2013年9月4日水曜日

カルト化とまでいかなくても、信仰が不健全になっていないかを確認するススメ

 表題の通り、カルト化とまでいかなくても、信仰が不健全になっていないかを確認するポイントについて、考えてみた。

 これに関しては、「行ってはいけない教会」で検索するといろいろな項目が出てきて参考になるかもしれない。こちらのブログにも「ブラック教会」リストなるものを掲載している記事があるが、的を射ていると思う。

 けれど、いくつかのリストで具体化するのとは別に、カルト化の本質的な危険性を提示できないものかと、考えてみた。

 結果、「強制」というのが、カルト化の重要な指標になるのではないかと思った。
 信仰は、もちろん聞いたり教えられたりすることで始まるものだが、信じること自体は自発的なものでなければならないだろう。「信じろ!」と脅されて信じたフリをするのは信仰でなく踏絵だ。人は自発的に信仰を持ち、自発的に教会に集い、自発的に礼拝を捧げ、自発的に奉仕をする。誰かに強いられて嫌々ながらするのは、教会であろうと礼拝であろうと、その人にとって虐待でしかないと思う。

 だからクリスチャンが教会で奉仕を強制させられているとしたら、それはもはやキリスト教信仰でなく、何かの社会活動になっているのだと思う。

 けれど、そこまであからさまに強制してくる教会というのは少ないだろう。信徒だって不振に思うはずだ。問題はもっとやっかいな、巧妙な手口でやってくる。

 私が知っているケースで言うと、牧師が何かを強制することはほとんどない。ただし、信徒自身がそうせざるを得なくなる状況へと、巧みに誘導していた。例えば、非常識な時間帯に、ある事業に関する緊急のミーティングが招集される。牧師は、「こんな時間に申し訳ない。これこれの事情で、すぐに集まって話し合わなければならなくなった。悪いが関係者全員の参加が絶対必要なんだ。本当にすまないけれど、この事業のため、ひいてはこの事業で救われる人たちのために、今から来てくれないか」というようなことを言う。まるで牧師自身も迷惑していて、でも自分は神様の為にやっていて、だから君もやるべきだ、というようなニュアンスだ。
 こう言われると、その事業にかかわっている自分の責任もあるし、それをストップさせる訳にいかないし、神様の為でもあるから、参加せざるを得なくなる。真面目な信仰者であればなおさらだろう。本当の問題はそんな時間にミーティングをしなければ立ち行かない事業の在り方にあるのだが。

 これはほんの一例だけれど、このように巧みに信仰を利用されて、何かをしなければならない状況へと追い込まれる。事実上の強制だ。そしてそれはあくまで牧師の都合でなく、状況がそうさせているのだ、神様がそうさせているのだ、ということで納得させられる。

「強制」が「義務」にすり替えられてしまう

 それを補強する牧師の言い訳は、「疑う者は何も得られない」とか「自分の十字架を負いなさい」とかの聖書の引用だ。

 そういう事実上の強制下にあるのは、言うなれば生き地獄だ。自分はどこかでイヤだと思っているのだが、それを言えば不信仰のレッテルを貼られてしまうし、自分自身もそう思っている。信仰者として成熟するため、この試練を乗り越えなければと頑張ってしまう。
 これなら、明らかに強制労働させられている奴隷の方がまだマシかもしれない。彼らは自分たちの境遇をはっきり認識しているからだ。

 そういう訳で、教会生活が強制的奉仕とか、事実上の強制的奉仕の連続になっているとしたら、ぜひその在り方を見直すべきだと思う。
 イヤなことをイヤだと言うのは不信仰でないし、休みたいと思うのも不信仰ではない。自分の時間を持ちたいと思うのも、家族との生活を楽しみたいと思うのも罪ではない。教会に自分の全生活、全人生を捧げることが信仰的なのでもない。かえって、自分の本心を覆い隠し、何の問題もない幸せなクリスチャンを装うことの方が、よっぽど神様を悲しませることではないかと私は思う。

追記)
「強制」をテーマに書いたが、クリスチャンホームの子どもが日曜に嫌々ながら礼拝に行かせられるという強制は、今回の話とは違うものだろう。

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