復讐について思うこと

2013年9月28日土曜日

生き方について思うこと

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「やられたらやり返す」で有名なテレビドラマ「半沢直樹」が高い視聴率を得、「倍返しだ」が流行語みたいになった。私個人はドラマとして楽しく観させてもらった。けれど「仕返しは良くないよ」という意見もあるようだ。特にクリスチャンの視点からするとそうかもしれない。聖書は復讐を「神がするもの」と言っているからだ。

 ただし、半沢直樹のそれは復讐とは若干違うと私は思っている。彼の行為は「仕返し」というより、究極的には「不正を正す」ものだからだ(もちろん、彼の行動原理には父親の死と、父を死に追いやった銀行に対する憤りみたいなものがあるが)。

「半沢直樹」を観てスカッとする人が多いのは、それが単なる復讐でなく、悪徳上司等の理不尽に立ち向かって勝つからだと思う。これが単なる復讐劇なら、あれほど爽快にはならないのではないか。

 作風の違いもあるだろうが、最近リリースされた「藁の盾」はまさに復讐がテーマで、爽快とは程遠い雰囲気となっている。孫娘を惨殺された老人が、圧倒的な財力で犯人を殺害しようとする話だ。最後、その老人本人が犯人に斬りかかるシーンがあるが、その姿は哀れとしか言いようがない。復讐したところでどうにもならないけれど、復讐せずにいられない、そんな心理がうまく表現されていたように思う。
 結局この犯人には死刑判決が言い渡される。けれど、そのときの犯人の台詞を聞くと、仮に老人の復讐が成功したとしても無意味であったことがわかる。
「どうせ死刑になるなら、もっと(悪事を)しておけば良かった」

 復讐とは、そのものが悲劇なのではないだろうか。

 復讐したいという気持ちは私にも少しはわかるつもりだ。けれど、その復讐が達成されても、まったく気分が晴れないだろうというのも想像できる。
「半沢直樹」の最終回、半沢はついに、父の仇である大和田常務を追い詰め、土下座をさせるに至る。それまでの経緯を見ていれば「ついにやった」とも思うのだが、私はそういう気持ちと同時に「そこまでやって何になる?」という疑問も抱いた。むしろそれを痛々しい気持ちで見ていた。ドラマ前半で浅野支店長の謀略に勝利した時の、あの突き抜けるような爽快感はまったくなかった。

 旧約聖書には「逃れの町」というのが出てくる。過失殺人等を犯してしまった者が、その遺族からの復讐を避けるために逃れる町のことだ。その町にいる限り、殺人者は引き渡されることなく、安全が保障される。それは復讐したくてもできず、また復讐される恐怖から守られる仕組みであり、神が復讐を禁じている証であろう。
 それは問答無用な禁止令のような気もするが、復讐の悲劇性を思うと、かえって神の愛情のような気もする。復讐したくてそれを実行してしまう悲劇を、強制的に止めるからだ。
 その結果、復讐者が復讐したくてもできない無念を抱えたまま生きることになるとしても、それは復讐を果たしてしまう虚しさを抱えて生きるよりも良いような気がする。

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