2014年10月31日金曜日

【キリスト教系時事】パレスチナ国家承認・法王の進化論支持

 最近のキリスト教系時事について。
 
・パレスチナ国家承認の動き
 
 スウェーデンが、パレスチナを国家として承認したとのこと。
 
 
 当然ながら賛否両論あるだろうけれど、これでパレスチナが国家としてイスラエルと肩を並べ、両者の和平交渉が進展するなら、望ましいことだと私は思う。
 それにリンク記事にもある通り、パレスチナは国民も領土も政府も有しており、国家でないと言う方が無理がある。今まで承認されてこなかったのは、イスラエルとの対立に絡む、政治的な意図があるように思える。
 
 けれど「ユダヤかぶれ」の牧師やクリスチャンらには、今回の承認は気に入らない動きであろう。
「パレスチナに味方することはイスラエルに敵することで、それは神に敵対することだ」なんて言いそうだ。そしてスウェーデン政府を「神の敵」、「反キリスト」とか決めつけかねない。
 
 パレスチナを国家として承認するかどうかの議論は以前からあり、上記のクリスチャンらの関心の的だった。ある教会など、承認されないように祈る時間をわざわざ設けていた。そして「霊の戦い」をして、勝ったつもりになっていた(今回の承認は、彼らの敗北を意味するのだろう)。
 
 彼らの「イスラエル贔屓」は盲目的としか思えない。以前も書いたけれど、ユダヤ文化を自教会に取り入れ、ユダヤ暦の行事をし、エルサレム参拝を神聖視する(まるで行けば神に会えるみたいに)。イスラエル軍によるパレスチナ市民への不当な攻撃には口を閉ざし、あくまでイスラエルを支持する。
 旧約聖書への傾倒が強すぎる。新約聖書の「恵み」を忘れ、律法に帰ろうとするかのようだ。「ダビデの幕屋の回復」にも熱心で、もう必要なくなって過ぎ去ったものを、そのまま回復させようと必死になっている。彼らが新約聖書を利用するのは、許してほしい時と、使徒職を主張する時くらいだ。
 
 もちろんイスラエルは神の選びの国で、神に愛されている。けれどそれとまったく同じようにパレスチナも神の選びの国で、神に愛されている。日本もそうだ。他の国々もそうだ。福音はユダヤ人にも異邦人にも救いを得させると、聖書が宣言しているのだから。
 
 だからある特定の国が特別で、その国の文化風習が一際重要で、それを取り入れるべきだ、という道理はない。たとえばユダヤ文化を全面的に取り入れるべきで、日本文化は二の次でいい、ということはない。もうしそうだとしたら、私たちは一体何人なのだろうか?
 
 旧約に従うなら、パレスチナは「神の敵」となり得る。けれど新約は「愛しなさい」と言っている。だからパレスチナは国家になるべきでない、神の敵だ、一般市民が犠牲になってもいい、と主張するのは、クリスチャンのあるべき姿ではない。というか、まともな人間の姿でもない。
 
 虐げられている人が権利を得、苦しみから解放されるなら、それを単純に喜ぶべきだと私は思う。
 
 ・法王の進化論支持

 ローマ・カトリック教会のフランシス法王が、ビックバンと進化論を支持したとのこと。

 http://www.asahi.com/articles/ASGBY51F2GBYUHBI00W.html

 ペンテコステ派を含む広義の聖霊派は、(主に)進化論を否定し、創造論を信じている。だからこのニュースは、きっと彼らには歓迎できないだろう。
「人間は神の創造物であり、猿からたまたま進化したものではない」というのが彼らの主張だからだ。「もし私たちがたまたま猿から進化したのだとしたら、私たちの人生も偶然の産物であり、意味などない、ということになってしまう」
 と、彼らは力説する。私もかつてはそれを当然としていた。

 しかしよくよく考えると、その主張は猿に対して失礼である。どのみち猿の存在に意味などない、と言っているからだ。
 本当に進化したかどうかの論議はべつとして、全ての被造物は意味をもって創られた、というのが聖書のメッセージのはずだ。一羽の雀にも神様は目を留めておられる。大事なのはそこであって、「進化したかどうか」ではない。人間が進化の結果であれ、創造の結果であれ、いずれにせよ神様はその個人に目を留め、愛し、導いておられる。私たちも自分の人生を生き、日々その意味を求めている。
 そういうレベルで見ると、自分の起源が進化だろうが創造だろうが、何ら変わることはない。仮にどちらが正しいかわかったところで、私たちの日常にさほど大きな意味はもたらさない。

