2013年9月30日月曜日

「家族的な組織」に危機が訪れる前に準備しておきたかったこと

 通っていた教会で問題が起きて、紆余曲折を経て解散となった。決して事の初めから解散が望まれていた訳ではなかったが、諸事情あって回避できなかった。
 もっと別のやり方があったのかもしれない。けれど後悔先に立たずだし、当時は当時で皆真剣に事態に取り組んでいた。その結果であるから、最終的に解散となったのも止むを得ないとは思う。

 ただ、問題の傷口を広げてしまった一つの要因は、教会組織に、いわゆる定款のような「法的効力のある規則」がなかったことにあると思う。

 大きな教会や教団であれば、定款やそれに準ずるものが備わっているだろう(宗教法人であれば必須)。その定款に添うことで、教会は誰がリーダーであっても役員であっても、ある程度均質な運営ができるようになる。緊急時もそれに従って行動すればいい。

 しかし牧師が一人で開拓したような小規模な教会だと、いわゆる自営業みたいな運営方法から始まるのが一般的だろう。そこには何の決め事もないし、あっても口約束みたいなものだし、それもコロコロ変わっていくものだ(むしろ開拓当初はその方がいいかもしれない)。信徒が増え、教会が大きくなったらある時点で組織としてのあり方を検討しなければならなくなるけれど、なかなかそうできない。その理由は、一つにはそういう必要性に意識が向かないというのがあるだろう。定款作りのための会議とか書類作りとかの煩雑さもあると思う。特に成長中の教会であれば、そんな余裕はないかもしれない。

 そういう訳で、組織作りが放置されたままの教会というのはけっこう多いのではないかと思う。私の教会もそうだった。仮に役員会とか執事会とかがあっても、定款のような形で定められた規則がないとか、その規則が形だけで無視されているようなら、やはり放置されていると言わざるを得ない。

 もちろん順調な時なら、定款などなくても問題ない。「神の家族」ということで、仲良く信頼し合って、教会をやったらいい。

 けれど、例えば相続問題で肉親どうしが争うのを、多くの人が実際に見たり体験したりしていると思う。私も身近なところで、相続でトラブルとなった家族を何度か見てきた。親の遺言がないとかの原因で(時には明確な遺言があってもなお)、家族として育ってきた兄弟姉妹が、遺産をめぐって激しい言葉で罵り合い、奪い合い、生涯断絶していく。そういうのを見ると、人を信頼するとはどういうことだろうと考えずにいられない。

 知り合いのボランティア団体の代表者も、「お金のことだけは最初にハッキリしておかないと、絶対トラブルになる」と言っていた。

 肉親や善意の集団でも、金銭が絡むと争うことになる。
 私の教会はそういう意味の金銭問題でもめた訳ではないが、同時に噴出した諸問題にどう対応すべきか、どういうメンバーが話し合うべきか、どうやって決めるべきか、等の規則が一切なかったため、かなりの時間を費やした割にほとんど何も決まらない(決められない)という状況に陥ってしまった。法的な根拠を上げるにもいちいち調べなければならず、時間だけが徒に過ぎていった。

 もう過ぎたことだけれど、私の教会にしっかりした定款があったら今頃どうだったろうかと思う。結果は変わらなかったかもしれないけれど、そこに至る経緯はもっとシンプルだったのではないかと思う。

 東日本大震災以来、津波対策や原発の安全対策が叫ばれている。それはそれで大切なことだけれど、いわゆる口約束が習慣化している「家族的な」教会も、危機対策を怠ってはならないと思う。

2013年9月29日日曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第2話

 晴天の午後、公園に到着した。
 駅近くの立地で、野球場やバーベキュー場が併設された大きな公園だ。家族連れがそこここでシートを広げ、犬がフリスビーを追い、若者たちがバーベキュー場でワイワイやっている。向こうの野球場からは、ボールを打つ快音や声援が聞こえてくる。9月の終わりだが、日差しが強く、少し動くと汗ばんでくる。

 ただキマジメくんの場合、その汗は暑いばかりではなかった。
「じゃ、始めようか」
 牧師先生が言い、皆で祈ってから、いくつかのグループに分かれて散り散りになる。キマジメくんは牧師先生と二人で行くことになった。
「僕はね、若者に重荷があるんだ」
「オモニ、ですか?」
「そう、若い人が救われないとね。彼らは日本の未来だから」
 牧師先生はまっすぐバーベキュー場に向う。そして着くなり、飲んだり食べたり騒いだりしている若者の一団に話しかけている。その度胸というか大胆さを、キマジメくんは一歩下がって見ていた。いや、一歩や二歩では済まないほど後ろに下がって見ていた。
 牧師先生は見る見るうちに打ち解け、すでに若者の何人かと談笑している。さすが牧師と思ったけれど、確か先生は以前営業マンをしていたらしいから、もしかしたら「営業トーク」ってヤツかもしれない。いずれにせよ、キマジメくんには逆立ちしてもできない芸当だ。

 一通り話し終えたのだろうか、牧師はトラクトを若者たち一人一人に渡している。と、突然振り返って手招きした。キマジメくんが近づくと、「トラクトが足りないから持ってきて」とだけ言う。
 キマジメくんは駆け出したけれど、よく考えると、トラクトがどこにあるかなんて知らない。他の兄弟姉妹がどこにいるかもわからない。
「どこにあるんですか?」
「いいから早く! 探してこい!」
 ピシャリと言われ、キマジメくんはしばし硬直してしまった。牧師は若者たちの方を向くと、また笑顔で何やら話している。
 キマジメくんは釈然としないながらも駆け出して、他の兄弟姉妹たちを探した。

 伝道が終わり、皆で祈り、そこで解散となった。と言っても教会に戻るから、皆それぞれで同じ道を歩いてる。牧師がキマジメくんを呼んだ。
「キマジメくんね、伝道は霊的な活動なんだよ。言うなれば霊的戦いだね。その霊的な事柄を支えているものは何だと思う?」牧師が突然問いかける。キマジメくんには当然ながら何のことだかわからない。
 牧師が続けた。「それはね、実際的な準備だよ。しっかり準備をしておかないと、霊的戦いには勝てっこないんだよ。今日の例で言えばね、トラクトを持ってないなんて全然ダメだってことだよ」牧師は声を荒げる。「渡せるタイミングで渡せなかったら、次のチャンスはないかもしれないだろ。それであの若者たちが救われないとしたら、君、その責任が取れるのか?」
 キマジメくんは何と答えたものかわからない。牧師はフンと鼻を鳴らし、「僕はね、神様のことに関しては厳しいんだ。キマジメくん、しっかり悔い改めるように。ま、初めてにしてはよく頑張ったな」と言いつつ、キマジメくんの肩をポンポン叩く。
 牧師がいつもの笑顔に戻ったので、キマジメくんも一安心して「はい」と応えた。(続く)

・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。

2013年9月28日土曜日

復讐について思うこと

「やられたらやり返す」で有名なテレビドラマ「半沢直樹」が高い視聴率を得、「倍返しだ」が流行語みたいになった。私個人はドラマとして楽しく観させてもらった。けれど「仕返しは良くないよ」という意見もあるようだ。特にクリスチャンの視点からするとそうかもしれない。聖書は復讐を「神がするもの」と言っているからだ。

 ただし、半沢直樹のそれは復讐とは若干違うと私は思っている。彼の行為は「仕返し」というより、究極的には「不正を正す」ものだからだ(もちろん、彼の行動原理には父親の死と、父を死に追いやった銀行に対する憤りみたいなものがあるが)。

「半沢直樹」を観てスカッとする人が多いのは、それが単なる復讐でなく、悪徳上司等の理不尽に立ち向かって勝つからだと思う。これが単なる復讐劇なら、あれほど爽快にはならないのではないか。

 作風の違いもあるだろうが、最近リリースされた「藁の盾」はまさに復讐がテーマで、爽快とは程遠い雰囲気となっている。孫娘を惨殺された老人が、圧倒的な財力で犯人を殺害しようとする話だ。最後、その老人本人が犯人に斬りかかるシーンがあるが、その姿は哀れとしか言いようがない。復讐したところでどうにもならないけれど、復讐せずにいられない、そんな心理がうまく表現されていたように思う。
 結局この犯人には死刑判決が言い渡される。けれど、そのときの犯人の台詞を聞くと、仮に老人の復讐が成功したとしても無意味であったことがわかる。
「どうせ死刑になるなら、もっと(悪事を)しておけば良かった」

 復讐とは、そのものが悲劇なのではないだろうか。

 復讐したいという気持ちは私にも少しはわかるつもりだ。けれど、その復讐が達成されても、まったく気分が晴れないだろうというのも想像できる。
「半沢直樹」の最終回、半沢はついに、父の仇である大和田常務を追い詰め、土下座をさせるに至る。それまでの経緯を見ていれば「ついにやった」とも思うのだが、私はそういう気持ちと同時に「そこまでやって何になる?」という疑問も抱いた。むしろそれを痛々しい気持ちで見ていた。ドラマ前半で浅野支店長の謀略に勝利した時の、あの突き抜けるような爽快感はまったくなかった。

 旧約聖書には「逃れの町」というのが出てくる。過失殺人等を犯してしまった者が、その遺族からの復讐を避けるために逃れる町のことだ。その町にいる限り、殺人者は引き渡されることなく、安全が保障される。それは復讐したくてもできず、また復讐される恐怖から守られる仕組みであり、神が復讐を禁じている証であろう。
 それは問答無用な禁止令のような気もするが、復讐の悲劇性を思うと、かえって神の愛情のような気もする。復讐したくてそれを実行してしまう悲劇を、強制的に止めるからだ。
 その結果、復讐者が復讐したくてもできない無念を抱えたまま生きることになるとしても、それは復讐を果たしてしまう虚しさを抱えて生きるよりも良いような気がする。

2013年9月27日金曜日

本音で話すのが良いとも限らない

 かつて教会でよく、信徒どうしで「本音で話し合う時間」を持たされた。全員が全員という訳でもなかったと思うが、特に関係がギクシャクしていたり、何か腹にたまったものがあったりすると牧師に判断された人たちが個人的に集められ、話し合う時間を持たされていた。

 しかし本音で話し合うというのは、そう簡単ではない。大人であれば特にそうかもしれない。いろいろ話し合っていく中でだんだん核心に近づいていくのだけれど、単に時間をかければ近づけるというものでもない。バランスよく両者の話を聞き出し、問題の本質みたいなところを探っていく第三者の存在が必要で、その役割をするのがいつも牧師だった。
 そういう話し合いはだいたい何時間にも及んだ。互いに本音を出し合うのだから、衝突するし、泣いたりわめいたりのドラマもあったりする。けれど最終的には、いろいろあった後に「神様を見上げて互いに愛し合おう」ということで決着した。

 私たちがそれを嫌がっていたかと言うと、そうでもなく、むしろ人間関係において大切な時間であり、クリスチャンとして成長できるチャンスでもあると認識していたように思う(嫌がっていた人もいたかもしれないが)。

