聖書的矯正というより、単なる人格否定。教会での「訓練」について思うこと。

2013年9月11日水曜日

カルト問題 キリスト教信仰

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 かつて教会で、牧師によく怒られたものだ。

 奉仕でのミスとか事業でのミスとかで叱られるのは、自分のせいだから仕方ないと思う。それによって奉仕や事業に向かう姿勢が引き締まるのは、クリスチャンとして必要かもしれない。
 けれど、私がどこか理不尽に感じていたのは、いわゆる「人格」に関する叱責だった。

 例えば牧師から、期限2週間が妥当な仕事を1週間でやれとか、通常なら不可能なことを実現しろとか言われ、「できません」と答える。すると「できないと言うな。初めからできないと言うから何もできなんだ」みたいな理屈で怒鳴られる。
要は否定的な発言はせず、常に肯定的な態度でいろ、という訳だ。

 もちろん否定的より肯定的がいいかもしれないが、この場合の「肯定的」とは、「何が何でもやり遂げる」「邪魔するものは蹴散らす」「実現するためならすべてが許される」という類のものだ。「強権」とか「無理矢理」とかと言うべきかもしれない。

 私はこれに従って、不眠不休の仕事をしたことが少なくない。また、いろいろな業者と掛け合って料金を下げさせたり、納期を半分にさせたり、ずいぶん強引なこともしてきた。

 これはほんの一例だけれど、牧師はそういうふうにして、信徒の態度とか人格とかを矯正しようとしていたように思う。個性を伸ばすというより、全員を同種の猪突猛進型というか、突破型というか、そういうタイプにしようとしていたように思える。

 前述の奉仕のミスなんかで叱られるのは、まだわかる(それでも本人がミスと認めていることを執拗に叱る必要はないと思う)。けれどこういう人格の矯正は、聖書的なのだろうか。

 聖書には確かにこう書いてある。
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 (テモテヘの第二の手紙 3:16 JA1955)

 牧師はこれに従って信徒を訓練しているのだ、と私は思っていた。しかしその教えや戒めや正しさが、結果的に「何が何でもやってやる」みたいな根性論人間を生み出すとしたら、やはりどこか聖書的でないのではないだろうか。

 かくいう私も、こういう「訓練」の結果、ゴリ押しすることを何とも思わない人間へと「成長」していた。何かをゴリ押しすることで、無理だとされていることを実現し、通常受けられない恩恵を受けられるようにすることは、クリスチャンの特権であり神の奇跡だろうと思っていた。

 それこそクリスチャンの陥りやすい傲慢だと、今は思う。

 もし今、かつての私と同じような境遇にある人がいるとしたら、是非考えてみてほしい。牧師やリーダーが今あなたにしている矯正が、聖書的なものなのかどうか、理不尽なものでないかどうかを。
 そして、牧師やリーダーに叱られることをイヤだと思いながら、でも訓練だからと忍耐しているとしたら、それが本当に価値ある忍耐なのかどうかを。

 あなたの人格を否定する権利は、誰にもない。あなたは別の誰かになる必要はないし、誰かが提示する理想像になる必要もない。もちろん、人間誰しも改善すべき点を持っている。けれどそれは、誰かに強いられて改善させられる種類のものではない。私はそう思う。

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