今から十数年前、日本でチャーチスクールが始まった。キリスト教誌やキリスト教系新聞でも取り上げられ、ちょっとした話題になった。
それらの記事の中に、「本来の姿に戻る子どもたち」と題するものがあった。一般社会で傷つき疲れたクリスチャン子弟が、チャーチスクールで徐々に自分自身を取り戻し、回復していった、という内容だった。日本全国のとは言わないが、当時のチャーチスクールには確かにそんな雰囲気があったと思う。
公立学校の環境や、そこでの人間関係や、あるいは家族関係で悩み苦しむ子どもたちが数名教会に集まり、毎朝礼拝から始め、聖書を読んだり祈ったり、勉強したり、教師と一緒にランチを作って食べたり、午後は公園に散歩に行ったり、という「ゆったり感」は、当時のチャーチスクールの持ち味であったように思う。
それは子どもによっては「人生の小休止」みたいな期間になったかもしれない。それで見失っていた自分自身を取り戻せたとしたら、チャーチスクールの大切な役割を果たせたのではないかと思う。
同じような時期だったと思うけれど、韓国から「君は愛されるため生まれた」という賛美が入ってきて、とても流行ったと記憶している。それは「あるがままでいいんだ」というメッセージで、そういうチャーチスクールのテーマともリンクしているように思えた。
「あるがままでいいんだ」という言葉は、大変な励みになり得ると思う。「スパイダーマン2」の主人公ピーターは、スパイダーマンとしての能力を失いかけ、葛藤し、もがくけれど、どうにもならない。救いを求めて心療内科に行くと、「君はスパイダーマンにならなくてもいいんじゃないか。君のままでもいいんじゃないか」というようなことを言われ、元々の大学生に戻って平和に暮らし始める。
これは心理学的には重要なアドバイスだったと思う。もし医者が「ああしたらいい」「こうしたらいい」と、あくまでスパイダーマンに戻るためのアドバイスをしていたとしたら、ピーターの葛藤は更に深刻なものになっていただろうからだ。
そういうふうに、この「あるがままでいいんだ」は、時として必要なアプローチだと思う。
けれど、いつもいつも必要、という訳でもないと思う。
例えば寝坊グセが抜けないとか、万引きをやめられないとか、簡単にウソをついてしまうとかいう場合、「そのままでいいんだよ」と言うのはいささか問題であろう。きちんと律してあげることの方が愛情、という時もあると思う。
つまり「あるがままでいい」と「きちんと律する」のバランスが必要なのだと思う。けれど、これが案外難しい。
特にチャーチスクールは「あるがままでいい」に傾きやすいと思う。生徒がどんなことをしても最後は「許す」と「受け入れる」を選ぶことが、聖書的だと考えられるからだ。それはそれで良いことでもある。けれど、もし生徒がそれを見越して行動してくるとしたら、それはそれで難しい問題にもなるだろう。
「あるがままでいい」ことと、「あるがままではいけない」こと。その見極めは、クリスチャンであるなしに関わらず必要なことであろう。
こんにちは
返信削除いつもコメントを公開許可してくださってありがとうございます。
「君は愛されるため生まれた」という歌の詞に、「あるがままでいいんだ」というメッセージを私は読み取ったことがありませんでした。韓国語の歌詞にもそういうニュアンスは無いと思っています。歌う人次第、用いる人次第なんだなと思思って少し驚きました。
神の前に救いを求めるには「あるがままでいいんだ」と言えますが、その後については「実を結ぶ」「心の一新によって変わる」などの御言葉も有るわけですから、注意しなければなりませんし、そういう区別が直ぐに判る必要が有ると思います。
聖書は許すことも教えますが、償うことも教えていることを忘れてはいけないと思います。