 なかなか本音を言えない環境にあるのなら、本音を曝け出せる場所はあった方がいいだろう。相手に対する不満とかモヤモヤを押し殺して「愛します」と言うのも、偽善的かもしれない。
 そしてそういう話し合いの時間を通して、少なからず相手の知らなかった面やわからなかった心の内を理解することができて、良い効果を生んだようにも思う。だからこそ私たちも、本音で話し合うことの重要性を認め、その話し合いに特に抵抗することなく応じていたのだろう(事実上の強制ではあったが)。

 しかしその本質的な結果をよくよく考えてみると、わだかまりのあった者どうしが一定の和解を得ること以上に、それを導いてくれた牧師に対する依存心を大きくしていたように思える。
 話し合った相手がどうこうでなく、この牧師の言うことを聞いていれば大丈夫だ、この牧師に人生を導いてもらえる、という思いを大きくしてしまう。そしてそれは、自分で考えたり判断したりする力を放棄することにつながる。

 また、本音で話し合う時ももちろん必要だけれど、いつもいつもという訳でもないと思う。
「いつも本音で話し合う」というのは、突き詰めると「思ったことは何でも口に出す」という感覚になる。それが悪いということではないが、それよりも、こう言ったら相手はどう思うだろう、相手はどんな気持ちになるだろう、ということを想像したり察したりする配慮の方が必要ではないかと思う。自分の本音もさることながら、そういう自分自身の内面を顧みるとか、ぐっと忍耐して考えてみるとか、そういうことが人間としての成熟ではないかと私は思う。

 そういう意味で、相手に対する不満とかモヤモヤを押し殺して「愛します」と言うのは、偽善とは違うのではないだろうか。むしろ愛しえない人を愛するという、キリスト教信仰の真髄を実行することではないだろうか。

2013年9月26日木曜日

「神の導き」を求め過ぎると、決断できなくなる

「神様の導きに従って生きる」というのは、クリスチャンが一般的に願うことだと思う。私のかつての教会でもそれは重要視されていた。「神様より出過ぎず、遅れず、歩幅を合わせて歩みなさい」とも言われていた。

 神様の導きに関する私の(そして私の教会の)認識は、とにもかくにも「神様から何らかの啓示がある」ということだった。それが前提なので、何かを判断する時、「まずは啓示を求めなければ」ということになる。

「啓示」というのは、(聞いた話によると)人によっていろいろで、肉声が聞こえたとか、夢を見たとか、同時期に複数の人から同じことを言われたとか、聖書のある個所が「示された」とか、心に特定の「思い」が示されたとか、そういう類のものだ。残念ながら私にはほとんどそういう経験はないのだが、経験したという人は少なくない。そういうこともあるのだろうと思う。

  今にして思うと、私はこの点でいつもモヤモヤを感じていた。何か啓示されたい、御心を知りたい、と願って祈るけれど、特にこれといった返答はない。それでも待つのだけれど、結局決断の時がきて、良かれと思うものを選ぶことになる。それに都合の良い御言葉があれば、それを引用して「示された」と言ったりもした。
 そしてそれは、おそらく私だけではなかっただろうと思う。私よりもっと若い人たちの多くが、進学とか就職とか献身とかで悩んでいたし、御心を求めているけれどなかなかわからない、決められない、という状況にあったと思う。

 牧師は「そういう葛藤を経て御心を判別できるようになる」と言っていたが、果たしてそうだろうか。

「何が何でも啓示を得なければならない」という思いが強迫観念のようにその人を捕えるとしたら、問題になると思う。結局いつまでたっても啓示がなく、それでも何かしらの啓示を得なければ済まされないとしたら、「何となく心に示されているような気がする」という感覚頼みに陥るのが関の山ではないだろうか。そしてその感覚頼みの繰り返しが、いつしか「啓示の捏造」につながってもおかしくないと思う。

 もちろん「何の啓示もないのはゴーサインという啓示だ」という考え方もあるだろう。けれど、似通ったAかBかを選択する時は、それは役に立たない。

「神の導き」はあると信じるけれど、それはどんなこともいちいち神様に伺いを立てて確認する類のものではないと思う。神様が私たちに願うのは、その都度ああしなさいこうしなさいと細かく指示することではないのではないか。それよりも、聖書という神様の意思の集大成があるのだから、私たちがそれを元にして「どう判断したらいいか」を学ぶことではないかと思う。

 私には子どもがいるけれど、子どもに頼られるのは嬉しいし、できるだけ助けてあげたいと思う。けれど、子どもが成長して大人になっても同じように頼ってくるとしたら、いささか心配になってしまうだろう。私が親として願うのは、子どもが自立して、自分でしっかり判断できるようになることだ。親なら誰もがそう願うのではないだろうか。

 それに、いつも啓示を得ることで何かを判断していくとしたら、それは本当の意味で自分の決断ではない。それは神様から与えられた自由意思を、無駄にする行為であろう。加えてその結果が悪いと、「神様のせいだ」と責任転嫁することにもなりかねない。

2013年9月24日火曜日

献金するには信仰が必要だが、し過ぎるのは信仰ではない

献金というのは、クリスチャン生活において避けて通れない事柄だと思う。それをどう扱うかは、その人の信仰を如実に表すのではないだろうか。

何かの奉仕をすることは、自分の時間と労力を捧げることを意味する。それと同じように、献金は自分の経済を捧げることを意味する。どちらも、信仰なくしてできない。だから何をどれだけ捧げるかは、その人の信仰いかんによるのだと思う。

多く捧げる人は、それだけ深く神様を愛し信頼しているのかもしれない。あるいは成熟したクリスチャンなのかもしれない。少なくとも私の教会では、そういう認識があった。自分の力に応じて、あるいは自分の力以上に捧げることが美徳とされていた。実際、多くの人が多くのものを捧げていた。

それは、誰にどう言われたかに関わらず、究極的には「神様が必ず報いて下さる」という信仰があってのことだったと思う。献金したときは一時的に預金残高が減ったりマイナスになったりするが、いつかそれが捧げた以上になって返ってくるとか、別の形で報いられるとか、そういうことを信じていた。

それは信仰の姿勢としては間違っていないと思う。マラキ書やその他の箇所を見ても、捧げることの祝福みたいなことが書かれている。一般的な経済の本にも、お金は循環するものであり、流せば流すほど入ってくるものだと書いてある(だからといって、捧げれば必ず倍返しで返ってくるというような自動販売機的なことではない)。

私は献金による神の祝福を信じるけれど、捧げる際には注意が必要だろうと思っている。

献金をどれくらい捧げるか、という話でよく引用されるのが、ルカの福音書21章の「やもめの献金」とか、使徒行伝2章の初代教会のあり方(弟子たちは資産を売って捧げていた)あたりではないかと思う。大きな集会の「献金の勧め」では、かなりの頻度で「多く蒔くものは多くを刈り取る」というフレーズが使われる。

明言していないが、「持っているもの全部」とか「多く」とかいうニュアンスが、そこには含まれているような気がする。「金額ではない」としならがも、やはり「多く捧げること」が強調されているのではないだろうか。

真面目な人は、そこで無理して捧げてしまうかもしれない。そういう人をたくさん見てきた。その献身的・犠牲的精神は本当に素晴らしいし、神の祝福を信じる信仰も素晴らしいと思う。絶対に報われてほしい。

けれど、一世紀のユダヤ社会(特に初代教会)と、現代の日本社会とでは、献金のあり方にも違いがあるのではないかと思う。例えば一世紀の物流や消費は、通貨が全てではなかっただろうから、「生活費の全て」を捧げたやもめにしても、それですぐさま飲食に事欠くという話でもなかったはずだ。初代教会の弟子たちが持ち物を売り払って捧げたのも、基本的に共同生活であり、ある意味で社会主義的な分配にあずかっていたからだろう。

その点、現代の私たちが有り金を全部捧げてしまったら、下手したら今日の夕食にも事欠いてしまう。いくら教会に捧げたところで、教会が私たちの暮らしを面倒みてくれる訳でもない。

そういうことを考えると、「今日の集会で、思い切って財布の中身を全部捧げちゃったら帰りの電車賃すら残ってなかったよ」というのは、笑い話に聞こえない。

ある教会の、一人暮らしの紳士が亡くなった。身寄りがなかったので、教会員たちが遺品整理に伺った。故人はお洒落な紳士だったので、住まいも同じだろうと想像していた。けれど実際の住まいはそんな影もなく、相当苦しい生活が想像されるものだった、故人の隠れた苦悩をその時はじめて知った、という話を聞いたことがある。

そこにある教会生活と実生活のギャップの原因は何なのだろうか。献金と貯金のアンバランスはなかったのだろうか。

献金を捧げるには、確かに信仰が必要だ。けれど、多く捧げなければならない、そうでなければ祝福されない、などと思ったり思わせられたりして捧げるのは、信仰ではないような気がする。

自分たちの必要とか、将来の備えとか、子どもの教育費とか親の世話とか、そういう考えるべきことを放棄してしまうのは、「信仰」とは呼べないのではないだろうか。もしそれが信仰なのだとしたら、私は遠慮させていただきたいと思う。

2013年9月23日月曜日

「異言」に関する個人的反省と希望

私のかつての教会では「異言」が肯定されていた。というより推奨されていて、異言を語れるようになって一人前、みたいな雰囲気があった。

そしてそれは私の教会だけでなく、いわゆる聖霊派の教会全般に通ずるものだったと思う。超教派の大きな集会の「皆で自由に祈りましょう」みたいな時、周りから聞こえてくるのは異言ばかりだった。

私が教会で異言について教えられたのは、「すべての御霊の賜物の基礎」であることと、「異言で祈れば祈るほど御霊の力で満たされる」ということだった。だから何時間でも異言で祈るというのは、私の教会ではごく普通の、誰もがしていることだった。

けれど以前書いたように、私たちの異言というのは「バラバラ」とか「ダダダ」とかいう意味のない擬音語で、聖書が異言について示す「自分がまったく知らない外国語を完璧に話す」こととは、だいぶ違っていたように思う。

それを語り始めるキッカケとして、こんなケースがあった。まず「異言を話せる」何人かの先輩クリスチャンや牧師に囲まれる。次に牧師に腹のあたりを押され、「腹から湧き上がってくるものを解放しなさい」とか「最初は真似でもいいから音を発してみなさい」とか言われる。そして牧師の合図で、先輩クリスチャンたちが一斉に「擬音語異言」で祈り始める。複数の大音量の擬音語に囲まれたまま、牧師に声を出すように促され、それが何分も続く。
あとは人それぞれだが、何となく真似して声を出してみると、それらしい擬音語が出てきたりする。すると「ハレルヤ、異言が与えられた」ということになる。

他の人のケースを全て知っている訳ではないけれど、少なくとも私は、そういう「何となく真似してみたら出てきた」という経緯で異言を語りはじめた。だから正直言うと、「これは本当に異言を伴う聖霊のバプテスマの証なのだろうか。気のせいではないのだろうか」という疑問が、心のどこかにあった。それをずっと押し殺してきた、と言ってもいいかもしれない。

