目標が大切だ、というのはビジネスシーンに限らず言われることだ。何らかの目標設定をし、その達成を目指して日々前進する以外、何かを成し遂げる方法はないだろう。あるいは偶発的に何かを達成することがあるかもしれないけれど、それは偶然の域を越えない。
「慣性の法則」はあらゆるものに当てはまる自然の法則で、人間もその例外でない。だから何の目標もなければ、人は昨日と同じ今日を過ごし、今日と同じ明日を過ごす。それが続くと同じ一ヶ月、同じ一年を過ごし、下手すると何の変化もない一生を過ごすことになる(人生に変化が必要かどうかという議論もあるだろうが)。
そういう変化のない生活をよろしくないと思うならば、やはり目標設定は必要だろう。
おそらく多くの教会が、この「目標」を掲げている。年間の目標とか月間の目標とかだ。教会全体がそれに向けて前進していくというのは、悪いことではないと思う。例えば、一年かけて教会組織を見直そうとか、賛美について学ぼうとか、神学のある分野を学ぼうとかだ。もっと長期のものだと、五年かけて会堂を改築しようというのもある。そういう目標というのは、教会の発展とか信徒の成長とかにも繋がるから良いものだろうと思う。
けれど、そこにはフィードバックがなければならないと思う。目標を達成できたのか、部分的に達成できたのか、あるいは達成できなかったのか、そして達成できなかった理由は何で、何を改善すべきなのか、ということが議論されなければ、その目標を設定した意義がなくなってしまう。これはビジネスシーンでは当然のことだけれど、教会関係ではそうでもないような気がする。
もうかなり前の話になるが、「日本一千万救霊」というのが韓国から入ってきた。一千万人というのは日本の人口の一割弱ということになるけれど、まずそれだけの日本人がクリスチャンになることを目標にしよう、ということだと思う。
ご存知の通り、この目標はまだ達成されていない。これの実現に向けた組織だった動きとか、フィードバックとかがあるとも聞いたことがないから、残念ながら「言いっぱなしの目標」になっているような気がする。
あるいは「具体策はないけれど願いとして持ち続けるべきだ」という人もいるだろうけれど、例えば「ピアノが弾けるようになりたい」と願っているだけでは、それは永遠に実現しない。
もう一つには、「フィードバックしづらい目標設定」という問題もあると思う。その点「一千万救霊」とか「会堂改築」とかならフィードバックはしやすいけれど、例えば一年の目標を「聖霊に満たされて歩む」とか「聖霊に導かれて前進する」とかにすると、それをどう達成できたのか、あるいはできなかったのか、判然としないまま年を終えることになる。あるいは牧師が「非常によく達成できた」とか言うかもしれないが、それを具体的に表現できないなら、やはり信徒にとって判然としないのは変わらない。
結論になるが、教会が目標を設定するなら、①フィードバック可能な目標であること、②ちゃんとフィードバックすること、が必要なのだと私は思う。
追記)
もちろん、そもそも教会に目標設定が必要かどうかという議論もあるだろう。
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