 だから私は、そういう議論にはあまり意味がないと思っている。
 もちろん、天地創造の答えがわかるなら知りたい。でもそこにこだわり続ける余裕はないし、日々すべきことがある。

  ローマ・カトリック教会が今回の声明を出した経緯や背景はわからないけれど、とりあえず私の所感はそんなところだ。

2014年10月30日木曜日

教会の「健康状態」の見極め方・その3

 教会の「健康状態」について、3回目。

 前回まで、主任牧師の「夫人の精神状態」が教会の健康状態を表わす、と書いてきた。他にもイロイロ指標はあるけれど、これが一番だと私は思っている。
 もちろん、牧師より夫人の方が発言権が強いとか、そもそも(牧師夫妻より)役員会の方が発言権が強いとか、そういう教会もあるだろから、全てには適用できない。けれど私が書いているようなケースの場合はかなり正確だと思う。それも根本的なところを突く結果になるだろう。
 牧師が夫人をどう扱うか、あるいは信徒らが夫人をどう扱うか、その態度が「教会」そのものなのだ。と私は考えている。

 という前提のもと、それ以外の指標について考えてみたい。以下、箇条書きしてみる。

・会計

 良くも悪くも、金銭には人間の本性が表れる。
 教会会計がオープンで、毎月とか隔月とかで会計報告が出されているのは、基本である。献金や寄付を集めて運営している以上、それは当たり前のことであって、やっているから褒められるというものではない。捧げた献金が何にどう使われているか、いくら残っているか、今後どうしていくのか、は全ての信徒に知る権利がある教会には公開する義務がある

 宗教法人なら、法的強制力のゆえ、会計をしっかりしているところが多い。問題は牧師の個人事業の場合だ。「神に仕える牧師が不正をしないのは当然だ」と牧師自身が主張し、会計報告を出さないところがあるけれど、そんなの何の根拠にも証明にもならない。そもそも「不正をする・しない」と、「会計報告をする・しない」は関係がない。信徒は鵜呑みにしてはいけない。

 また、「ウチは健康的な教会をめざしています」と言いながら、会計報告がいい加減な教会がある。ちゃんと紙面で出さない、スクリーンにちらっと映すだけ、マイクで読み上げるだけ、みたいなのは、会計報告とは言わない。

 それと、会計報告があってもまだ安心できない。内容が肝心である。会計報告は後から計算して出すものだから、辻褄合わせの操作ができる。だから会計担当者が牧師の親族なのは危険だ。身内の感情で、操作を許してしまう可能性がある。そして一度許すと、次第に大きな隠蔽につながっていく。

 会計担当は複数の第三者がすべきだ。それに監査も入るべきだ。そして定期的に、公に書面で報告すべきだ。
そこまでやるのは大変だ。教会は忙しいんだ」と言うかもしれない。いやいや、他人のおカネでやってるんでしょ? なんか勘違いしてません?
 

・信徒

 信徒の様子が教会の健康度を表わす、というのは一理あるけれど、実は怪しいと私は思う。
 なぜなら信徒群の雰囲気が教会の雰囲気になる訳だから、「教会のイメージ」を大事にする牧師は、それをも操作しようとするからだ。
 たとえば什一献金があって、奉仕も忙しくて、信徒を拘束しがちな教会が、「これこそ信仰だ、神に喜ばれている、あなたがたの受ける報いは大きい」と常日頃から教えていると、信徒は貧しくて忙しくても、案外イキイキして喜んでいる。むしろ幸せそうにすら見える。けれどそれが健康的かと言うと、そうではない。

「教会は人が集まってナンボ」と考える牧師は、人集めを最優先する。だから良い雰囲気、居心地の良さ、楽しさ、明るさを気にするし、信徒らがそういう雰囲気になるように努力する。
 けれどそれは表面の話だ。本当の健康状態は測れない。むしろ不健康の証かもしれない。たとえば重病を必死で隠して笑顔で踊る人が、健康だろうか。

・おまけ
 牧師の子ども

 牧師の子どもの(見た目の)元気さは、教会の健康とは関係ないと思う。
 あくまで一般論だけれど、牧師の子どもには苦労が多い。両親がいわゆる長時間労働で、休みでもいつ呼ばれるかわからないとか、知らない人と突然同居する羽目になるとか、大切なオモチャを他の子にあげさせられたとか、教会では模範的に振る舞わなければならないとか、イロイロある。それで子どもなのだから、当然不満も募る。