今、その疑問が非常に大きくなっているのは言うまでもない。

とは言っても、私は異言を完全否定する立場ではないから、他の人の異言についてとやかく言うつもりはない。むしろそれが本当の異言であり、神の大いなる御業を表すものであるなら素晴らしいと思う。
それに比べると私は偽り者であり、感覚頼みの未熟なクリスチャンであることを、反省しなければならない。

そんな私が異言について唯一気をつけていたのは、「秩序を守る」ということだった。つまり未信者の前では語らない、ふさわしくない時には語らない、ということだった。

あるクリスチャンの男性が、夜の街で女性に声をかけられた。女性の身なりから、いかがわしい誘いであることがすぐにわかった。そこでその男性は、女性に向かって異言で祈り出した。女性はすぐに、怪訝な顔で立ち去った。
「だから異言の祈りによって御霊の力が現されるのです」というのがこの話のキモらしいが、それは御霊の現れというより、単に変人だと思われたからではないだろうか。

繰り返すが、私は異言を完全否定する立場ではない。むしろ本当の異言がどんなものか、知りたいと思っている。また神様がそれについてどのように願っておられるのか、知りたいとも思っている。
そしてそれはきっと、私が語ったようなウソっぽい異言でなく、また未信者を怪訝にさせるだけの異言でもないだろうと思う。

2013年9月22日日曜日

「鑑賞型礼拝」に関する個人的誤解

 プロテスタントの礼拝に初めて出席した人が、「コンサートみたいだった」と表現していた。その人は未信者で、旅行先で観光がてら、その教会に行ってみたという。「天使にラブソングを」という映画みたいなゴスペルを期待していたらしい。

 その人いわく、3曲くらい歌が「披露」され、華やかな照明と映像の演出で、プロでもなくゴスペルでもなかったけれど、「うまい歌」だったという。皆で歌う、いわゆる「会衆賛美」はなかったようだ。
 奉仕者以外は座って見ていればいい、いわゆる「鑑賞型礼拝」だったのだろうと思う。

 それと同じ要素は、私のかつての教会にもあった。信徒の何人かがグループになって「特別賛美」を披露したり、ダンスを披露したり、何かの映像を上映したりした。

 そういう歌やダンスの鑑賞も、広義には礼拝行為だろうと思う。考えてみれば、牧師の説教を聞くというのも礼拝の一部である。
礼拝というと、賛美を歌ったり、祈ったり、告白したりという「能動的行為」を私はイメージしやすい。けれど鑑賞というどちらかと言うと「受動的行為」にも、礼拝要素はあるのだと思う。
 それは、神に祈り、その「返答」としての何かを受け取る、という構図にも似ている。

 ただしこの鑑賞型礼拝が礼拝として成立するのは、鑑賞する側に信仰があり、そういう礼拝理解があるからであろうと思う。冒頭の人が礼拝を「コンサートみたいだった」と評したように、それがその人にとって礼拝とならない場合も、多分にありそうだからだ。

信徒教育というのは教会によっていろいろだろうけれど、礼拝についてどう教えるかは、けっこう優先度の高い項目だと思う。クリスチャンにとって礼拝は基本であり最重要であり、かつ毎週のことだからだ。だから会衆賛美にどういう意味があるとか、その他にも祈りとか告白とか献金とか、説教とか頌栄とか聖餐とか、それが何で、何故するのか、ということは一人一人が明確に理解しているべきだと思う。けれど、これが案外忘れられているような気がする。

私が知っている教会でいえば、例えば「鑑賞型礼拝」に関する説明はない。特別賛美もダンスもその他の何かも当然のように披露されているけれど、それらをどう鑑賞するかは、個々に完全に委ねられている。
ちなみにそこの牧師は鑑賞するとき、必ずと言っていいほど片手をあげ、感動しすぎてタマランという顔で「ハレルヤ」とか「アーメン」とかつぶやいている。その個人の感動は結構なことだ。けれど、そういうことを教えられていない信徒は、完全なる放置状態に置かれることになる。

私も初めのうち、その被放置者の一人だった。どうしていいかわからず、そういう牧師の感動の様子を横目で盗み見て、「あ、これを見ながら感動し、臨在を感じることも礼拝なのか」と察したものだ。そして、それでも感動できないし臨在を感じられない自分を、クリスチャンとしてまだまだレベルが低いのかな、と思ったりした。

しかし、歌や踊りを鑑賞することで感動することが、直接礼拝になるのでもない。それで神の臨在を感じることが、クリスチャンとしての成熟を表す訳でもない。けれどそういう誤解が、けっこうあるのではないかと思う。

教会が信徒をどう教育するのも自由だし、それで信徒が満足しているなら、問題ないかもしれない。けれどもし、信徒が私のように「察すること」で学んでいくとしたら、「感動=礼拝」とか「感動=臨在」とかいう、たいへんな誤解をしかねないだろうと思う。

2013年9月21日土曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第1話

 キマジメくんが教会に通いはじめ、はや一ヶ月。
 毎週の礼拝にも慣れ、教会の人たちの顔と名前もだいぶ一致するようになってきた。

 皆親切で、キマジメくんによく話しかけてくれる。出身はどこ、家族は何人、趣味は何、将来何になりたいの。
 自分の面白くもない話を、誰もが興味深げに聞いてくれる。悪い気はしなかった。むしろ気分が良く、居心地が良かった。礼拝は日曜日なのだけれど、水曜日の祈祷会とか、土曜日の掃除とか、キマジメくんは可能な限り教会に足を運ぶようになっていた。

 教会は、今まで属したどのコミュニティとも違っていた。老若男女、様々な人がいるけれど、誰もが笑顔で、優しくて、気さくに話せて、キマジメくんのために何かすることを厭わない。
 牧師先生が、教会のみんなを「神の家族」だよと言っていた。だから家族だと思って接していいんだよ、と。
 そして、神の家族のきずなは血よりも濃いんだ、肉親以上の家族なんだ、君にもいずれわかるよ…とも言っていた。

 キマジメくんはその通りだと思った。実家に帰ると、親とは今でもケンカばかり。親は自分を大人だとは認めてくれない。もう20を過ぎたのに、まだまだ子ども扱いだ。親は自分のことなど、少しもわかっていない。

 教会では男性は「兄弟」、女性は「姉妹」と互いに呼んでいる。キマジメくんははじめは照れたけれど、今ではそう呼ばれることにも呼ぶことにも慣れてきた。

 ある日曜日。礼拝のあと、いつものように皆でランチを食べた。普段ならのんびり歓談してから適当に帰るのだが、今日は少し様子が違う。案の定、牧師先生がやって来て、「今日は公園に伝道に行こう」と言う。
  伝道という言葉は初耳だった。隣のノンビリ兄弟に尋ねてみる。「ああ、伝道ってのはね、イエス様のことを、まだ知らない人に伝えるってことだよ」
 かなり大雑把に教えてもらっただけだが、何となく想像できた。どうやら公園に行って、それぞれ知らない人に話しかけ、聖書の話をするらしい。
 正直、キマジメくんには荷が重かった。まだ聖書の話を人にできるほど聖書を読んでいないし、何より知らない人に声をかけるなんて、経験がない。想像しただけでも緊張して、手に汗がにじんできた。こりゃできそうにないな、と思っているところ、牧師先生の奥さんが声をかけてくれた。
「キマジメくんはまだよくわからないでしょうから、ここでのんびりしていていいと思いますよ」
 その一言で安心した。やっぱり、まだ初心者だからね。
 何人かの兄弟姉妹が、伝道に行く準備をしている。聖書を段ボールに詰めたり、何かのチラシを折ったり。それを何となく見ていると、牧師先生が近づいてきた。
「ほら、キマジメくん、もう行くよ。準備はできたのかい」
「あ…、はい」奥さんとはだいぶ違うな、と思いつつ返事をしている。何となく、断れない。仕方なくついていくことになった。

 公園への道すがら、牧師先生が隣で説明してくれた。
「いいかい、キマジメくんは神の救いを受けたからいいけれど、まだ多くの人が、それを受けていないんだよ。だから伝道するのは、先に救われた者の義務なんだ。一生懸命伝道しなきゃいけないよ」
「は、はい。そうですよね」
「伝道しないのは、神の救いを無にすること、神の愛を無にすることだよ。それじゃいけないよね」

 キマジメくんは同じように頷いた。けれど、どこかモヤモヤするのを打ち消すことができなかった。他の兄弟姉妹は笑顔で話しながら歩いている。やっぱり、自分はまだ初心者だから、いろいろわかっていないんだ。
 そう思うことで自分を納得させ、キマジメくんは歩き続けた。(続く)

・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。

2013年9月20日金曜日

「ネット断ち」をして気づくネット依存。環境を変えてみる重要性

 先日、高校男子バレー部の体罰の現場映像がネットに流れ、大々的に報道された。世間の非難を浴び、学校関係者は急遽対応に追われることとなった。
 これは現場を撮影した生徒(?)の勇気や功績が大きいのはもちろんだけれど、何よりインターネットの、とりわけSNSの拡散力があってのことだとも思う。何故ならそういうものがない時代であれば、撮影から公表まで相当の手間がかかるだろうし、下手すると公表されないかもしれないからだ。

 同じネットの拡散力をもって、「バカッター」なるものも話題となった。ほんの数枚の写真で、実際に多くの店舗が閉店に追い込まれた。こんなことは数年前まで想像もできなかったろうと思う。

 誰かが「ネットは拡声器のようなものだ」と表現していたが、その通りではないだろうか。しかもその声は、いつまでも残る。ポジティブなものはよりポジティブに、ネガティブなものはよりネガティブに、どんどん増殖していく可能性を秘めている。

 ネットというのは便利なものでもあるが、同時に非常に恐ろしく、破壊的なものでもあるだろう。

 ネットといえば、今は携帯電話、特にスマホでの利用が多いだろう。日本の携帯電話の普及率は2011年の時点ですでに100%を越えているから、統計的にはあらゆる人がネットに接続された環境に生きている、ということになる。
 いわゆるユビキタス時代(もう死語か)の到来であろう。

 私は基本的にそれを歓迎している。メールの利用が多いから、都合の良い時にネットが使えないと困ることにもなる。けれど、だからこそでもあるが、「ネット断ち」を時々した方がいいとも思っている。

 休みの日など、携帯電話を持たずに自然の中に出て行くようにしている。べつに自然である必要はないのだが、「携帯もPCもない=ネットにつながっていない」という自分を取り戻すのは、私個人としては大切なことだ。その効果というのは「気分が変わる」だけなのだが、それが案外バカにできない。気分が変わると考え方が変わり、考え方が変わると行動が変わる。行動が変わると習慣が変わり、習慣が変わると人生が変わる。私は本当にそうだと思っている。

 とはいっても、ネットが悪いという訳ではない。要は「まず環境を変える」ということだと思う。そういう意味では、普段ネットを全く使わない人がネットを使うのも、良い変化になり得る。

 私の属した教会が解散となった時、多くの人が、傷を抱えたまま放置されたような状況となった。そして多くの人が、職場を変えたり住居を変えたり、その他の何かを変えたりして、再出発を試みた。やはり環境を変えたかったのだと思う。そしてそれは後ろ向きなことでなく、かえって前向きなことだと思う。

