「善意」は人に対する「思いやり」とは限らない

2013年9月5日木曜日

生き方について思うこと

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 CNNのサイトにこんな記事が掲載された。感動の美談として反響を呼んでいる。
「障害児もつ家族に見知らぬ客が思いやりのメモ ネットで反響」
 
 場所はノースカロライナ州。ある家族がレストランで食事をしていたところ、障害をもつ8歳の子供が癇癪を起こして叫び出した。周囲の目もあり困っていた親のもとに、メモが届けられた。そこにはこう書かれてあった。

「神は特別な人たちだけに、特別な子供を与えるのです」

 しかもその紙というのは支払い済みの伝票で、メッセージの主が、その家族の食事代を肩代わりしてくれたのだった。
 その母親は大変感動して、事の顛末をSNSに投稿した。それが話題となり、CNNに掲載されるに至ったという。

 これは夢のあるハッピーエンドの物語なのだろうが、私はしっくりしこなかった。これが日本なら、必ずしも美談にはならないのではないだろうか。少なくとも私がこの家族の立場だったら、嬉しいどころか腹立たしく思うかもしれない。何故なら障害があることを「特別」なことと一方的に決めつけられた上、同情され、勝手に代金を立て替えられたからだ。その家族の気持ちを真に考えてのことかというと、あやしく思えてならない。

 そのメッセージの主はおそらく善意でしたのだろうが、いわゆる「情けは人の為ならず」というか、自分が善人であることに満足しているというか、そういうふうに見える。相手の気持ちより、自分の気持ちを優先しているのではないだろうか。表題の「思いやり」という表現はふさわしくないような気がする。

 あるいは国民性の違いで、アメリカではこういう善意が素直に喜ばれるのかもしれない。また日本であっても、本当に困っている境遇であれば救われた気持ちにもなるだろう。記事の母親はこのタイプのようなので、「感動の美談」でおさまったのだと思われる。

 この記事を読んで、志賀直哉の「小僧の神様」という作品を思い出した。貴族院の男が、丁稚奉公の小僧の願いをひそかに知り、あとで鮨を奢ってあげるという話だ。小僧にとって男は神様のような存在なのだが、男からしたら「すし1つ食えないとはかわいそう」な小僧である。それは善意と言えば善意なのだろうが、私には大いに疑問を含む善意に見える。
 

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