「神の導き」を求め過ぎると、決断できなくなる

2013年9月26日木曜日

キリスト教信仰

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「神様の導きに従って生きる」というのは、クリスチャンが一般的に願うことだと思う。私のかつての教会でもそれは重要視されていた。「神様より出過ぎず、遅れず、歩幅を合わせて歩みなさい」とも言われていた。

 神様の導きに関する私の(そして私の教会の)認識は、とにもかくにも「神様から何らかの啓示がある」ということだった。それが前提なので、何かを判断する時、「まずは啓示を求めなければ」ということになる。

「啓示」というのは、(聞いた話によると)人によっていろいろで、肉声が聞こえたとか、夢を見たとか、同時期に複数の人から同じことを言われたとか、聖書のある個所が「示された」とか、心に特定の「思い」が示されたとか、そういう類のものだ。残念ながら私にはほとんどそういう経験はないのだが、経験したという人は少なくない。そういうこともあるのだろうと思う。

  今にして思うと、私はこの点でいつもモヤモヤを感じていた。何か啓示されたい、御心を知りたい、と願って祈るけれど、特にこれといった返答はない。それでも待つのだけれど、結局決断の時がきて、良かれと思うものを選ぶことになる。それに都合の良い御言葉があれば、それを引用して「示された」と言ったりもした。
 そしてそれは、おそらく私だけではなかっただろうと思う。私よりもっと若い人たちの多くが、進学とか就職とか献身とかで悩んでいたし、御心を求めているけれどなかなかわからない、決められない、という状況にあったと思う。

 牧師は「そういう葛藤を経て御心を判別できるようになる」と言っていたが、果たしてそうだろうか。

「何が何でも啓示を得なければならない」という思いが強迫観念のようにその人を捕えるとしたら、問題になると思う。結局いつまでたっても啓示がなく、それでも何かしらの啓示を得なければ済まされないとしたら、「何となく心に示されているような気がする」という感覚頼みに陥るのが関の山ではないだろうか。そしてその感覚頼みの繰り返しが、いつしか「啓示の捏造」につながってもおかしくないと思う。

 もちろん「何の啓示もないのはゴーサインという啓示だ」という考え方もあるだろう。けれど、似通ったAかBかを選択する時は、それは役に立たない。

「神の導き」はあると信じるけれど、それはどんなこともいちいち神様に伺いを立てて確認する類のものではないと思う。神様が私たちに願うのは、その都度ああしなさいこうしなさいと細かく指示することではないのではないか。それよりも、聖書という神様の意思の集大成があるのだから、私たちがそれを元にして「どう判断したらいいか」を学ぶことではないかと思う。

 私には子どもがいるけれど、子どもに頼られるのは嬉しいし、できるだけ助けてあげたいと思う。けれど、子どもが成長して大人になっても同じように頼ってくるとしたら、いささか心配になってしまうだろう。私が親として願うのは、子どもが自立して、自分でしっかり判断できるようになることだ。親なら誰もがそう願うのではないだろうか。

 それに、いつも啓示を得ることで何かを判断していくとしたら、それは本当の意味で自分の決断ではない。それは神様から与えられた自由意思を、無駄にする行為であろう。加えてその結果が悪いと、「神様のせいだ」と責任転嫁することにもなりかねない。

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