献金するには信仰が必要だが、し過ぎるのは信仰ではない

2013年9月24日火曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
献金というのは、クリスチャン生活において避けて通れない事柄だと思う。それをどう扱うかは、その人の信仰を如実に表すのではないだろうか。

何かの奉仕をすることは、自分の時間と労力を捧げることを意味する。それと同じように、献金は自分の経済を捧げることを意味する。どちらも、信仰なくしてできない。だから何をどれだけ捧げるかは、その人の信仰いかんによるのだと思う。

多く捧げる人は、それだけ深く神様を愛し信頼しているのかもしれない。あるいは成熟したクリスチャンなのかもしれない。少なくとも私の教会では、そういう認識があった。自分の力に応じて、あるいは自分の力以上に捧げることが美徳とされていた。実際、多くの人が多くのものを捧げていた。

それは、誰にどう言われたかに関わらず、究極的には「神様が必ず報いて下さる」という信仰があってのことだったと思う。献金したときは一時的に預金残高が減ったりマイナスになったりするが、いつかそれが捧げた以上になって返ってくるとか、別の形で報いられるとか、そういうことを信じていた。

それは信仰の姿勢としては間違っていないと思う。マラキ書やその他の箇所を見ても、捧げることの祝福みたいなことが書かれている。一般的な経済の本にも、お金は循環するものであり、流せば流すほど入ってくるものだと書いてある(だからといって、捧げれば必ず倍返しで返ってくるというような自動販売機的なことではない)。

私は献金による神の祝福を信じるけれど、捧げる際には注意が必要だろうと思っている。

献金をどれくらい捧げるか、という話でよく引用されるのが、ルカの福音書21章の「やもめの献金」とか、使徒行伝2章の初代教会のあり方(弟子たちは資産を売って捧げていた)あたりではないかと思う。大きな集会の「献金の勧め」では、かなりの頻度で「多く蒔くものは多くを刈り取る」というフレーズが使われる。

明言していないが、「持っているもの全部」とか「多く」とかいうニュアンスが、そこには含まれているような気がする。「金額ではない」としならがも、やはり「多く捧げること」が強調されているのではないだろうか。

真面目な人は、そこで無理して捧げてしまうかもしれない。そういう人をたくさん見てきた。その献身的・犠牲的精神は本当に素晴らしいし、神の祝福を信じる信仰も素晴らしいと思う。絶対に報われてほしい。

けれど、一世紀のユダヤ社会(特に初代教会)と、現代の日本社会とでは、献金のあり方にも違いがあるのではないかと思う。例えば一世紀の物流や消費は、通貨が全てではなかっただろうから、「生活費の全て」を捧げたやもめにしても、それですぐさま飲食に事欠くという話でもなかったはずだ。初代教会の弟子たちが持ち物を売り払って捧げたのも、基本的に共同生活であり、ある意味で社会主義的な分配にあずかっていたからだろう。

その点、現代の私たちが有り金を全部捧げてしまったら、下手したら今日の夕食にも事欠いてしまう。いくら教会に捧げたところで、教会が私たちの暮らしを面倒みてくれる訳でもない。

そういうことを考えると、「今日の集会で、思い切って財布の中身を全部捧げちゃったら帰りの電車賃すら残ってなかったよ」というのは、笑い話に聞こえない。

ある教会の、一人暮らしの紳士が亡くなった。身寄りがなかったので、教会員たちが遺品整理に伺った。故人はお洒落な紳士だったので、住まいも同じだろうと想像していた。けれど実際の住まいはそんな影もなく、相当苦しい生活が想像されるものだった、故人の隠れた苦悩をその時はじめて知った、という話を聞いたことがある。

そこにある教会生活と実生活のギャップの原因は何なのだろうか。献金と貯金のアンバランスはなかったのだろうか。

献金を捧げるには、確かに信仰が必要だ。けれど、多く捧げなければならない、そうでなければ祝福されない、などと思ったり思わせられたりして捧げるのは、信仰ではないような気がする。

自分たちの必要とか、将来の備えとか、子どもの教育費とか親の世話とか、そういう考えるべきことを放棄してしまうのは、「信仰」とは呼べないのではないだろうか。もしそれが信仰なのだとしたら、私は遠慮させていただきたいと思う。

QooQ