教会はどこまで忙しくなっていいか

2013年9月4日水曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 私の知っている牧師に、非常に忙しい人がいた。信徒やその家族の相談や、急なトラブルの対応や、いろいろな事業の監督などに毎日追われていた。本人いわく「秒単位のスケジュール」で、確かに大変そうだった。「忙しく働いている」という点においては、ウソはなさそうだった。

 だからだろうが、その教会ではいろいろなものが遅れ遅れになっていた。ある事業のために作らなければならない書類とか、会計処理とか、約束ごととかが、遅れたりすっぽかされたりしたのは一度や二度ではない。牧師は外部の人間との約束は神経質に守っていたが、例えばスタッフミーティングなどは平気で遅刻していた。

 そういう遅れ遅れの状況も、致し方ないと私は考えていた。信徒の真剣な悩み事やトラブルに全力で向かうのが牧師の本分だろうし、そういうのを適当にあしらって書類やら会計やらを間に合わせることの方が、問題だろうと思ったからだ。

 けれど、今になって落ち着いて考えてみると、本当にそうかと疑問がわく。始めた事業がなかなか発展せず、どれも尻すぼみになっていくのは、新しいイベントや事業を次々と立ち上げてしまうからだったし、牧師が何でも関わろうとして結局関われず、結果的に動きを鈍らせていたからだと思う。信徒の相談もある程度リーダーたちに任せれば良かったのではないだろうか。

 確かに、その牧師の個々の働きは素晴らしく見えた。けれどその背後に、遅れたり期限を過ぎたりすっぽかされたりしている事案が山ほどあった。そういう不健全な構図を見ると、「信徒のために頑張っているんだ」というのも一側面でしかないことがわかる。

 しかもそれで提出しなければならない書類が遅れたり、会計処理が遅れて給与支払いが遅れたりするのは、社会的責任を果たしていないということになる。信徒の方が大事だとか、緊急事態だからとか、そういう次元の話ではない。「社会にインパクトを与えたい」と標榜するならなおのこと、事務的なことや約束ごとは第一に守らねばならないのではないか。それがわからないなら、一度その社会に出て勉強すべきだろう。第一コリント13章の「礼儀に反することをしない」にも反している。

 確かに、イエス・キリストもその弟子たちも、宣教時は忙しかったようである。だからクリスチャンが忙しくなるのはやむを得ないことかもしれない(一般の人だって十分忙しいはずだが)。けれど、「今忙しいから」とか「今牧会が大変だから」とかで必要な責任を果たさないのは本末転倒だ。それが許されるというのは単なる勘違いだし、クリスチャンの甘さだろう。

 教会やキリスト教団体が忙しくなるのは良いことかもしれないが、それでも最低限の社会的責任が果たされ続けるサイクルは堅持しなければならない。そこに欠けがあるとしたら、その教会なり団体なりに、根本的な間違いがあるということに他ならない。

QooQ