 そういう牧師の子どもが、一切不満を見せず、教会でイキイキ元気にしているのは、逆に心配ではないだろうか。むしろちょっと不満そうで、だるそうにしている方が、本当なのではないかと思う。そしてそういう姿を臆面なく見せられる子どもは案外幸せではないかと思う。
 そういう教会の方が、健康的かもしれない。

2014年10月29日水曜日

教会の「健康状態」の見極め方・その2

 前回に続いて、教会の「健康状態」について書きたい。

 夫である牧師が教会の主任牧師である場合(そういうケースが多いだろう)、その教会の健康状態は、牧師夫人の健康状態(特に精神状態)に現れる、と前回書いた。

 それは要するに、教会の健康は、牧師が人をどう扱うかにかかっている、という意味だ。教理理解とか、聖書解釈とか、教会の方針とかやり方とかも影響があるけれど、直接的なものではない。

 牧師が自分にとって最も近い人間である夫人を、どう扱うか。そこに牧師の根本的な人間性が現れる。そしてそれと変わらない方法で、(最終的には)信徒らが扱われる。その結果が、教会の姿なのだ。

 もちろん、牧師が夫人と信徒とをまったく同じように扱う訳ではない。信徒は身内でないし、老若男女に合わせて態度を変えるのが普通だからだ。
 けれどそれは平時のことであって、緊急時には「素の自分」が出る。そしてそれこそが本当の姿だ。

 ある牧師は普段はとても紳士的で、誰にでも優しく、よく気遣うのだけれど、何か思い通りにいかないことがあると、烈火のごとく怒る。相手を口汚く罵ることもある。特に反論できない弱者に対してそうだ。
 それは牧師に言わせれば「いつもの自分ではなかった」のだろうけれど、いやいや、それこそが本当の姿だ。いつもの紳士的な姿の方が、仮面なのだ。

 同じように、夫人を表向き大切にしていても、イザとなると荒々しく接する牧師がいる。「私は妻をこの世で一番愛している」などとメッセージ等で言いながら、何かあると、信徒の前でも酷い罵声を浴びせることがある。
 こんな経験がある。その牧師が夫人に携帯で電話をかけた。急ぎの用事だった。ところがどちらかの電波が悪かったらしく、途中で切れた。牧師はしばらく待った後、また夫人に電話した。そして怒鳴った。「なんですぐ掛け直さないんだ!俺を待たせるんじゃない!

 結局その牧師は、イザとなるとそういう風に信徒も扱った。怒鳴り散らし、暴言を吐き、強制させ、怯えさせた。普段は優しいのだけれど、怒った時の姿を見ているから、誰もが内心怯えている。教会全体がそういう雰囲気になる。そしてその最たるものが、牧師夫人なのだ。

 夫人は誰よりも激しく怒られ、怒鳴られ、雑に扱われ、誰よりも怯えていた。けれど牧師夫人としての立場もあるから、そんな姿は見せられない。誰にも相談できず、一人苦悩し、神に向かい、ひたすら祈る。けれど何の解決もない。

 教会は一見楽しく、エキサイティングで、信仰に進んでいる。けれどその実、信徒らは内心牧師に怯えている。そして牧師夫人が一番怯えながら、一番耐えている。それは到底、健全な教会とは言えない。

 もちろん、こういう構図がどの教会にも当てはまる訳ではない。けれど決して少なくもないと、私は体験的に感じている。
 教会を見る時には、何気なく、そこの牧師夫人を見てみることをお勧めする(かと言ってジロジロ見てはいけない)。もしかしたら、いろいろわかることがあるかもしれない。そしてそれは、教会全体を見てもなかなかわからない事実を、如実に表しているかもしれない。

2014年10月28日火曜日

教会の「健康状態」の見極め方

 教会の「健康状態」を測る方法はいくらでもあるだろうけれど、私が特に注目すべきと思うのは、牧師の「家族の精神状態」である。それも子どもより、配偶者(多くは夫人)に注目すべきだと思う。
 
 ちょっと前に "Ministry" という雑誌に、「牧師夫人」をテーマにした記事があった。なかなかない視点だと思う。興味があって立ち読みしたけれど(すみません、買ってません)、やはり、牧師夫人にはいろいろありそうであった。
 
