「あるがままでいい」では通用しないこともある

2013年9月15日日曜日

教育 生き方について思うこと

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 今から十数年前、日本でチャーチスクールが始まった。キリスト教誌やキリスト教系新聞でも取り上げられ、ちょっとした話題になった。
 それらの記事の中に、「本来の姿に戻る子どもたち」と題するものがあった。一般社会で傷つき疲れたクリスチャン子弟が、チャーチスクールで徐々に自分自身を取り戻し、回復していった、という内容だった。日本全国のとは言わないが、当時のチャーチスクールには確かにそんな雰囲気があったと思う。

 
 公立学校の環境や、そこでの人間関係や、あるいは家族関係で悩み苦しむ子どもたちが数名教会に集まり、毎朝礼拝から始め、聖書を読んだり祈ったり、勉強したり、教師と一緒にランチを作って食べたり、午後は公園に散歩に行ったり、という「ゆったり感」は、当時のチャーチスクールの持ち味であったように思う。
 それは子どもによっては「人生の小休止」みたいな期間になったかもしれない。それで見失っていた自分自身を取り戻せたとしたら、チャーチスクールの大切な役割を果たせたのではないかと思う。

 同じような時期だったと思うけれど、韓国から「君は愛されるため生まれた」という賛美が入ってきて、とても流行ったと記憶している。それは「あるがままでいいんだ」というメッセージで、そういうチャーチスクールのテーマともリンクしているように思えた。

「あるがままでいいんだ」という言葉は、大変な励みになり得ると思う。「スパイダーマン2」の主人公ピーターは、スパイダーマンとしての能力を失いかけ、葛藤し、もがくけれど、どうにもならない。救いを求めて心療内科に行くと、「君はスパイダーマンにならなくてもいいんじゃないか。君のままでもいいんじゃないか」というようなことを言われ、元々の大学生に戻って平和に暮らし始める。
 これは心理学的には重要なアドバイスだったと思う。もし医者が「ああしたらいい」「こうしたらいい」と、あくまでスパイダーマンに戻るためのアドバイスをしていたとしたら、ピーターの葛藤は更に深刻なものになっていただろうからだ。

 そういうふうに、この「あるがままでいいんだ」は、時として必要なアプローチだと思う。
 けれど、いつもいつも必要、という訳でもないと思う。

 例えば寝坊グセが抜けないとか、万引きをやめられないとか、簡単にウソをついてしまうとかいう場合、「そのままでいいんだよ」と言うのはいささか問題であろう。きちんと律してあげることの方が愛情、という時もあると思う。

 つまり「あるがままでいい」と「きちんと律する」のバランスが必要なのだと思う。けれど、これが案外難しい。
 特にチャーチスクールは「あるがままでいい」に傾きやすいと思う。生徒がどんなことをしても最後は「許す」と「受け入れる」を選ぶことが、聖書的だと考えられるからだ。それはそれで良いことでもある。けれど、もし生徒がそれを見越して行動してくるとしたら、それはそれで難しい問題にもなるだろう。

「あるがままでいい」ことと、「あるがままではいけない」こと。その見極めは、クリスチャンであるなしに関わらず必要なことであろう。

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