 気づかないうちに何かに慣れ、依存し、それを中心に生活するようになる傾向が、誰にもあるだろう。それを時々やめてみたり、変えてみたりすることは、自分自身を点検する良い機会になるだろうと思う。

2013年9月18日水曜日

クリスチャンとしての成長か、誰かに都合のいい成長か

 信徒をよく怒る牧師を知っている。
 この「怒る」というのは、注意するとか指導するとかいうレベルではない。「罵声を浴びせる」と言った方がいい。それでも表現し足りないかもしれない。

 なぜ怒るかというと、「成長」のためだという。
 聖書には「生めよ増えよ」とか「100倍の実」とかいう表現があって、それらは成長を表している、と牧師は言う。だからクリスチャンも教会も、成長することが使命だと。

 もちろん、成長しないよりは、した方がいいように思う。成長しないことを望む人というのは、きっと少ないのではないだろうか。けれど、そのためにいつも罵声を浴びなければならないというのは、かなり解せない。

 その牧師いわく、人間の(心の)成長には、二種類あるそうだ。
 一つは「褒められて伸びる」こと、もう一つは「厳しくされて伸びる」こと。言いたいことはわからないではない。確かにそういう部分はあると思う。が、よくよく考えてみると、違和感がある。

「褒められて伸びる」というのは、大体が、本人が積極的にする何かに関してだと思う。例えばピアノ好きな子が一生懸命練習して、ついに難曲を弾きこなす。教師や親は、その努力をきっと褒める。けれどこの場合、本人が成長したのは「褒められた」からでなく、その練習過程を自ら通ったからだ。厳密に言うと、褒められたというのは本人にとって「成長」でなく「評価」であろう。

 一方「厳しくされて伸びる」というのは、本人がしたくないこと、避けたいことに関してだろう。早寝早起きでも部屋掃除でも何でもいいが、そういうことを嫌う子にはある程度、厳しく言わなければならない。罰則も必要になるかもしれない。
 けれどこの場合、本人がそれをするのは「怒られるから」であって、それが「大切なことだから」ではない。この場合、早寝早起きなり部屋掃除なりを本人が大切だと思わない限り、真に成長したことにはならないだろう。

 ということは、人は、褒められたり怒られたりして成長するのではないと思う。もちろんそれらは成長のキッカケにはなるだろうけれど、それそのものが人を成長させるのではないだろう。成長というのは、本人がその価値に気づき、自らそう願うから、なるものではないだろうか。

 ということを考えると、その牧師が罵声を浴びせてまで実現したいのは、信徒の成長ではない気がする。例えば、賛美の曲を終わらせる時はこうしろとか、照明はこのタイミングでこうしろとか、この映像はこういうふうに作れとか、会堂の冷房温度は牧師の体感温度に合わせろとか、単に自分の好み通りにさせたいだけではないだろうか。

 実際、そういうことで怒られながら奉仕をした信徒の成長というのは、「クリスチャンとしての成長」というより、「その牧師の機嫌をとるスキルの成長」でしかない。それはもはや「虐待」のレベルではないだろうか。

 現在、教会で怒られたり嫌な思いをしたりしながら、それでも神様の為にと誠実に奉仕されている方は、その叱責の結果、自分がどういうふうに成長するのかよく想像してみたらいいかもしれない。

2013年9月17日火曜日

坊主が憎くても袈裟まで憎むべきではない、とわかっているが

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉がある。ある人を憎むあまり、その人に関係するもの全てが憎くなる、という意味だ。「憎む」までいかないにしても、同様の心理的経験は誰にでもあるのではないだろうか。

 けれど、これは「憎む」というネガティブな感情のみならず、ポジティブな感情にも働く心理だと思う。すなわち、ある人を好きになると、その人に関係するもの全てが好きになる、というようなことだ。憧れている人のファッションを真似するのも、好きな人の好物を好きになるのも、同様の心理ではないだろうか。

 私はかつての牧師に対して、似たような心理を持っていたと思う。
 私の牧師は能力的に優れていた。事業で言えば企画立案から計画準備、広報、実行、フィードバックに至るまで完璧にこなしているように見えたし、咄嗟の判断や緊急時の対応にも卓越していた。それだけでなく、ほとんど全ての判断に聖書的根拠を持っていて、いつも正しいように思えた。私はいつも目からウロコで、「そうか、こう考えればいいのか」「こうやればいいんだ」というような発見の連続だった。

 牧師のそういう能力はホンモノだったと思うし、私は心底尊敬していた。何とか真似てやろうといつも思っていた。心酔していたと言っても過言ではない。今にしてみれば恐ろしいことだけれど、彼の言うことはいつも正しいと、信じて疑わなくなっていた。

 だから牧師の発言に違和感を覚えても、それは自分の感じ方がおかしいんだ、自分が間違っているんだ、自分はまだ訓練の途中だからわかっていないんだ、と自然に考えるようになっていた。
 牧師が信徒のことを悪く言ったり、あからさまに貶めたりするのを見ても、そういうふうに牧師を正当化してしまうから、タチが悪い。

 つくづく、人間とは感情の生き物なのだと思う。
 冒頭の言葉を使うなら、「坊主」と「袈裟」は別個に考えなければならないはずだ。いくら坊主が憎くても、袈裟には何の罪もないからだ。同様に、牧師がどんなに素晴らしい人間でも、その発言や行動は別個に考えなければならないだろう。しかし、それがなかなかできない。
 そうやって感情を切り離せないのが、人間の人間たるゆえんなのではないかと思う。

 そう考えると、ある人の意見に対して「腹が立つ」と応えるのは、いかにも人間らしいことではないだろうか。意見は意見、人は人で切り離せるなら、その意見に猛烈に反対であっても「腹が立つ」とはならないだろうからだ。

 人というフィルターを通してでなく、意見そのものを純粋に聴けるようになりたいと私は思う。それはおそらく、冷静な判断をするうえで必要なこと、人を尊重するうえで必要なことだと思う。

2013年9月16日月曜日

給与額の水準について思うこと

 正規雇用とか非正規雇用とか形態はいろいろだろうが、とにかく働くうえで大切なのは給料ではないかと思う。給料をもらうために働くと言っても過言ではないかもしれない(私はそうだ)。もちろんお金以外の目的もあるだろうが、もし給料が一円ももらえないなら働かない(働けない)という人は多いと思う。

 その給料というのがピンキリで、業種や職種や何やかやでけっこう幅がある。
 私は医療・福祉分野でずっと働いている。この分野は資格を要する職種がほとんどで、それなりにお金をかけて勉強し、試験にパスしなければ得られないものばかりだ。
 が、この資格取得の苦労と、給与額が比例しているかというと、そうでもないような気がする。例えば介護分野で十数年前にできたケアマネという資格は、基礎資格での業務経験が必要なうえ、合格率2~3割程度の試験にパスしなければならない。それほどの難関であるにもかかわらず、その平均給与額は(私の感覚では)安いように思える。「介護保険制度の要」とか言われる資格だが、うまく利用されているような気がしてならない。
 他にも救急救命士などは激務で有名だけれど、平均給与額を見ると、やはり気の毒になってくる。

 もちろん、お金がすべてではない。「やりがい」とか最近ハヤリの「ワーク・ライフ・バランス」も大切だと思う。充実感をもって働けるなら、給与額はある程度、度外視できるとも思う。
 けれど、「やりがいがあるから満足だ」というのは働く人間が言うから納得できるのであって、それを会社側が押し付けるように言うのは、また別の話であろう。

 学生時代に地味にハマった漫画に、「ツルモク独身寮」というのがある。高卒で家具会社に就職した主人公の、仕事や独身寮での生活を描く青春物語だ。
 主人公の同僚に、とんでもない不良社員がいた(名前は忘れてしまった)。勤務態度が悪く、失敗も多く、そのくせ反省しない問題児だった。けれど主人公と殴り合いのケンカをした後(だったと思う)、ついに本音を話す。
 その不良社員の本音というのは、「このまま地道に働き続けても、生涯もらえる給料なんてだいたい計算できてしまう。そんな人生つまらない。もっと満足できることがしたい」というようなことだった。
 学生時代の私はそれを読んで、カッコいいなあと大いに共感したものだ。

 要するに彼の主張は、「もっと満足できる仕事をして、予測できないくらいの金持ちになりたい」ということだろうと思う。
 そのために必要なのは努力だったり勉強だったり、人脈だったり運だったり、勇気だったり挑戦だったりするかもしれない。しかし前述にように、努力や勉強だけでは、さほど期待できないのが現実なのだと思う。

 また、金持ちになったからとて、それが何になるのかという話にもなるだろう。もちろんお金はないよりあった方がいいけれど、その上限というのはキリがないと思う。財産が増えるほど心配事も増える、という話もある(私にはそういう経験はないが)。

 そう考えると、前述の「資格取得の苦労と給与額の不釣り合い」というのも、自分なりの合意点を見出して、折り合いをつけるのがいいのかもしれない。

 そういうことを考えているかどうかわからないけれど、そういう医療・福祉分野で、毎日真面目に働いている人が沢山いる。おそらくそれぞれに葛藤や悩みや、疲れやストレスがあると思うけれど、誠実に働き続けるその姿勢には本当に頭が下がる。資格取得の苦労がどうとか、給与額がどうとか、そういうのは品の無い話なのかもしれない。

「ノアの日」はある日突然やってくる

 私の教会は解散となり、もうないのだけれど、そのキッカケとなった出来事は、唐突に起こった。誰もそんなこと夢にも思わなかったと思う。私もそうだった。ある日気づくとそれはもう起こっていて、ショックやら何やらに流されるまま、解散という結果に辿り着いていた、という感じだ。

 それが起こる前、私たちは大きなイベントの準備で、毎日忙しくしていた。イベントはそれまでにない規模の大きさだった。そういう意味で、私たちはそれまでで最も盛んで、最も勢いがあり、最もエネルギッシュだった。その最中、突然足元をすくわれ、総崩れになったのだ。日本のためとかアジアのためとか若者のためとか、そういう使命感に燃えたイベントも、影のように消え去った。

 そういうことが起こるという危険性を感じていた人もいたかもしれないが、いつ、どんなことが起こるかまではわからなかっただろう。

 今にして思うと、それは私たちにとって「ノアの日」のようなものだったのではないかと思う。

 マタイ24章は、いわゆる「世の終わり」について書かれている。キリストいわく、「世の終わり」は「ノアの日」のようにやってくる。ノアの日とは、創世記6章から9章にある大洪水のことだ。その洪水が起こるまで、人々はいつも通り暮らしていて、それが全てを流してしまうまで、気づかなかった。世の終わりもそれと同じようにやってくる、という。


 もちろん、私に起こったのは一地域教会のことであって、世界規模とはかけ離れている。人々からしたら取るに足りないことかもしれない。いやいや、世界ではもっと悲惨なことが起こっているよ、と言われるかもしれないし、私もそうだと思う。

 けれど、私自身はこれを大切な教訓にしなければならないと考えている。

 かつて教会では、「世の終わりに備えよう」と言われていて、私もその通りだと思っていた。しかしフタを開けてみると、私こそ「予備の油を準備していなかった愚かな5人の娘」だったのだ。