 同時に、これはタブー視されがちな話題だ。少なくとも教会員が、そこの牧師に向かって、「奥さんの精神状態は大丈夫ですか」などとは言えない。とても言えない。「夫婦の問題に立ち入るな」という話になってしまうし、それはそれで一理あるからだ。
 
 けれど一方で、そういう理由で牧師夫人の抱える苦悩や葛藤が覆い隠され、見えなくなっているケースもあると思う。
 
 牧師夫人は、教会では言わば「みんなのお母さん」みたいな存在であろう。特に女性信徒にとって、何でも相談できる人、あるいはそうであってほしい人であろう。そしてそういう役割を喜んで引き受ける根っからの「お母さん夫人」もいれば、実は重荷に感じながら無理している夫人もいる。
 後者の場合、深刻な問題にもなり得る。
 
 ある牧師夫人は、とても献身的で、誰にでも優しく、よく働き、よく祈る、まさに理想の「牧師夫人」だった。私も初めて見た時、こんな人が本当にこの世に存在したのか、と感動したものだった。
 
 けれどその教会が成長していくのに反比例して、夫人は元気をなくしていった。相変わらず優しく、一生懸命に仕えているのだけれど、どこか悲壮感があって、見ていて痛々しい時があった。そして時折、不可思議な言動もするようになった。
 
 夫人を心配する声も一部で上がった。けれど、前述の「夫婦の問題に立ち入るな」で断ち切られた。また夫人の心配をすることは、その夫である牧師の問題を指摘することに直結する。そうなると、何人かの信徒が集まったところでどうにもできない。下手すると牧師と対決することになるし、それは信徒生命を懸けることにもなるからだ。
 
 また問題は、それに気づくのが一部の信徒しかいない、という点にもある。古くからいて、牧師夫妻と個人的に親しい位置にいる信徒でないと、見えてこないのだ。日曜礼拝の前後にちょっと接するくらいでは、全く気づかない。また、夫人もそういうのを懸命に隠そうとする。
 
 いつも多くの信徒に囲まれ、皆に頼られ、ともすると華々しくも見える牧師夫人が、実はその陰で孤独に悩み、苦しんでいる、という図がある。
 もちろん、一部の教会だけの話だろうけれど。
 
 その夫人がその後どうなったかは書かないけれど、教会は大きな問題を起こした。というか、牧師が大きな問題を起こした。
 そのことから、断言できることが2つある。
 1つは、「夫婦の問題だから」で片付けてはいけない場合がある、ということだ。何らかの方法で介入しなければ大変なことになってしまう、というケースは、少ないかもしれないけれど、存在する。
 もう1つは、牧師夫人の精神状態が不健康なら、その教会も致命的に不健康だ、ということだ。確実に、牧師個人に問題がある。自分の妻を大事にできない人間が、そうでない他人の集団を、大事にできる訳がないからだ。
 
 何かできるかどうかは別として、その教会の健康状態を見極めるには、牧師夫人の健康状態を見極めるのが一番だろうと私は思う。
 どうかあなたの教会の牧師夫人が、心底元気で、生き生きしていることを願う。
 
追記)
「牧師夫人が元気で生き生きしている」というのは、あくまで健全、すこやか、安定、という意味合いである。カネの亡者であるとか、専制君主的であるとかいう意味ではない。それはそれで不健全であって、やはり問題がある。

2014年10月27日月曜日

【雑記】ハロウィン・携挙騒動・もしもの話

 ちょっと雑談。

・ハロウィン

 昨日はあちこちでハロウィンの催し物があった様子。といっても「収穫祭」的な意味合いでなく、仮装イベントとか、子どもパーティとか、そういう娯楽だったようだ。仮装は素人でもかなりのクオリティである。きっと楽しかったであろう。

 そういうのをよそに、「ハロウィンの悪魔を退ける」みたいな「霊的戦い」をしてしまったクリスチャンや教会がきっとあったろうと思う。痛々しい限りである。
ハロウィンを祝うと呪われる」と彼らは言うけれど、じゃあ昨日、日本中が呪われてしまったのだろうか。昨日と今日とで、自殺率や殺人事件が格段に増えただろうか。

