本音で話すのが良いとも限らない

2013年9月27日金曜日

キリスト教信仰 生き方について思うこと

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 かつて教会でよく、信徒どうしで「本音で話し合う時間」を持たされた。全員が全員という訳でもなかったと思うが、特に関係がギクシャクしていたり、何か腹にたまったものがあったりすると牧師に判断された人たちが個人的に集められ、話し合う時間を持たされていた。

 しかし本音で話し合うというのは、そう簡単ではない。大人であれば特にそうかもしれない。いろいろ話し合っていく中でだんだん核心に近づいていくのだけれど、単に時間をかければ近づけるというものでもない。バランスよく両者の話を聞き出し、問題の本質みたいなところを探っていく第三者の存在が必要で、その役割をするのがいつも牧師だった。
 そういう話し合いはだいたい何時間にも及んだ。互いに本音を出し合うのだから、衝突するし、泣いたりわめいたりのドラマもあったりする。けれど最終的には、いろいろあった後に「神様を見上げて互いに愛し合おう」ということで決着した。

 私たちがそれを嫌がっていたかと言うと、そうでもなく、むしろ人間関係において大切な時間であり、クリスチャンとして成長できるチャンスでもあると認識していたように思う(嫌がっていた人もいたかもしれないが)。

 なかなか本音を言えない環境にあるのなら、本音を曝け出せる場所はあった方がいいだろう。相手に対する不満とかモヤモヤを押し殺して「愛します」と言うのも、偽善的かもしれない。
 そしてそういう話し合いの時間を通して、少なからず相手の知らなかった面やわからなかった心の内を理解することができて、良い効果を生んだようにも思う。だからこそ私たちも、本音で話し合うことの重要性を認め、その話し合いに特に抵抗することなく応じていたのだろう(事実上の強制ではあったが)。

 しかしその本質的な結果をよくよく考えてみると、わだかまりのあった者どうしが一定の和解を得ること以上に、それを導いてくれた牧師に対する依存心を大きくしていたように思える。
 話し合った相手がどうこうでなく、この牧師の言うことを聞いていれば大丈夫だ、この牧師に人生を導いてもらえる、という思いを大きくしてしまう。そしてそれは、自分で考えたり判断したりする力を放棄することにつながる。

 また、本音で話し合う時ももちろん必要だけれど、いつもいつもという訳でもないと思う。
「いつも本音で話し合う」というのは、突き詰めると「思ったことは何でも口に出す」という感覚になる。それが悪いということではないが、それよりも、こう言ったら相手はどう思うだろう、相手はどんな気持ちになるだろう、ということを想像したり察したりする配慮の方が必要ではないかと思う。自分の本音もさることながら、そういう自分自身の内面を顧みるとか、ぐっと忍耐して考えてみるとか、そういうことが人間としての成熟ではないかと私は思う。

 そういう意味で、相手に対する不満とかモヤモヤを押し殺して「愛します」と言うのは、偽善とは違うのではないだろうか。むしろ愛しえない人を愛するという、キリスト教信仰の真髄を実行することではないだろうか。

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