生前の行いに従ってさばかれる、というのは基本的に正しい。
また、天国にはそれぞれに住む家があるとも書いてある。イエス・キリストご自身が、それぞれの住まいを準備しておられる(ヨハネ14:2-3)。だから天国でそれぞれの家に住む、というのも正しい。
が、ある人は家がみずぼらしくて、永遠の劣等感と後悔に苛まれ、ある人は家が豪華で、永遠の優越感に浸る、ということだと納得し難い。
仮に、地上で貧しいながら主によく仕えた人が天国で宮殿に住み、地上で裕福だったが礼拝を守っただけの人がダンボールに住む、という逆転劇だったとしても、結局そういう競争と上下関係に支配された、この社会の延長線上にあるだけの天国暮らしをしなければならないのだろうか。「私は○○できなかった」「もっと○○すべきだった」という後悔を永遠に持ったまま過ごすのが、天国という場所なのだろうか。
そういう状況でありながら、「もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」(黙示録21:4)という天国とは、どういうものなのだろう?
・・・と、いうのが、そのブログを読んでの私の感想だ。
その考え方が人に与えるのは、恐怖なのではないだろうか。
そしてその恐怖は、「もっと奉仕しなければならない」という律法主義につながり、その律法主義は「私の方ができている」「あの人よりは勝っている」という競争原理に行き着くのではないだろうか。
それと同じ原理の上に天国があるとしたら、そこは「天上の地獄」に思えてならない。
そしてその恐怖は、「もっと奉仕しなければならない」という律法主義につながり、その律法主義は「私の方ができている」「あの人よりは勝っている」という競争原理に行き着くのではないだろうか。
それと同じ原理の上に天国があるとしたら、そこは「天上の地獄」に思えてならない。