クリスチャンと「この世を楽しむ」こと

2013年9月7日土曜日

キリスト教信仰

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 クリスチャンホームの子どもが、大人になってからクリスチャンになった人のことを「ずるい」とか「不公平だ」とか言うことがある。

 いわゆる「世の楽しみ」を経験した後で入信したから、だろうか。クリスチャンホームで育った子にはそういう機会がなかっただろうし、これからもないだろうから、そういう気持ちも出てくるのだと思う。
 それはそれで、わからないではない。

 けれどこれは、「無い物ねだり」とか、「隣の芝生は青い」とかいう心理だと思う。経験したことのないことはわからない訳で、それが良いのか悪いのか、判断できないはずだからだ。

 私自身は十代ギリギリで入信した口だから、そういうクリスチャンホームの子たちからしたら「ずるい」部類に入るのかもしれない(しかし「この世を満喫」したかというと、そうでもないと思っている)。
 けれど私の立場から言わせてもらうと、「もっと早く入信する機会があったら良かった」とか「こんなに苦労する前に入信したかった」とかいうのが、入信した時の正直な感想だ。クリスチャンホームに生まれたらどんなに良かったかと、当時の私は単純に考えていたものだ(今はそうは思わないが)。

 もちろんクリスチャンホームで育った子には相応の苦悩や葛藤があったはずで、「クリスチャンホームなんかに生まれなければ良かった」という気持ちも、本当なのだと思う。

 だからやはり、これは「隣の芝生は青い」類の話なのだろう。いずれにせよ、仕方のないことだ。


 もっとも、そういう話は子どもの発言だから「そうかもね」とスルーできるのであって、大人が言ったらいささか問題になるのではないか。「成人後に入信した人はこの世を満喫できたが、自分はそうでなかったから不公平だ」と言うのは、自分もそれを満喫したいと表明していることに他ならないからだ。

 けれど、これには不公平かどうか以前の問題があると思う。「この世を楽しむ」ことが具体的にどういうことで、クリスチャンがそれをしてはいけないのか、何故してはいけないのか、そのあたりが曖昧なままになっている気がするからだ。
 なんだか妙に禁欲的というか、100%聖人君主な生活に見せなければならないというか、そういう見当違いな「きよさ」に縛られているように思えてならない。

 そういうのが行き過ぎると、映画はダメだとか、ゲームはダメだとか、贅沢なレストランはダメだとか、車は中古車にすべきだとか、そういう話にもなるのだろう。下手すると、公立学校はダメだからホームスクールかチャーチスクールにしなければならない、という極端過ぎる話にまで発展するかもしれない。

 私たちはこの世界に生きているし、神様もこの世界の隅々にまで存在している。教会の中だけなんてことはない。妙な禁欲主義でなく、かといって開放的過ぎるのでもない、バランスのとれたクリスチャンの生き方というものがあるのだと思う。あってほしいと思う。

 その答えが出た時、冒頭のクリスチャンホームの子たちが言う「ずるい」は、もはや無用となるのではないだろうか。

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