一方から見た正義が、他方から見ても正義とは限らない。「ゼロ・ダーク・サーティ」の感想。

2013年9月10日火曜日

映画評 雑記

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 米特殊部隊がウサーマ・ビン・ラーディンを暗殺するまでの経緯を描いた映画「ゼロ・ダーク・サーティ」をDVDで観た。
 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロを始まりとし、2011年5月2日の暗殺作戦にて幕を閉じる。事の信憑性が議論されたようだけれど、作品としては概ね好意的に受け入れられている。

 一部で「アメリカ版忠臣蔵」と評されているが、うまい表現だと思う。同時多発テロの犠牲者の肉声に始まり、ウサマの死に終わる構成は、明らかに「復讐」を意味しているからだ。真っ暗な屋敷に侵入し、ウサマを探し出して問答無用で射殺する様は、確かに赤穂浪士の討入りを想起させる。
 信憑性の問題があってもアメリカ本国で好意的に受け入れられたのは、この「仇を打った」という結末のゆえだろうか。

 半沢直樹ではないが、「やられたらやり返す」というのは万国共通の感覚だろうと思う。いわゆる復讐の物語は、いつの時代も人々を魅了する。忠臣蔵しかり、巌窟王しかり、最近で言えば「半沢直樹」しかりだ。

「ゼロ・ダーク・サーティ」もそういう復讐の物語であるのは間違いない。けれど、私には若干の違和感があった。それは、アルカイダ側の人間の人物像というか、リアル感というか、そういうものがまったく描かれていなかったからだと思う。忠臣蔵の吉良なら「こいつ、絶対殺す!」と言いたくなるほどムカつくキャラが定番だが、まるでこの作品の敵は、心のない悪魔かロボットかで、何の生活感もなく、米軍がやって来るまでずっと停止して出番待ちしているかのように思えた。

 これは復讐劇としては台無しだと思う。同時多発テロを生々しく記憶している世代だからこそ「敵は誰か」「敵は何をしたのか」「なぜ復讐するのか」の説明がいらないのであって、そういう背景を知らない人が観たら「何のこっちゃ」である。
 あるいはそれならまだ良いかもしれない。下手すると、アラブ系は悪いとか、ムスリムは悪いとか、中東の方の人は悪いとか、そういう安易なイメージを与えてしまいかねない。
 それくら勉強してから観ろ、ということかもしれないが。

 もう一つ気になったのは、アメリカが完全なる正義、アルカイダが完全なる悪、という勧善懲悪の構図になっている点だ。もちろんアルカイダの行為は是認できない。けれど、彼らの動機とか、気持ちとか、そういうものにも目を向けるべきではないだろうか。そうでないと、バイキンマンとかドロンジョとか、単にヒーローを苦しめたいだけのご都合主義的な存在になってしまうし、それに立ち向かうアメリカは正義にしか見えなくなる。事態はもっと複雑だろうに。

 もっとも、これは人間の性みたいなものであろう。自分の立場とか、属するグループの立場とか、自分の国とか、そういう「自分の側」を正当化し、何であれ「相手の側」を悪とする傾向が、誰にもあるだろう。そういう意味での「アメリカ側」の立場が、はっきりと示された映画である。

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