「異言」に関する個人的反省と希望

2013年9月23日月曜日

キリスト教信仰

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私のかつての教会では「異言」が肯定されていた。というより推奨されていて、異言を語れるようになって一人前、みたいな雰囲気があった。

そしてそれは私の教会だけでなく、いわゆる聖霊派の教会全般に通ずるものだったと思う。超教派の大きな集会の「皆で自由に祈りましょう」みたいな時、周りから聞こえてくるのは異言ばかりだった。

私が教会で異言について教えられたのは、「すべての御霊の賜物の基礎」であることと、「異言で祈れば祈るほど御霊の力で満たされる」ということだった。だから何時間でも異言で祈るというのは、私の教会ではごく普通の、誰もがしていることだった。

けれど以前書いたように、私たちの異言というのは「バラバラ」とか「ダダダ」とかいう意味のない擬音語で、聖書が異言について示す「自分がまったく知らない外国語を完璧に話す」こととは、だいぶ違っていたように思う。

それを語り始めるキッカケとして、こんなケースがあった。まず「異言を話せる」何人かの先輩クリスチャンや牧師に囲まれる。次に牧師に腹のあたりを押され、「腹から湧き上がってくるものを解放しなさい」とか「最初は真似でもいいから音を発してみなさい」とか言われる。そして牧師の合図で、先輩クリスチャンたちが一斉に「擬音語異言」で祈り始める。複数の大音量の擬音語に囲まれたまま、牧師に声を出すように促され、それが何分も続く。
あとは人それぞれだが、何となく真似して声を出してみると、それらしい擬音語が出てきたりする。すると「ハレルヤ、異言が与えられた」ということになる。

他の人のケースを全て知っている訳ではないけれど、少なくとも私は、そういう「何となく真似してみたら出てきた」という経緯で異言を語りはじめた。だから正直言うと、「これは本当に異言を伴う聖霊のバプテスマの証なのだろうか。気のせいではないのだろうか」という疑問が、心のどこかにあった。それをずっと押し殺してきた、と言ってもいいかもしれない。

今、その疑問が非常に大きくなっているのは言うまでもない。

とは言っても、私は異言を完全否定する立場ではないから、他の人の異言についてとやかく言うつもりはない。むしろそれが本当の異言であり、神の大いなる御業を表すものであるなら素晴らしいと思う。
それに比べると私は偽り者であり、感覚頼みの未熟なクリスチャンであることを、反省しなければならない。

そんな私が異言について唯一気をつけていたのは、「秩序を守る」ということだった。つまり未信者の前では語らない、ふさわしくない時には語らない、ということだった。

あるクリスチャンの男性が、夜の街で女性に声をかけられた。女性の身なりから、いかがわしい誘いであることがすぐにわかった。そこでその男性は、女性に向かって異言で祈り出した。女性はすぐに、怪訝な顔で立ち去った。
「だから異言の祈りによって御霊の力が現されるのです」というのがこの話のキモらしいが、それは御霊の現れというより、単に変人だと思われたからではないだろうか。

繰り返すが、私は異言を完全否定する立場ではない。むしろ本当の異言がどんなものか、知りたいと思っている。また神様がそれについてどのように願っておられるのか、知りたいとも思っている。
そしてそれはきっと、私が語ったようなウソっぽい異言でなく、また未信者を怪訝にさせるだけの異言でもないだろうと思う。

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