人生に「試用期間」はないということを、聖書的に考えてみた

2013年9月1日日曜日

生き方について思うこと

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 働く人を大きく二つに分けると、経営者(雇用者)と給与所得者(被雇用者)に分けられるだろう。
 そして大半は後者だと思う。だから多くの人が、ある程度の就職活動を経て就職するのだと思う。かくいう私もその一人だ。

 その就職時、「試用期間」をとる企業がある。普通は三ヶ月とか半年とかで、その間、被雇用者は正社員ではないということになる。
 
 この試用期間、字だけ見ると「おためし」的な感じがするが、正確には「面接時に判明しなかった著しい不適性」の有無を確認するものとされている。だから雇用者は、その間に多少(性格とかで)気に入らない点を発見したとしても、彼を正社員にする義務がある。

 これは企業にとっては、結果的に良い期間となるだろう。雇ってみたら遅刻や欠勤ばかりだったとか、経歴詐称だったとか、そういう不利益を回避することができるからだ。

 けれど被雇用者にとっては、どうだろうか。
 もちろん真面目に働いていれば何の問題もない。が、何のメリットもない。雇用者にとってセーフティネットであるが、被雇用者にとってそうではない。
 もちろん、被雇用者には「会社が気に入らなければ辞める」という選択がある。しかし、「就職して辞めた」という事実は経歴として生涯残るし、それが短期間であれば不利益にしかならないだろう。
 これは平等とは言えないと思う。けれど、止むを得ないと言えばそうかもしれない。被雇用者にも会社の「試用期間」みたいなものがあればいいが、それには社会のシステム全体が変わらなければならないだろう。
 
 雇用者はいくらでも人を選べるが、被雇用者は選び直すほど不利になる。
 そういうことだと思う。

 もっとも、だから転職という制度があるのだろうし、それをうまく活用する方法というのもあるのだろう。

 と、いうのが現代社会の就職事情だと思う。
 それに対して聖書を引用するとしたら、「測り綱は私の好む所に落ちた」(詩編16篇6節・新改訳)というのを私は選びたい。つまり、私の選択(偶然や不可抗力も含む)の結果はすべて神様の導きによるものであり、その導きというのは私にとって最善である、という意味だ。もちろん、意図的に悪を選択したなら話は別だろうが。

 だから、熟考したうえで採用面接に応募し、内定をもらったのなら、そここそが神様の導きの場所だと信じるのがクリスチャンの信仰だと私は考える。であるなら、就職してみて「話が違う」とか「人間関係がひどい」とか感じたとしても、そこに神様の何かしらのメッセージがあると考えるべきだろう。

 被雇用者に勤務先を吟味する「試用期間」がないのは不公平だけれど、そういうクリスチャン信仰で歩むなら、そもそもそんな期間は必要ない、ということになる。

 これはもちろんキリスト教信仰の話であり、一般の人向けではないかもしれない。しかし、辞めようかどうしようかと思い悩むより、「ここで酸いも甘いも含めてやっていこう」と覚悟を決めて働く方が、潔いような気がする。

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