 そういう連中の「霊的冒険譚」を見ると、たとえば台風を祈りで退けたとか、自由の女神を退けたとか、徳川家康の結界を打ち破ったとか、パチンコ屋を祈りで潰したとか、そういう証明不能、根拠不明、結果不明の「妄言」でしかない。
 たとえば自由の女神と戦って勝ったと言うけれど、その「勝った」とはどういう意味なのだろうか。彼らが勝とうが負けようが、自由の女神は依然としてそこに建っているし、べつに接近禁止とかにもなっていない。アメリカの経済も政治も相変わらずである。

「霊の領域で勝った」を主張する場合、その「勝った」には、実質が伴わなければならない。実質とは現実世界の明らかな変化である。そして明らかな変化とは、様々な要因による偶然の変化を完全に否定した、れっきとした「戦い」の、純然たる「結果」でなければならない。一切の「こじつけ」や「思い込み」を排除しなければならない。そこまで証明して、ようやく「霊的に勝った」と言うことができる。

 べつにハロウィンをどう言おうと勝手だけれど、人の楽しみに水を差すべきではない。なのにそういう無粋なことをするから、「キリスト教は排他的だ」と言われるのではあるまいか。

・携挙騒動

「もうすぐ携挙」と言っていた人が、ついに「言い訳」を公表した。驚きの内容である。

「携挙がくると言ってこなかったのは、それでもなお(神を)信じるかどうか、試すためだった」
「批判者には言いたいことを言わせておけばいい」
「離れていった人ははじめから花嫁ではなかった」

 完全に手前勝手である。「信じていたのに裏切られた」という人の心情に、まったく配慮していない。保身しか考えていない。また、全てを神のせいにしている。神をおとしめている。神と人とに不誠実である。

 もはやかける言葉がないのだけれど、一つだけ、例を挙げてみたい。

 あなたが、友人と待ち合わせをしたとする。
 友人は「じゃあ11時に新宿駅東口で」と言う。
 あなたは11時前に新宿駅東口に行く。
 けれど、友人は11時を過ぎても、12時を過ぎても、来なかった。
 あなたは帰る。友人に電話する。友人は言う。
「行くと言って行かなかったのは、あなたが本当の友人かどうか試すためだった。あしからず!」
 あなたは、その人を次回も信じるだろうか?

 
・もしもの話

「もしも桃太郎がカルト的牧師だったら」という短編を3回に分けて書いたけれど、書いていて楽しかった。フィクションだからこそ、カルト牧師の特徴を、これでもかという程書けたように思う。
 実は最後の「後日談」にもまだ続きがある。「続・後日談」とも言うべきか。ただちょっとブラックなので、公開しない方がいいかと思っている。興味のある方がいれば、個別にご案内したい。

追記)
 当ブログへ来られた方の検索ワードに「携挙 2014」というのがあった。検索された方の意図とは別に、なんだか笑えた。C級ホラー映画の邦題みたいで、「携挙2015」とか、「大携挙2016」とか、「最後の携挙2017」とか、そういう展開を勝手に想像してしまった。もちろん聖書からは一万光年以上かけ離れた発想だけれど。

もしも桃太郎がカルト的牧師だったら・後日談

 さて、鬼ヶ島で「霊的勝利」を治めた桃太郎一行は、出発時と同じ超格安の船で帰途についた。皆疲れも吹き飛んで、意気揚々と、海原を見つめている。
「勝利の凱旋だな」猿が胸を張って言う。「みんな、盛大に出迎えてくれるかな」
「おいしいもの、用意してくれてるかしら」と雉。
「オレ、彼女にプロポーズするんだ・・・」そういえば、犬は死んでいなかった。
「おいおい、みんなバカなこと言ってるんじゃない」桃太郎が釘を刺す。「この勝利は私たちのものではない。主のものだ。だから主にのみ栄光を帰さねばならない。出迎えだの食事だの、そんなものを期待するのは不信仰の現れだぞ」
「え、でもオレたち、村人たちのために戦ったんだぞ。それに霊的覆いだって取り除いたんだろ。だったら、感謝くらいされてもいいんじゃないのか」猿が食い下がる。
「じゃあ何か」桃太郎は猿を睨み付ける。「お前は、感謝されたくて鬼ヶ島に行ったのか? 盛大に出迎えてほしくて戦ったのか?」
「そ、それは・・・」
「違うだろ!」桃太郎が怒鳴りだす。「主のためだろ! その一点に尽きるはずだろ、このバカ猿が! お前など、恥ずかしくて信仰者の風上にも置けん、ここでしっかり悔い改めろ! でないと、鬼ヶ島に送り返すぞ!」
「わ、わかったよ、悪かったよ、桃太郎・・・」猿はしょげて隅の方に縮こまった。
 