 準備が必要だと思うことと、実際に準備することは全然違う。

 起こったことはとても悲しいことだけれど、もしそれを通しても得られるものがあるとしたら、それではないかと思う。通った苦しみや悲しみを糧として、本当の準備ができるようになることこそ、私たちに対する神の願いだろうと思う。

 クリスチャンの方々の現在の信仰の歩みが、突然やってくる「ノアの日」に際してなお真実と認められ、立ち続けていられることを、及ばずながら願うばかりである。

2013年9月15日日曜日

「あるがままでいい」では通用しないこともある

 今から十数年前、日本でチャーチスクールが始まった。キリスト教誌やキリスト教系新聞でも取り上げられ、ちょっとした話題になった。
 それらの記事の中に、「本来の姿に戻る子どもたち」と題するものがあった。一般社会で傷つき疲れたクリスチャン子弟が、チャーチスクールで徐々に自分自身を取り戻し、回復していった、という内容だった。日本全国のとは言わないが、当時のチャーチスクールには確かにそんな雰囲気があったと思う。

 
 公立学校の環境や、そこでの人間関係や、あるいは家族関係で悩み苦しむ子どもたちが数名教会に集まり、毎朝礼拝から始め、聖書を読んだり祈ったり、勉強したり、教師と一緒にランチを作って食べたり、午後は公園に散歩に行ったり、という「ゆったり感」は、当時のチャーチスクールの持ち味であったように思う。
 それは子どもによっては「人生の小休止」みたいな期間になったかもしれない。それで見失っていた自分自身を取り戻せたとしたら、チャーチスクールの大切な役割を果たせたのではないかと思う。

 同じような時期だったと思うけれど、韓国から「君は愛されるため生まれた」という賛美が入ってきて、とても流行ったと記憶している。それは「あるがままでいいんだ」というメッセージで、そういうチャーチスクールのテーマともリンクしているように思えた。

「あるがままでいいんだ」という言葉は、大変な励みになり得ると思う。「スパイダーマン2」の主人公ピーターは、スパイダーマンとしての能力を失いかけ、葛藤し、もがくけれど、どうにもならない。救いを求めて心療内科に行くと、「君はスパイダーマンにならなくてもいいんじゃないか。君のままでもいいんじゃないか」というようなことを言われ、元々の大学生に戻って平和に暮らし始める。
 これは心理学的には重要なアドバイスだったと思う。もし医者が「ああしたらいい」「こうしたらいい」と、あくまでスパイダーマンに戻るためのアドバイスをしていたとしたら、ピーターの葛藤は更に深刻なものになっていただろうからだ。

 そういうふうに、この「あるがままでいいんだ」は、時として必要なアプローチだと思う。
 けれど、いつもいつも必要、という訳でもないと思う。

 例えば寝坊グセが抜けないとか、万引きをやめられないとか、簡単にウソをついてしまうとかいう場合、「そのままでいいんだよ」と言うのはいささか問題であろう。きちんと律してあげることの方が愛情、という時もあると思う。

 つまり「あるがままでいい」と「きちんと律する」のバランスが必要なのだと思う。けれど、これが案外難しい。
 特にチャーチスクールは「あるがままでいい」に傾きやすいと思う。生徒がどんなことをしても最後は「許す」と「受け入れる」を選ぶことが、聖書的だと考えられるからだ。それはそれで良いことでもある。けれど、もし生徒がそれを見越して行動してくるとしたら、それはそれで難しい問題にもなるだろう。

「あるがままでいい」ことと、「あるがままではいけない」こと。その見極めは、クリスチャンであるなしに関わらず必要なことであろう。

2013年9月13日金曜日

運命とそれに抗う努力の対立でなく、両者のバランスをとる生き方

「ガタカ」という90年代の映画がある。
 近未来、遺伝子操作の進歩により、あらゆる優れた遺伝形質を持つ「適正者」たちが生み出されている。一方、自然出産で生まれる人々は、優劣を併せ持つ遺伝子のため「不適正者」と呼ばれていて、両者の間には厳格な差別が形成されている。
 主人公のビンセントは自然出産で生まれた不適正者だが、弟のアントンは適正者である。ビンセントは少年期から何をしてもアントンに勝てず、「不適正・劣性」という事実が重くのしかかる。しかしビンセントは諦めない。やがて彼は非合法な手段を使い、適正者しかなれない宇宙飛行士になって宇宙にはばたく。
 というのがあらすじである。

 私が好きなのは序盤の方の、ビンセントがアントンに初めて「勝つ」シーンだ。2人は海で泳ぐのだけれど、いつもは負けるビンセントが、その日ばかりはアントンを引き離し、弟に参ったと言わせる。
 わずかなシーンだけれど、私はここでこそ、ビンセントが「不適正者」という運命に立ち向かおうと決意したのではないかと思う。

 ここには「諦めず努力すれば運命は開かれる」という、若干歯の浮くようなテーマが込められているだろう。突き詰めると、精神論とか根性論とかいうものだろう。そういう意味で、この映画のテーマは「運命論 vs 精神論」かもしれない。

(「運命論」とは何かとか、精神論とは何かとか、厳密な定義づけをしようとは思わないし、どなたかにしていただく必要もない、と断っておく。)

 この映画の「適正者」「不適正者」のような、ある程度運命を決定づけられた立場というのは、 現代社会にもあるだろう。例えば親の経済力は子どもの進路を大きく左右するし、皇室や歌舞伎の世界は事実上の世襲となっている。生まれた国もその人の人生を大きく左右する。完全に抗えないではないが、抗いがたい道であるのは間違いないだろう。

 そういう抗いがたい運命に対して、ビンセントのように努力で立ち向かうのはカッコいいと私は思う。

 けれど、それは本人が「何としてもやり遂げる!」と決意して臨むからカッコいいのであって、「何としてもやり遂げろ!」と人に押し付けるのは話が違うと思う。私は運命論より精神論の方がどちらかというとシックリくるが、人から押し付けられる精神論というのはいただけないと思っている。

 ロシアの格言に「神に祈れ、だが岸に向かって漕ぐ手は休めるな」というのがあるが、この「運命論 vs 精神論」にうまく決着をつけていると思う。
 最後まで諦めず努力すべきだが、結果は全能の神の御手に委ねたらいい、というふうに私には聞こえる。

2013年9月12日木曜日

クリスチャンと「この世を楽しむ」こと②

 クリスチャンと「この世」(現代社会)との関係は、多くの人にとって関心事であろうと思う。

「この世」というと、すぐに「この世の楽しみ」という言葉が連想されるかもしれない。そしてこの「楽しみ」には、罪とか誘惑とかいうニュアンスが含まれているように思える。聖書に「世を愛してはならない」とか「暮らし向きの自慢は神からのものでない」とか書かれている(第一ヨハネ2章)ことも、それに影響しているかもしれない。

 だからだと思うが、「この世」を殊更に嫌悪して、行き過ぎた禁欲主義に陥っている傾向が日本のクリスチャンには少なからずあると思う。ということを以前も書いた。

 クリスチャンとて、宙に浮いて生活している訳ではない。少なくともこの肉体は、神の御許に行っている訳ではない。「われらの国籍は天にある」というのは信仰の姿勢として持つべきだが、それでも「外国に寄留している」のは間違いない。そこでの暮らしがあるのだから、クリスチャンも「この世」に生きて、そのシステムの中で恩恵に預かっている、というのは間違いない。

 だから「この世」とか表現して、自分とはかけ離れた別世界みたいに言うのは、私は違うと思う(私は教会でも教会外でも、「この世」という表現はしないことにしている)。

 聖書は単に、「世を愛してはならない」と言っているだけだ。憎んだり見下げたりしろとは言っていない。

 ではなぜ禁欲主義に過ぎてしまうのかというと、「この世=罪」という図式になってしまっているからではないかと思う。この世にあるものは何でも罪か誘惑に属している、と曖昧に考えていて(あるいはそのあたりのことを考えていなくて)、本当の罪との区別を付けていないのではないだろうか。

 例えば酒に酔うことはクリスチャンにとって罪だろうが、一般社会では文化とか習慣になっている。それはクリスチャンとして明確にラインを引かなければならないところだと思う。しかし、例えば窃盗はクリスチャンにとって罪だけれど、それは一般社会でも罪だ。不倫はクリスチャンにとって罪だけれど、一般社会でも倫理に反するし社会的制裁を免れない。

「この世」であっても守らなければならないことは沢山あるし、それらはクリスチャンとして「きよく」生きようとする上で、何ら問題にならない。たしかに職場の付き合いとしての酒の場などで困ることもあるが、そのあたりが、クリスチャンとして真剣に取り組むべき、ある意味で戦うべきところだと思う。

「この世」と「罪」の明確な区別をつけようとしないことが、おかしな禁欲主義に繋がっているような気がする。

 この社会には美しいものも素晴らしいものも沢山ある。いろいろな種類の芸術に触れるのも良いことだ。そういったものを「この世を愛してはダメだから」とすべて拒否するのは、「きよさ」でなく単なる「頑なさ」だろうと思う。

2013年9月11日水曜日

聖書的矯正というより、単なる人格否定。教会での「訓練」について思うこと。

 かつて教会で、牧師によく怒られたものだ。

 奉仕でのミスとか事業でのミスとかで叱られるのは、自分のせいだから仕方ないと思う。それによって奉仕や事業に向かう姿勢が引き締まるのは、クリスチャンとして必要かもしれない。
 けれど、私がどこか理不尽に感じていたのは、いわゆる「人格」に関する叱責だった。

 例えば牧師から、期限2週間が妥当な仕事を1週間でやれとか、通常なら不可能なことを実現しろとか言われ、「できません」と答える。すると「できないと言うな。初めからできないと言うから何もできなんだ」みたいな理屈で怒鳴られる。
要は否定的な発言はせず、常に肯定的な態度でいろ、という訳だ。

 もちろん否定的より肯定的がいいかもしれないが、この場合の「肯定的」とは、「何が何でもやり遂げる」「邪魔するものは蹴散らす」「実現するためならすべてが許される」という類のものだ。「強権」とか「無理矢理」とかと言うべきかもしれない。

 私はこれに従って、不眠不休の仕事をしたことが少なくない。また、いろいろな業者と掛け合って料金を下げさせたり、納期を半分にさせたり、ずいぶん強引なこともしてきた。

 これはほんの一例だけれど、牧師はそういうふうにして、信徒の態度とか人格とかを矯正しようとしていたように思う。個性を伸ばすというより、全員を同種の猪突猛進型というか、突破型というか、そういうタイプにしようとしていたように思える。

 前述の奉仕のミスなんかで叱られるのは、まだわかる(それでも本人がミスと認めていることを執拗に叱る必要はないと思う)。けれどこういう人格の矯正は、聖書的なのだろうか。

 聖書には確かにこう書いてある。
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 (テモテヘの第二の手紙 3:16 JA1955)

 牧師はこれに従って信徒を訓練しているのだ、と私は思っていた。しかしその教えや戒めや正しさが、結果的に「何が何でもやってやる」みたいな根性論人間を生み出すとしたら、やはりどこか聖書的でないのではないだろうか。

