社会貢献にもならず、伝道にもならない教会事業

2013年8月20日火曜日

カルト問題 キリスト教信仰

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 私の母教会は、とにかく活動が多かった。その活発さでは多少知られていたのではないかと思う。
 毎週(というか毎日)の礼拝はもちろんのこと、いろいろな教室を開設したりライブをやったり、飲食店をしたり福祉事業をしたりと、毎日めまぐるしかった。東日本大震災の時などは数日後に現地入りして、支援活動を始めたりもした。

 そういう「社会貢献」は「教会の使命」だ、と牧師は言っていた。
 聖書的根拠は「地の塩、世の光」あたりで、私たち信徒もそういうものかと納得し、慣れない仕事に体当たりで挑戦していた。

 これだけ聞くと「いやいや、福音伝道が第一の使命でしょ」と突っ込まれそうだが、そのへんは牧師もわかっていて、「事業を通して福音を伝えていくんだ」というようなことを言っていた。人間の価値は言葉でなく行動だ、的なカッコいい格言も交えていたと記憶している。

 そういう訳でいろいろな事業を次々と展開していくのだが、いかんせん、どれも素人が片手間でやっているレベルを抜け出せなかったのではないかと、私は思っている。(私も含めて)皆一生懸命だったのは確かだけれど、労務管理などなかったし、給与体制も会計処理も曖昧で、およそ継続可能な事業体制ではなかったからだ。

 そういう意味での「いい加減な事業」をいくつ始めたところで、「知の塩、世の光」だと豪語することはできないのではないだろうか。全然模範になっていないどころか、むしろ一般的レベルにさえ達していないのだから。

 確かにそんな事業を通してでも、キリスト教に入信する若者が何人かいた。
「彼らが救われただけでも、この事業をする価値はあった」と牧師は誇らしげに言うかもしれない。けれどその事業が立ち行かなくなるとか、不正会計が発覚するとかしたら、結局もっと多くの信徒を躓かせることになるだろうし、それ以上に信者が増えることもないだろう。
 それに、わずか数人を入信させるために始めた事業なのだとしたら、そのスタートアップにかかった費用や人材には決して見合わない効果だと、言わざるを得ない(それなら初めから伝道だけに注力すれば良かったのだ)。

 加えて、その手法には詐欺的要素がある。たとえば震災後、被災された方はどんな団体からでも支援してもらえたら助かるだろう。けれど継続的に支援してもらっているうちに、聖書の話だの集会への招待だのが始まったとしたら、「やっぱりそれが狙いだったのか」と思うかもしれない。それまでの全ての支援が「人道目的」でなく「伝道目的」だったと気づき、騙されたと感じるかもしれない。その人は金輪際、教会には足を踏み入れないだろう。

 教会が「社会貢献」をするのは確かに使命だろうが、少なくとも私の母教会のそれは、何かが間違っていたような気がしてならない。皆一生懸命だったけれど、結局社会貢献にもならず、伝道にもならない事業で終わってしまったからだ。

 しかも皆まじめに、仕事とかお金とか家族との時間とか青春とかを捧げたのに、結局何もならなかった。これは、悲劇と言うほかないのではないだろうか。

 社会貢献を標榜する教会は今も多く、いろいろな活動を展開しているけれど、どうか私の教会のような目に遭わないでほしいと切に願っている。そして私の教会ができなかった、社会貢献にもなり伝道にもなる立派な事業というものを成し遂げ、日本でキリスト教が見直されてくれればと願うばかりである。

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