教会が目標を持つというのは、基本的に良いことだと思う。少なくとも何の目標もなく漫然と過ごすよりは、生産的と言える。
しかしその目標というのも、過剰になると害となる。
例えば最近の「新進」の教会に、NPO法人を設立して福祉事業や保育事業、就労支援事業やスポーツ事業、ついでに飲食業を始めるところが目立つ。
それらはどれも社会貢献になるし、福音伝道の機会にもなるし、雇用創出にもなるし、教会会計を潤すことになる。一つ一つは決して間違いでなく、かえって良いものだ。教会の地域に対する使命であるかもしれない。
けれどそういう事業を早く始めたいとか、いくつか同時に始めたいとか焦るべきではない。十分な人員がいて、本来の教会活動から分離した運営で始めるのでないなら、信徒にかかる負担が大きくなりすぎるからだ。初めはみんな喜んでやるし、それだけ見ると正しくもあるから続くけれど、しばらくすると、その負担が首を締めるようになる。
教会の第一の使命は礼拝を守ることのはずだが、いつの間にかそれ以外の目標が大きくなってしまって、それを達成するために教会に集まるような状態になりかねない。
「それでは本末転倒だ」というのは普通にわかりそうなものだが、内部にいると、不思議なくらいわからないことがある。
そういう場合は、外部から言ってもらわないと気づけない。しかし逆に言われれば言われるほど「自分たちは正しいことをしている、これは使命だ、邪魔しないでくれ」と態度を硬化する場合もあるから厄介だ。
こういう「目的志向型」の教会というのもあっていいと思うけれど、そこに集う信徒は、その目的に貢献できないと居づらくなってしまう。彼らにとってその教会は癒しと回復の場でなく、競争と労働とビジネスの場かもしれない。
私は「超」がつくほど目的志向型の教会にいたけれど、今にして思うと、ビジネスマン集団みたいだったなと思う。べつに否定する気はない。そういうのが好きな人にはいいのかもしれない。
しかし、そういうのに食傷気味の私だからかもしれないが、べつに教会に目標なんてなくてもいいんじゃないかな、と思うことがある。冒頭の言葉を撤回するようだけれど。
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