 かくいう私も、こういう「訓練」の結果、ゴリ押しすることを何とも思わない人間へと「成長」していた。何かをゴリ押しすることで、無理だとされていることを実現し、通常受けられない恩恵を受けられるようにすることは、クリスチャンの特権であり神の奇跡だろうと思っていた。

 それこそクリスチャンの陥りやすい傲慢だと、今は思う。

 もし今、かつての私と同じような境遇にある人がいるとしたら、是非考えてみてほしい。牧師やリーダーが今あなたにしている矯正が、聖書的なものなのかどうか、理不尽なものでないかどうかを。
 そして、牧師やリーダーに叱られることをイヤだと思いながら、でも訓練だからと忍耐しているとしたら、それが本当に価値ある忍耐なのかどうかを。

 あなたの人格を否定する権利は、誰にもない。あなたは別の誰かになる必要はないし、誰かが提示する理想像になる必要もない。もちろん、人間誰しも改善すべき点を持っている。けれどそれは、誰かに強いられて改善させられる種類のものではない。私はそう思う。

2013年9月10日火曜日

一方から見た正義が、他方から見ても正義とは限らない。「ゼロ・ダーク・サーティ」の感想。

 米特殊部隊がウサーマ・ビン・ラーディンを暗殺するまでの経緯を描いた映画「ゼロ・ダーク・サーティ」をDVDで観た。
 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロを始まりとし、2011年5月2日の暗殺作戦にて幕を閉じる。事の信憑性が議論されたようだけれど、作品としては概ね好意的に受け入れられている。

 一部で「アメリカ版忠臣蔵」と評されているが、うまい表現だと思う。同時多発テロの犠牲者の肉声に始まり、ウサマの死に終わる構成は、明らかに「復讐」を意味しているからだ。真っ暗な屋敷に侵入し、ウサマを探し出して問答無用で射殺する様は、確かに赤穂浪士の討入りを想起させる。
 信憑性の問題があってもアメリカ本国で好意的に受け入れられたのは、この「仇を打った」という結末のゆえだろうか。

 半沢直樹ではないが、「やられたらやり返す」というのは万国共通の感覚だろうと思う。いわゆる復讐の物語は、いつの時代も人々を魅了する。忠臣蔵しかり、巌窟王しかり、最近で言えば「半沢直樹」しかりだ。

「ゼロ・ダーク・サーティ」もそういう復讐の物語であるのは間違いない。けれど、私には若干の違和感があった。それは、アルカイダ側の人間の人物像というか、リアル感というか、そういうものがまったく描かれていなかったからだと思う。忠臣蔵の吉良なら「こいつ、絶対殺す!」と言いたくなるほどムカつくキャラが定番だが、まるでこの作品の敵は、心のない悪魔かロボットかで、何の生活感もなく、米軍がやって来るまでずっと停止して出番待ちしているかのように思えた。

 これは復讐劇としては台無しだと思う。同時多発テロを生々しく記憶している世代だからこそ「敵は誰か」「敵は何をしたのか」「なぜ復讐するのか」の説明がいらないのであって、そういう背景を知らない人が観たら「何のこっちゃ」である。
 あるいはそれならまだ良いかもしれない。下手すると、アラブ系は悪いとか、ムスリムは悪いとか、中東の方の人は悪いとか、そういう安易なイメージを与えてしまいかねない。
 それくら勉強してから観ろ、ということかもしれないが。

 もう一つ気になったのは、アメリカが完全なる正義、アルカイダが完全なる悪、という勧善懲悪の構図になっている点だ。もちろんアルカイダの行為は是認できない。けれど、彼らの動機とか、気持ちとか、そういうものにも目を向けるべきではないだろうか。そうでないと、バイキンマンとかドロンジョとか、単にヒーローを苦しめたいだけのご都合主義的な存在になってしまうし、それに立ち向かうアメリカは正義にしか見えなくなる。事態はもっと複雑だろうに。

 もっとも、これは人間の性みたいなものであろう。自分の立場とか、属するグループの立場とか、自分の国とか、そういう「自分の側」を正当化し、何であれ「相手の側」を悪とする傾向が、誰にもあるだろう。そういう意味での「アメリカ側」の立場が、はっきりと示された映画である。

2013年9月9日月曜日

「目的志向型」の教会について思うこと

 前回、教会が目標を持つならそのフィードバックもしっかりすべきだ、と書いた。その関連でもう少し書きたい。

 教会が目標を持つというのは、基本的に良いことだと思う。少なくとも何の目標もなく漫然と過ごすよりは、生産的と言える。

 しかしその目標というのも、過剰になると害となる。

 例えば最近の「新進」の教会に、NPO法人を設立して福祉事業や保育事業、就労支援事業やスポーツ事業、ついでに飲食業を始めるところが目立つ。
 それらはどれも社会貢献になるし、福音伝道の機会にもなるし、雇用創出にもなるし、教会会計を潤すことになる。一つ一つは決して間違いでなく、かえって良いものだ。教会の地域に対する使命であるかもしれない。

 けれどそういう事業を早く始めたいとか、いくつか同時に始めたいとか焦るべきではない。十分な人員がいて、本来の教会活動から分離した運営で始めるのでないなら、信徒にかかる負担が大きくなりすぎるからだ。初めはみんな喜んでやるし、それだけ見ると正しくもあるから続くけれど、しばらくすると、その負担が首を締めるようになる。

 教会の第一の使命は礼拝を守ることのはずだが、いつの間にかそれ以外の目標が大きくなってしまって、それを達成するために教会に集まるような状態になりかねない。

「それでは本末転倒だ」というのは普通にわかりそうなものだが、内部にいると、不思議なくらいわからないことがある。
 そういう場合は、外部から言ってもらわないと気づけない。しかし逆に言われれば言われるほど「自分たちは正しいことをしている、これは使命だ、邪魔しないでくれ」と態度を硬化する場合もあるから厄介だ。

 こういう「目的志向型」の教会というのもあっていいと思うけれど、そこに集う信徒は、その目的に貢献できないと居づらくなってしまう。彼らにとってその教会は癒しと回復の場でなく、競争と労働とビジネスの場かもしれない。

 私は「超」がつくほど目的志向型の教会にいたけれど、今にして思うと、ビジネスマン集団みたいだったなと思う。べつに否定する気はない。そういうのが好きな人にはいいのかもしれない。

 しかし、そういうのに食傷気味の私だからかもしれないが、べつに教会に目標なんてなくてもいいんじゃないかな、と思うことがある。冒頭の言葉を撤回するようだけれど。

2013年9月8日日曜日

教会が掲げる目標とそのフィードバックについて

 目標が大切だ、というのはビジネスシーンに限らず言われることだ。何らかの目標設定をし、その達成を目指して日々前進する以外、何かを成し遂げる方法はないだろう。あるいは偶発的に何かを達成することがあるかもしれないけれど、それは偶然の域を越えない。

「慣性の法則」はあらゆるものに当てはまる自然の法則で、人間もその例外でない。だから何の目標もなければ、人は昨日と同じ今日を過ごし、今日と同じ明日を過ごす。それが続くと同じ一ヶ月、同じ一年を過ごし、下手すると何の変化もない一生を過ごすことになる(人生に変化が必要かどうかという議論もあるだろうが)。

 そういう変化のない生活をよろしくないと思うならば、やはり目標設定は必要だろう。

 おそらく多くの教会が、この「目標」を掲げている。年間の目標とか月間の目標とかだ。教会全体がそれに向けて前進していくというのは、悪いことではないと思う。例えば、一年かけて教会組織を見直そうとか、賛美について学ぼうとか、神学のある分野を学ぼうとかだ。もっと長期のものだと、五年かけて会堂を改築しようというのもある。そういう目標というのは、教会の発展とか信徒の成長とかにも繋がるから良いものだろうと思う。

 けれど、そこにはフィードバックがなければならないと思う。目標を達成できたのか、部分的に達成できたのか、あるいは達成できなかったのか、そして達成できなかった理由は何で、何を改善すべきなのか、ということが議論されなければ、その目標を設定した意義がなくなってしまう。これはビジネスシーンでは当然のことだけれど、教会関係ではそうでもないような気がする。

 もうかなり前の話になるが、「日本一千万救霊」というのが韓国から入ってきた。一千万人というのは日本の人口の一割弱ということになるけれど、まずそれだけの日本人がクリスチャンになることを目標にしよう、ということだと思う。
 ご存知の通り、この目標はまだ達成されていない。これの実現に向けた組織だった動きとか、フィードバックとかがあるとも聞いたことがないから、残念ながら「言いっぱなしの目標」になっているような気がする。
 あるいは「具体策はないけれど願いとして持ち続けるべきだ」という人もいるだろうけれど、例えば「ピアノが弾けるようになりたい」と願っているだけでは、それは永遠に実現しない。

 もう一つには、「フィードバックしづらい目標設定」という問題もあると思う。その点「一千万救霊」とか「会堂改築」とかならフィードバックはしやすいけれど、例えば一年の目標を「聖霊に満たされて歩む」とか「聖霊に導かれて前進する」とかにすると、それをどう達成できたのか、あるいはできなかったのか、判然としないまま年を終えることになる。あるいは牧師が「非常によく達成できた」とか言うかもしれないが、それを具体的に表現できないなら、やはり信徒にとって判然としないのは変わらない。

 結論になるが、教会が目標を設定するなら、①フィードバック可能な目標であること、②ちゃんとフィードバックすること、が必要なのだと私は思う。

追記)
 もちろん、そもそも教会に目標設定が必要かどうかという議論もあるだろう。

2013年9月7日土曜日

クリスチャンと「この世を楽しむ」こと

 クリスチャンホームの子どもが、大人になってからクリスチャンになった人のことを「ずるい」とか「不公平だ」とか言うことがある。

 いわゆる「世の楽しみ」を経験した後で入信したから、だろうか。クリスチャンホームで育った子にはそういう機会がなかっただろうし、これからもないだろうから、そういう気持ちも出てくるのだと思う。
 それはそれで、わからないではない。

 けれどこれは、「無い物ねだり」とか、「隣の芝生は青い」とかいう心理だと思う。経験したことのないことはわからない訳で、それが良いのか悪いのか、判断できないはずだからだ。

 私自身は十代ギリギリで入信した口だから、そういうクリスチャンホームの子たちからしたら「ずるい」部類に入るのかもしれない(しかし「この世を満喫」したかというと、そうでもないと思っている)。
 けれど私の立場から言わせてもらうと、「もっと早く入信する機会があったら良かった」とか「こんなに苦労する前に入信したかった」とかいうのが、入信した時の正直な感想だ。クリスチャンホームに生まれたらどんなに良かったかと、当時の私は単純に考えていたものだ(今はそうは思わないが)。

