「結果が全て」なのはクリスチャンも同じだ

2013年9月3日火曜日

キリスト教信仰

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 私の教会の顛末を簡単に話すと、「教会が解散するなんてことがあるんですね」と驚かれることが多い。私も同感なので、ハイと答えるしかない。
 解散には複雑な事情があり、理由は一口には言えない。無牧(牧師がいない)教会というのは沢山あるから、牧師がいないことは理由にならないし、他の諸問題も、絶対に解決できなかったかと言うと、究極的にはそんなことはなかったと思う(そもそも問題のない教会というのはない)。
 ではなぜ解散したかと言うと、やはり、誰もそれ以外の選択ができなかったからだと思う。

 それが私たちの教会とか信仰とかの「結果」だったと、私は受け止めている。「結果が全て」というのは世の常だし、それはキリスト教社会でも変わらないと思う。聖書も「実で判断しなさい」と言っている。私たちの教会や信仰の在り方はどこかが間違っていて、それに気づくことも修正することもできず、ついには破綻をきたしてしまった。私はそう思っている。

 この「結果が全て」というのは、非情なことかもしれない。例えば受験生が努力して勉強し、志望校の合格圏に入ったとしても、わずか1点差で不合格になることがある。
 しかし一方で、「結果」というのは論理的で、時には正義でもあると思う。例えば教会がカルト化し、ひどい暴力や虐待が繰り返されるとしたら、それが破綻するのは信徒にとって救済となる。あのやり方は間違っていたんだ、という結果が示されることになる。それが露わにされない方がよっぽど非情だし、悲劇だ。

 キリスト教信仰、特に聖霊派の信仰というのは、間違いに陥りやすい傾向があると私は思っている。そして信仰とか権威とか忙しさとかの霧に包まれていると、その間違いに気づくことができない。だから間違いの連鎖に引きずりこまれ、ますます悪くなってしまう。真面目に純粋に信じてそうしているとしたら、こんな悲劇なことはない。

 全てのクリスチャンが、自身の教会生活とか信仰生活とかの「結果」を、遅かれ早かれ見ることになる。そしてそれが良いもの、神様に喜ばれるものであればいいと、誰もが願っているだろう。だからこそ言いたいのは、良かれと思っていることが大変な間違いだった、ということが実際にあるということだ。

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