贖罪の日々は人生を無駄にする訳ではない

2013年9月1日日曜日

生き方について思うこと

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 報道番組で、毎日新聞のカメラマンだった五味宏基氏のことを初めて知った。

 五味氏は2003年5月、イラク戦争での取材を終えて帰国する際、ヨルダン空港で所持品検査を受けた。彼はバクダッドで拾った金属片を記念に持ち帰ろうとバッグに入れていたのだが、実はそれは米軍が投下したクラスター爆弾の不発弾だった。不幸にも検査中にそれが爆発、空港職員に死傷者が出てしまった。

 その後彼は実刑判決を受けたが、ヨルダン国王の特赦を受けた。けれど彼の贖罪の日々は、今も続いているように私には見えた。

 彼が不注意だったせいだと言えばそうなのだろう。死なせてしまった人やその遺族には、何の申し開きもないかもしれない。けれど、一つの不注意が人生を大きく左右するというのは本当に恐ろしいことだと思う。

 若い子が自転車で人をはね、死傷させてしまったという事故も少なくない。非常に高額な賠償金を負うケースもあるが、もしかしたら一生かかっても払いきれないかもしれない。もちろんその原因が本人の過失にあるのは間違いないし、被害者や遺族からしたら当然の心境だと思うけれど、そうやって若いうちから大きな十字架を背負うことを、私は不憫に思わずにいられない。

 この夏、勤務先での悪ふざけの写真をSNSに投稿してしまう若者が後を絶たず、「バカッター」と呼ばれる社会現象にまで発展した。企業側から解雇されただけでなく、損害賠償請求に至るケースもあると報じられている。これもやはり同じ種類の、人生をかけて背負う十字架になってしまうのだと思う。
 軽い気持ち、何の気もなしにしたことかもしれないが、その代償は本人たちの想像を絶するものだっただろう。

 もちろん、それくらい当然だ、常識をわきまえろ、という意見もあると思う。それは確かにその通りだろう。けれど同種のことがいつ自分の身に起こらないとも限らない。その時になって「当然の報いだ」と責められることを思うと、私自身はそういう意見を強く主張する気になれない。

 とは言うものの、犯した罪の責任を負い、賠償なり補償なりに誠実に取り組むことは、決して疎かにしてはならないと思う。そしてそれは確かに辛い、苦しいことだと思う。生涯をかけた心の旅路になるかもしれない。しかしそれを通して大切な何かに気づき、より良い人間になれるとしたら、決して人生の全てを無駄にした訳ではないのだと思う。

追記)
「犯した罪の責任を負い、賠償なり補償なりに誠実に取り組むこと」について。
 クリスチャンは「キリストの十字架による罪の許し」を強調するあまり、この点を軽視する傾向があると私は思っている。「何でもかんでも許される」という感覚が、礼儀や常識を軽視することにつながり、更には罪を助長することにもなりかねない。「謝ればいい」というのを通り越して、謝りさえしないクリスチャンというのもいる。一般常識では裁かれることが、教会内とかキリスト教社会内では裁かれないとしたら、それはキリスト教のモラルハザードであろう。クリスチャンこそ五味宏基氏の歩みを心に留め、見習うべきだと思う。

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