 もちろんクリスチャンホームで育った子には相応の苦悩や葛藤があったはずで、「クリスチャンホームなんかに生まれなければ良かった」という気持ちも、本当なのだと思う。

 だからやはり、これは「隣の芝生は青い」類の話なのだろう。いずれにせよ、仕方のないことだ。


 もっとも、そういう話は子どもの発言だから「そうかもね」とスルーできるのであって、大人が言ったらいささか問題になるのではないか。「成人後に入信した人はこの世を満喫できたが、自分はそうでなかったから不公平だ」と言うのは、自分もそれを満喫したいと表明していることに他ならないからだ。

 けれど、これには不公平かどうか以前の問題があると思う。「この世を楽しむ」ことが具体的にどういうことで、クリスチャンがそれをしてはいけないのか、何故してはいけないのか、そのあたりが曖昧なままになっている気がするからだ。
 なんだか妙に禁欲的というか、100%聖人君主な生活に見せなければならないというか、そういう見当違いな「きよさ」に縛られているように思えてならない。

 そういうのが行き過ぎると、映画はダメだとか、ゲームはダメだとか、贅沢なレストランはダメだとか、車は中古車にすべきだとか、そういう話にもなるのだろう。下手すると、公立学校はダメだからホームスクールかチャーチスクールにしなければならない、という極端過ぎる話にまで発展するかもしれない。

 私たちはこの世界に生きているし、神様もこの世界の隅々にまで存在している。教会の中だけなんてことはない。妙な禁欲主義でなく、かといって開放的過ぎるのでもない、バランスのとれたクリスチャンの生き方というものがあるのだと思う。あってほしいと思う。

 その答えが出た時、冒頭のクリスチャンホームの子たちが言う「ずるい」は、もはや無用となるのではないだろうか。

2013年9月6日金曜日

知ったがゆえの苦悩、知らないがゆえの安楽

 原発関連の報道を見ていると、東電はまだ何か隠しているのではないかと疑いたくなる。先日汚染水の海水への流出が露見したばかりだけれど、まだまだ私たちの知らない何かがあるような気がする。

 真実を知るのは大切なことだと思う。例えば殺人事件の被害者遺族なら、事の真相を何が何でも知りたいのではないだろうか。今回の原発問題にしても、現在本当に何が起きていて、今後どうなっていくのか、そしてどんな対策がなされていくのか、多くの人が知りたいと思っているだろう。特に避難を余儀無くされている住民の方々には、切実な問題のはずだ。

 話は変わるが、映画「マトリックス」は技術的にも物語的にも、革新的だったと思う。私の好きな映画ランキングを作ったら、間違いなく上位5本のうちに入る。
 主人公ネオはある日、自分がずっと仮想空間で生きていることを知る。クスリで現実世界に目覚めてみると、そこは人間が機械によって「飼育」されている荒廃した地球だった。ネオはレジスタンスに加わり、現実と仮想空間とを行き来しつつ、機械との戦いに身を投じる。

 と、いうのがあらすじだ。この仮想空間での戦いが革新的技術によって描かれるのが、本作最大の魅力だろう。
 だからこう言うと元も子もないのだが、ネオは現実世界に目覚めないほうが幸せだったのではないか、と私は思う。真実を知って目覚めたがゆえ、彼は幾多の困難に直面し、葛藤し、最後は命を落とす(?)ことになる。目覚めなければ、それなりの人生を送ることができたはずなのにだ。もちろんそれが偽りの人生であり、それが彼の選択であるのはよくわかっているが。

 真実を追求することは、時として困難に立ち向かうことを意味するのだと思う。知らないがゆえに済ませていたことが、もう済ませられなくなるからだ。

 福島の原発事故の処理はまだまだこれからだし、根本的な原発問題に関してもまだ何も解決していない。これから先、更なる真実が明らかにされ、その悲惨さに、多くの人が目を覆いたくなるかもしれない。更なる戦いが起こり、更に多くの犠牲が払われることになるかもしれない。

 決して東電や政府を擁護するつもりではないが、 知らない方が良かった、ということにもなるかもしれない。知らない方が何も変えず、幸せに生きられたのにと後悔する人がいるかもしれない。

 これは極端な話だが、例えば放射能漏れが致命的なレベルとなり、東京都を含む東日本全域が避難地域に指定されたとしたらどうなるだろうか。避難したくてもできない、という人が少なからずいると思う。そういう人たちに、その真実を知らせることが果たして良いことなのかどうか、検討の余地があるだろう。

 真実を知るとは、後戻りできない道を進むことなのだと思う。

 私も属していた教会が解散となり、信仰の誤りを知るに至った。その事実を知ったことで、多くの苦悩を通ることになったのは間違いない。その苦悩や、まだそのことで傷つき苦しんでいる人たちのことを思うと、知らないで済んでいた方が良かったのでは、と思うこともある。

 知ったがゆえの苦悩、知らないがゆえの安楽。

 それが選択可能なオプションとして提示されたとしたら、果たしてどちらを選ぶべきだろうか?

追記)
 余談ではあるが、「マトリックス」シリーズの完結篇である「マトリックス・レボリューションズ」の結末でネオが死亡したのかどうかは定かでない。

2013年9月5日木曜日

「善意」は人に対する「思いやり」とは限らない

 CNNのサイトにこんな記事が掲載された。感動の美談として反響を呼んでいる。
「障害児もつ家族に見知らぬ客が思いやりのメモ ネットで反響」
 
 場所はノースカロライナ州。ある家族がレストランで食事をしていたところ、障害をもつ8歳の子供が癇癪を起こして叫び出した。周囲の目もあり困っていた親のもとに、メモが届けられた。そこにはこう書かれてあった。

「神は特別な人たちだけに、特別な子供を与えるのです」

 しかもその紙というのは支払い済みの伝票で、メッセージの主が、その家族の食事代を肩代わりしてくれたのだった。
 その母親は大変感動して、事の顛末をSNSに投稿した。それが話題となり、CNNに掲載されるに至ったという。

 これは夢のあるハッピーエンドの物語なのだろうが、私はしっくりしこなかった。これが日本なら、必ずしも美談にはならないのではないだろうか。少なくとも私がこの家族の立場だったら、嬉しいどころか腹立たしく思うかもしれない。何故なら障害があることを「特別」なことと一方的に決めつけられた上、同情され、勝手に代金を立て替えられたからだ。その家族の気持ちを真に考えてのことかというと、あやしく思えてならない。

 そのメッセージの主はおそらく善意でしたのだろうが、いわゆる「情けは人の為ならず」というか、自分が善人であることに満足しているというか、そういうふうに見える。相手の気持ちより、自分の気持ちを優先しているのではないだろうか。表題の「思いやり」という表現はふさわしくないような気がする。

 あるいは国民性の違いで、アメリカではこういう善意が素直に喜ばれるのかもしれない。また日本であっても、本当に困っている境遇であれば救われた気持ちにもなるだろう。記事の母親はこのタイプのようなので、「感動の美談」でおさまったのだと思われる。

 この記事を読んで、志賀直哉の「小僧の神様」という作品を思い出した。貴族院の男が、丁稚奉公の小僧の願いをひそかに知り、あとで鮨を奢ってあげるという話だ。小僧にとって男は神様のような存在なのだが、男からしたら「すし1つ食えないとはかわいそう」な小僧である。それは善意と言えば善意なのだろうが、私には大いに疑問を含む善意に見える。
 

2013年9月4日水曜日

カルト化とまでいかなくても、信仰が不健全になっていないかを確認するススメ

 表題の通り、カルト化とまでいかなくても、信仰が不健全になっていないかを確認するポイントについて、考えてみた。

 これに関しては、「行ってはいけない教会」で検索するといろいろな項目が出てきて参考になるかもしれない。こちらのブログにも「ブラック教会」リストなるものを掲載している記事があるが、的を射ていると思う。

 けれど、いくつかのリストで具体化するのとは別に、カルト化の本質的な危険性を提示できないものかと、考えてみた。

 結果、「強制」というのが、カルト化の重要な指標になるのではないかと思った。
 信仰は、もちろん聞いたり教えられたりすることで始まるものだが、信じること自体は自発的なものでなければならないだろう。「信じろ!」と脅されて信じたフリをするのは信仰でなく踏絵だ。人は自発的に信仰を持ち、自発的に教会に集い、自発的に礼拝を捧げ、自発的に奉仕をする。誰かに強いられて嫌々ながらするのは、教会であろうと礼拝であろうと、その人にとって虐待でしかないと思う。

 だからクリスチャンが教会で奉仕を強制させられているとしたら、それはもはやキリスト教信仰でなく、何かの社会活動になっているのだと思う。

 けれど、そこまであからさまに強制してくる教会というのは少ないだろう。信徒だって不振に思うはずだ。問題はもっとやっかいな、巧妙な手口でやってくる。

 私が知っているケースで言うと、牧師が何かを強制することはほとんどない。ただし、信徒自身がそうせざるを得なくなる状況へと、巧みに誘導していた。例えば、非常識な時間帯に、ある事業に関する緊急のミーティングが招集される。牧師は、「こんな時間に申し訳ない。これこれの事情で、すぐに集まって話し合わなければならなくなった。悪いが関係者全員の参加が絶対必要なんだ。本当にすまないけれど、この事業のため、ひいてはこの事業で救われる人たちのために、今から来てくれないか」というようなことを言う。まるで牧師自身も迷惑していて、でも自分は神様の為にやっていて、だから君もやるべきだ、というようなニュアンスだ。
 こう言われると、その事業にかかわっている自分の責任もあるし、それをストップさせる訳にいかないし、神様の為でもあるから、参加せざるを得なくなる。真面目な信仰者であればなおさらだろう。本当の問題はそんな時間にミーティングをしなければ立ち行かない事業の在り方にあるのだが。

 これはほんの一例だけれど、このように巧みに信仰を利用されて、何かをしなければならない状況へと追い込まれる。事実上の強制だ。そしてそれはあくまで牧師の都合でなく、状況がそうさせているのだ、神様がそうさせているのだ、ということで納得させられる。

「強制」が「義務」にすり替えられてしまう

 それを補強する牧師の言い訳は、「疑う者は何も得られない」とか「自分の十字架を負いなさい」とかの聖書の引用だ。

 そういう事実上の強制下にあるのは、言うなれば生き地獄だ。自分はどこかでイヤだと思っているのだが、それを言えば不信仰のレッテルを貼られてしまうし、自分自身もそう思っている。信仰者として成熟するため、この試練を乗り越えなければと頑張ってしまう。
 これなら、明らかに強制労働させられている奴隷の方がまだマシかもしれない。彼らは自分たちの境遇をはっきり認識しているからだ。

 そういう訳で、教会生活が強制的奉仕とか、事実上の強制的奉仕の連続になっているとしたら、ぜひその在り方を見直すべきだと思う。
 イヤなことをイヤだと言うのは不信仰でないし、休みたいと思うのも不信仰ではない。自分の時間を持ちたいと思うのも、家族との生活を楽しみたいと思うのも罪ではない。教会に自分の全生活、全人生を捧げることが信仰的なのでもない。かえって、自分の本心を覆い隠し、何の問題もない幸せなクリスチャンを装うことの方が、よっぽど神様を悲しませることではないかと私は思う。

