坊主が憎くても袈裟まで憎むべきではない、とわかっているが

2013年9月17日火曜日

キリスト教信仰 生き方について思うこと

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「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉がある。ある人を憎むあまり、その人に関係するもの全てが憎くなる、という意味だ。「憎む」までいかないにしても、同様の心理的経験は誰にでもあるのではないだろうか。

 けれど、これは「憎む」というネガティブな感情のみならず、ポジティブな感情にも働く心理だと思う。すなわち、ある人を好きになると、その人に関係するもの全てが好きになる、というようなことだ。憧れている人のファッションを真似するのも、好きな人の好物を好きになるのも、同様の心理ではないだろうか。

 私はかつての牧師に対して、似たような心理を持っていたと思う。
 私の牧師は能力的に優れていた。事業で言えば企画立案から計画準備、広報、実行、フィードバックに至るまで完璧にこなしているように見えたし、咄嗟の判断や緊急時の対応にも卓越していた。それだけでなく、ほとんど全ての判断に聖書的根拠を持っていて、いつも正しいように思えた。私はいつも目からウロコで、「そうか、こう考えればいいのか」「こうやればいいんだ」というような発見の連続だった。

 牧師のそういう能力はホンモノだったと思うし、私は心底尊敬していた。何とか真似てやろうといつも思っていた。心酔していたと言っても過言ではない。今にしてみれば恐ろしいことだけれど、彼の言うことはいつも正しいと、信じて疑わなくなっていた。

 だから牧師の発言に違和感を覚えても、それは自分の感じ方がおかしいんだ、自分が間違っているんだ、自分はまだ訓練の途中だからわかっていないんだ、と自然に考えるようになっていた。
 牧師が信徒のことを悪く言ったり、あからさまに貶めたりするのを見ても、そういうふうに牧師を正当化してしまうから、タチが悪い。

 つくづく、人間とは感情の生き物なのだと思う。
 冒頭の言葉を使うなら、「坊主」と「袈裟」は別個に考えなければならないはずだ。いくら坊主が憎くても、袈裟には何の罪もないからだ。同様に、牧師がどんなに素晴らしい人間でも、その発言や行動は別個に考えなければならないだろう。しかし、それがなかなかできない。
 そうやって感情を切り離せないのが、人間の人間たるゆえんなのではないかと思う。

 そう考えると、ある人の意見に対して「腹が立つ」と応えるのは、いかにも人間らしいことではないだろうか。意見は意見、人は人で切り離せるなら、その意見に猛烈に反対であっても「腹が立つ」とはならないだろうからだ。

 人というフィルターを通してでなく、意見そのものを純粋に聴けるようになりたいと私は思う。それはおそらく、冷静な判断をするうえで必要なこと、人を尊重するうえで必要なことだと思う。

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