「鑑賞型礼拝」に関する個人的誤解

2013年9月22日日曜日

キリスト教信仰

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 プロテスタントの礼拝に初めて出席した人が、「コンサートみたいだった」と表現していた。その人は未信者で、旅行先で観光がてら、その教会に行ってみたという。「天使にラブソングを」という映画みたいなゴスペルを期待していたらしい。

 その人いわく、3曲くらい歌が「披露」され、華やかな照明と映像の演出で、プロでもなくゴスペルでもなかったけれど、「うまい歌」だったという。皆で歌う、いわゆる「会衆賛美」はなかったようだ。
 奉仕者以外は座って見ていればいい、いわゆる「鑑賞型礼拝」だったのだろうと思う。

 それと同じ要素は、私のかつての教会にもあった。信徒の何人かがグループになって「特別賛美」を披露したり、ダンスを披露したり、何かの映像を上映したりした。

 そういう歌やダンスの鑑賞も、広義には礼拝行為だろうと思う。考えてみれば、牧師の説教を聞くというのも礼拝の一部である。
礼拝というと、賛美を歌ったり、祈ったり、告白したりという「能動的行為」を私はイメージしやすい。けれど鑑賞というどちらかと言うと「受動的行為」にも、礼拝要素はあるのだと思う。
 それは、神に祈り、その「返答」としての何かを受け取る、という構図にも似ている。

 ただしこの鑑賞型礼拝が礼拝として成立するのは、鑑賞する側に信仰があり、そういう礼拝理解があるからであろうと思う。冒頭の人が礼拝を「コンサートみたいだった」と評したように、それがその人にとって礼拝とならない場合も、多分にありそうだからだ。

信徒教育というのは教会によっていろいろだろうけれど、礼拝についてどう教えるかは、けっこう優先度の高い項目だと思う。クリスチャンにとって礼拝は基本であり最重要であり、かつ毎週のことだからだ。だから会衆賛美にどういう意味があるとか、その他にも祈りとか告白とか献金とか、説教とか頌栄とか聖餐とか、それが何で、何故するのか、ということは一人一人が明確に理解しているべきだと思う。けれど、これが案外忘れられているような気がする。

私が知っている教会でいえば、例えば「鑑賞型礼拝」に関する説明はない。特別賛美もダンスもその他の何かも当然のように披露されているけれど、それらをどう鑑賞するかは、個々に完全に委ねられている。
ちなみにそこの牧師は鑑賞するとき、必ずと言っていいほど片手をあげ、感動しすぎてタマランという顔で「ハレルヤ」とか「アーメン」とかつぶやいている。その個人の感動は結構なことだ。けれど、そういうことを教えられていない信徒は、完全なる放置状態に置かれることになる。

私も初めのうち、その被放置者の一人だった。どうしていいかわからず、そういう牧師の感動の様子を横目で盗み見て、「あ、これを見ながら感動し、臨在を感じることも礼拝なのか」と察したものだ。そして、それでも感動できないし臨在を感じられない自分を、クリスチャンとしてまだまだレベルが低いのかな、と思ったりした。

しかし、歌や踊りを鑑賞することで感動することが、直接礼拝になるのでもない。それで神の臨在を感じることが、クリスチャンとしての成熟を表す訳でもない。けれどそういう誤解が、けっこうあるのではないかと思う。

教会が信徒をどう教育するのも自由だし、それで信徒が満足しているなら、問題ないかもしれない。けれどもし、信徒が私のように「察すること」で学んでいくとしたら、「感動=礼拝」とか「感動=臨在」とかいう、たいへんな誤解をしかねないだろうと思う。

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