クリスチャンとしての成長か、誰かに都合のいい成長か

2013年9月18日水曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 信徒をよく怒る牧師を知っている。
 この「怒る」というのは、注意するとか指導するとかいうレベルではない。「罵声を浴びせる」と言った方がいい。それでも表現し足りないかもしれない。

 なぜ怒るかというと、「成長」のためだという。
 聖書には「生めよ増えよ」とか「100倍の実」とかいう表現があって、それらは成長を表している、と牧師は言う。だからクリスチャンも教会も、成長することが使命だと。

 もちろん、成長しないよりは、した方がいいように思う。成長しないことを望む人というのは、きっと少ないのではないだろうか。けれど、そのためにいつも罵声を浴びなければならないというのは、かなり解せない。

 その牧師いわく、人間の(心の)成長には、二種類あるそうだ。
 一つは「褒められて伸びる」こと、もう一つは「厳しくされて伸びる」こと。言いたいことはわからないではない。確かにそういう部分はあると思う。が、よくよく考えてみると、違和感がある。

「褒められて伸びる」というのは、大体が、本人が積極的にする何かに関してだと思う。例えばピアノ好きな子が一生懸命練習して、ついに難曲を弾きこなす。教師や親は、その努力をきっと褒める。けれどこの場合、本人が成長したのは「褒められた」からでなく、その練習過程を自ら通ったからだ。厳密に言うと、褒められたというのは本人にとって「成長」でなく「評価」であろう。

 一方「厳しくされて伸びる」というのは、本人がしたくないこと、避けたいことに関してだろう。早寝早起きでも部屋掃除でも何でもいいが、そういうことを嫌う子にはある程度、厳しく言わなければならない。罰則も必要になるかもしれない。
 けれどこの場合、本人がそれをするのは「怒られるから」であって、それが「大切なことだから」ではない。この場合、早寝早起きなり部屋掃除なりを本人が大切だと思わない限り、真に成長したことにはならないだろう。

 ということは、人は、褒められたり怒られたりして成長するのではないと思う。もちろんそれらは成長のキッカケにはなるだろうけれど、それそのものが人を成長させるのではないだろう。成長というのは、本人がその価値に気づき、自らそう願うから、なるものではないだろうか。

 ということを考えると、その牧師が罵声を浴びせてまで実現したいのは、信徒の成長ではない気がする。例えば、賛美の曲を終わらせる時はこうしろとか、照明はこのタイミングでこうしろとか、この映像はこういうふうに作れとか、会堂の冷房温度は牧師の体感温度に合わせろとか、単に自分の好み通りにさせたいだけではないだろうか。

 実際、そういうことで怒られながら奉仕をした信徒の成長というのは、「クリスチャンとしての成長」というより、「その牧師の機嫌をとるスキルの成長」でしかない。それはもはや「虐待」のレベルではないだろうか。

 現在、教会で怒られたり嫌な思いをしたりしながら、それでも神様の為にと誠実に奉仕されている方は、その叱責の結果、自分がどういうふうに成長するのかよく想像してみたらいいかもしれない。

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