追記)
「強制」をテーマに書いたが、クリスチャンホームの子どもが日曜に嫌々ながら礼拝に行かせられるという強制は、今回の話とは違うものだろう。

教会はどこまで忙しくなっていいか

 私の知っている牧師に、非常に忙しい人がいた。信徒やその家族の相談や、急なトラブルの対応や、いろいろな事業の監督などに毎日追われていた。本人いわく「秒単位のスケジュール」で、確かに大変そうだった。「忙しく働いている」という点においては、ウソはなさそうだった。

 だからだろうが、その教会ではいろいろなものが遅れ遅れになっていた。ある事業のために作らなければならない書類とか、会計処理とか、約束ごととかが、遅れたりすっぽかされたりしたのは一度や二度ではない。牧師は外部の人間との約束は神経質に守っていたが、例えばスタッフミーティングなどは平気で遅刻していた。

 そういう遅れ遅れの状況も、致し方ないと私は考えていた。信徒の真剣な悩み事やトラブルに全力で向かうのが牧師の本分だろうし、そういうのを適当にあしらって書類やら会計やらを間に合わせることの方が、問題だろうと思ったからだ。

 けれど、今になって落ち着いて考えてみると、本当にそうかと疑問がわく。始めた事業がなかなか発展せず、どれも尻すぼみになっていくのは、新しいイベントや事業を次々と立ち上げてしまうからだったし、牧師が何でも関わろうとして結局関われず、結果的に動きを鈍らせていたからだと思う。信徒の相談もある程度リーダーたちに任せれば良かったのではないだろうか。

 確かに、その牧師の個々の働きは素晴らしく見えた。けれどその背後に、遅れたり期限を過ぎたりすっぽかされたりしている事案が山ほどあった。そういう不健全な構図を見ると、「信徒のために頑張っているんだ」というのも一側面でしかないことがわかる。

 しかもそれで提出しなければならない書類が遅れたり、会計処理が遅れて給与支払いが遅れたりするのは、社会的責任を果たしていないということになる。信徒の方が大事だとか、緊急事態だからとか、そういう次元の話ではない。「社会にインパクトを与えたい」と標榜するならなおのこと、事務的なことや約束ごとは第一に守らねばならないのではないか。それがわからないなら、一度その社会に出て勉強すべきだろう。第一コリント13章の「礼儀に反することをしない」にも反している。

 確かに、イエス・キリストもその弟子たちも、宣教時は忙しかったようである。だからクリスチャンが忙しくなるのはやむを得ないことかもしれない(一般の人だって十分忙しいはずだが)。けれど、「今忙しいから」とか「今牧会が大変だから」とかで必要な責任を果たさないのは本末転倒だ。それが許されるというのは単なる勘違いだし、クリスチャンの甘さだろう。

 教会やキリスト教団体が忙しくなるのは良いことかもしれないが、それでも最低限の社会的責任が果たされ続けるサイクルは堅持しなければならない。そこに欠けがあるとしたら、その教会なり団体なりに、根本的な間違いがあるということに他ならない。

2013年9月3日火曜日

「結果が全て」なのはクリスチャンも同じだ

 私の教会の顛末を簡単に話すと、「教会が解散するなんてことがあるんですね」と驚かれることが多い。私も同感なので、ハイと答えるしかない。
 解散には複雑な事情があり、理由は一口には言えない。無牧(牧師がいない)教会というのは沢山あるから、牧師がいないことは理由にならないし、他の諸問題も、絶対に解決できなかったかと言うと、究極的にはそんなことはなかったと思う(そもそも問題のない教会というのはない)。
 ではなぜ解散したかと言うと、やはり、誰もそれ以外の選択ができなかったからだと思う。

 それが私たちの教会とか信仰とかの「結果」だったと、私は受け止めている。「結果が全て」というのは世の常だし、それはキリスト教社会でも変わらないと思う。聖書も「実で判断しなさい」と言っている。私たちの教会や信仰の在り方はどこかが間違っていて、それに気づくことも修正することもできず、ついには破綻をきたしてしまった。私はそう思っている。

 この「結果が全て」というのは、非情なことかもしれない。例えば受験生が努力して勉強し、志望校の合格圏に入ったとしても、わずか1点差で不合格になることがある。
 しかし一方で、「結果」というのは論理的で、時には正義でもあると思う。例えば教会がカルト化し、ひどい暴力や虐待が繰り返されるとしたら、それが破綻するのは信徒にとって救済となる。あのやり方は間違っていたんだ、という結果が示されることになる。それが露わにされない方がよっぽど非情だし、悲劇だ。

 キリスト教信仰、特に聖霊派の信仰というのは、間違いに陥りやすい傾向があると私は思っている。そして信仰とか権威とか忙しさとかの霧に包まれていると、その間違いに気づくことができない。だから間違いの連鎖に引きずりこまれ、ますます悪くなってしまう。真面目に純粋に信じてそうしているとしたら、こんな悲劇なことはない。

 全てのクリスチャンが、自身の教会生活とか信仰生活とかの「結果」を、遅かれ早かれ見ることになる。そしてそれが良いもの、神様に喜ばれるものであればいいと、誰もが願っているだろう。だからこそ言いたいのは、良かれと思っていることが大変な間違いだった、ということが実際にあるということだ。

2013年9月1日日曜日

人生に「試用期間」はないということを、聖書的に考えてみた

 働く人を大きく二つに分けると、経営者(雇用者)と給与所得者(被雇用者)に分けられるだろう。
 そして大半は後者だと思う。だから多くの人が、ある程度の就職活動を経て就職するのだと思う。かくいう私もその一人だ。

 その就職時、「試用期間」をとる企業がある。普通は三ヶ月とか半年とかで、その間、被雇用者は正社員ではないということになる。
 
 この試用期間、字だけ見ると「おためし」的な感じがするが、正確には「面接時に判明しなかった著しい不適性」の有無を確認するものとされている。だから雇用者は、その間に多少(性格とかで)気に入らない点を発見したとしても、彼を正社員にする義務がある。

 これは企業にとっては、結果的に良い期間となるだろう。雇ってみたら遅刻や欠勤ばかりだったとか、経歴詐称だったとか、そういう不利益を回避することができるからだ。

 けれど被雇用者にとっては、どうだろうか。
 もちろん真面目に働いていれば何の問題もない。が、何のメリットもない。雇用者にとってセーフティネットであるが、被雇用者にとってそうではない。
 もちろん、被雇用者には「会社が気に入らなければ辞める」という選択がある。しかし、「就職して辞めた」という事実は経歴として生涯残るし、それが短期間であれば不利益にしかならないだろう。
 これは平等とは言えないと思う。けれど、止むを得ないと言えばそうかもしれない。被雇用者にも会社の「試用期間」みたいなものがあればいいが、それには社会のシステム全体が変わらなければならないだろう。
 
 雇用者はいくらでも人を選べるが、被雇用者は選び直すほど不利になる。
 そういうことだと思う。

 もっとも、だから転職という制度があるのだろうし、それをうまく活用する方法というのもあるのだろう。

 と、いうのが現代社会の就職事情だと思う。
 それに対して聖書を引用するとしたら、「測り綱は私の好む所に落ちた」(詩編16篇6節・新改訳)というのを私は選びたい。つまり、私の選択(偶然や不可抗力も含む)の結果はすべて神様の導きによるものであり、その導きというのは私にとって最善である、という意味だ。もちろん、意図的に悪を選択したなら話は別だろうが。

 だから、熟考したうえで採用面接に応募し、内定をもらったのなら、そここそが神様の導きの場所だと信じるのがクリスチャンの信仰だと私は考える。であるなら、就職してみて「話が違う」とか「人間関係がひどい」とか感じたとしても、そこに神様の何かしらのメッセージがあると考えるべきだろう。

 被雇用者に勤務先を吟味する「試用期間」がないのは不公平だけれど、そういうクリスチャン信仰で歩むなら、そもそもそんな期間は必要ない、ということになる。

 これはもちろんキリスト教信仰の話であり、一般の人向けではないかもしれない。しかし、辞めようかどうしようかと思い悩むより、「ここで酸いも甘いも含めてやっていこう」と覚悟を決めて働く方が、潔いような気がする。

贖罪の日々は人生を無駄にする訳ではない

 報道番組で、毎日新聞のカメラマンだった五味宏基氏のことを初めて知った。

 五味氏は2003年5月、イラク戦争での取材を終えて帰国する際、ヨルダン空港で所持品検査を受けた。彼はバクダッドで拾った金属片を記念に持ち帰ろうとバッグに入れていたのだが、実はそれは米軍が投下したクラスター爆弾の不発弾だった。不幸にも検査中にそれが爆発、空港職員に死傷者が出てしまった。

 その後彼は実刑判決を受けたが、ヨルダン国王の特赦を受けた。けれど彼の贖罪の日々は、今も続いているように私には見えた。

 彼が不注意だったせいだと言えばそうなのだろう。死なせてしまった人やその遺族には、何の申し開きもないかもしれない。けれど、一つの不注意が人生を大きく左右するというのは本当に恐ろしいことだと思う。

 若い子が自転車で人をはね、死傷させてしまったという事故も少なくない。非常に高額な賠償金を負うケースもあるが、もしかしたら一生かかっても払いきれないかもしれない。もちろんその原因が本人の過失にあるのは間違いないし、被害者や遺族からしたら当然の心境だと思うけれど、そうやって若いうちから大きな十字架を背負うことを、私は不憫に思わずにいられない。

 この夏、勤務先での悪ふざけの写真をSNSに投稿してしまう若者が後を絶たず、「バカッター」と呼ばれる社会現象にまで発展した。企業側から解雇されただけでなく、損害賠償請求に至るケースもあると報じられている。これもやはり同じ種類の、人生をかけて背負う十字架になってしまうのだと思う。
 軽い気持ち、何の気もなしにしたことかもしれないが、その代償は本人たちの想像を絶するものだっただろう。

 もちろん、それくらい当然だ、常識をわきまえろ、という意見もあると思う。それは確かにその通りだろう。けれど同種のことがいつ自分の身に起こらないとも限らない。その時になって「当然の報いだ」と責められることを思うと、私自身はそういう意見を強く主張する気になれない。

 とは言うものの、犯した罪の責任を負い、賠償なり補償なりに誠実に取り組むことは、決して疎かにしてはならないと思う。そしてそれは確かに辛い、苦しいことだと思う。生涯をかけた心の旅路になるかもしれない。しかしそれを通して大切な何かに気づき、より良い人間になれるとしたら、決して人生の全てを無駄にした訳ではないのだと思う。

追記)
「犯した罪の責任を負い、賠償なり補償なりに誠実に取り組むこと」について。
 クリスチャンは「キリストの十字架による罪の許し」を強調するあまり、この点を軽視する傾向があると私は思っている。「何でもかんでも許される」という感覚が、礼儀や常識を軽視することにつながり、更には罪を助長することにもなりかねない。「謝ればいい」というのを通り越して、謝りさえしないクリスチャンというのもいる。一般常識では裁かれることが、教会内とかキリスト教社会内では裁かれないとしたら、それはキリスト教のモラルハザードであろう。クリスチャンこそ五味宏基氏の歩みを心に留め、見習うべきだと思う。