 そして、故郷の浜辺が見えてきた。浜辺には、何人かの人影が見える。こっちを見ているようだ。
「あら、やっぱり出迎えに来てくれてるんじゃないかしら」雉が歓喜して言う。
「でも出迎えにしては、人数が少ないような・・・」と犬。
 確かに、人影は数人だ。手を振っている訳でもない。
「実は、皆に言っておくことがある」桃太郎が唐突に言う。「実は鬼ヶ島での圧倒的勝利の後、鬼たちの財宝が、私に与えられたんだ」
「ええっ、なんだって!?」と猿。
「うむ、金銭が絡むことだから、皆には黙っていようと思ったのだが・・・」桃太郎は涙目になっている。「あの勝利の後、祈りの中で、鬼たちの隠し財産のありかを主が示されたのだ。それで行ってみると、確かに金銀財宝が山のように見つかった」
「そ、それで、財宝は今どこに?」と雉。
「うむ、それなんだが、その時たまたま集落の村長に会ってな、少し話しているうち、島の窮乏について知ることになった。その時、主が語られたのだ、この集落に、財宝を全て捧げなさい、と」
「マ、マジすか・・・」と犬。
「もちろん、私は葛藤した。君たちの苦労に報いてやりたいと思ったし、故郷の両親、そして村人たちに恩を返したいとも思ったからだ。しかし、私は主の僕だ。主が語られる通りに行うのが、私の使命なのだ・・・」
「それで、集落に財宝を置いてきた、と?」猿は頭を抱えている。
「その通りだ・・・」桃太郎は跪いて号泣した。「みんなすまない! みんなの苦労に・・・みんなの苦労に・・・、私は報いたいと思ったんだ・・・」
 激しく嗚咽する桃太郎に、犬も猿も雉も、かける言葉がなかった。
 そんな中、ゆっくり、犬が近寄った。「桃太郎、いいんだよ。君はなんにも悪くないよ。神様の言う通りにしただけなんだから。それに、僕らも君のその気持ちだけで十分だよ。もともと、おカネが欲しくてやったことじゃないんだから」
「そうよ、桃太郎」雉も羽でやさしく桃太郎を撫でる。
「ま、オレたち仲間だもんな」と猿も桃太郎の背を軽く叩いた。
「み、みんな・・・」桃太郎はさらに激しく泣いた。
 
 そして、故郷の地に上陸。
 さっそく、おじいさんが言う。「おお、桃太郎や、よく無事に戻った」
「ケガはなかったかい?」とおばあさん。
「はい、みな元気です。おじいさんもおばあさんも元気そうで」
「うむ、ところでな、桃太郎」おじいさんは声をひそめる。「アレの方はどうじゃったんだ」
「アレ、ですか」
「うむ、アレじゃ。鬼たちの財宝じゃ」
 そこへ、大男が割って入ってくる。「おい、桃太郎とやら。鬼の財宝を出してもらおうか」
「あんた誰」桃太郎が言う。
「あん? 誰じゃねーだろ! ここの領主の顔を忘れたとは言わせねーぞ!」
「あ、これはこれは領主様」桃太郎、急いで跪く。「その節は大変お世話になりました」
 領主が言う。「お前の旅費を出してやった時の約束、忘れた訳じゃあるまい」
「はい、しかと覚えております」
「鬼たちの財宝が見つかったら、その半分を俺によこす、って約束だったよなあ」
「え、そういう話だったの?」猿が横やりを入れる。
「はい、その通りでございます」桃太郎が言う。
「で、財宝はどこにあるんだ」
「はあ、実は・・・」
 桃太郎は船上でしたのと同じ話をした。泣きながら、精一杯の感情を込めて。
「集落の方々の・・・その窮乏ときたら凄まじく・・・、今日食べるものさえない、我が子を食べるしかない、そんな状況を目にして・・・、私はたまらず・・・たまらず、財宝を・・・、財宝を、差し出してしまったのです! 人間として、人の子として・・・、いったい、他にどんな方法があったというのでしょうか!?」
 そこまで言われると、領主も黙らざるを得なかった。おじいさんとおばあさんは感動して号泣。犬と猿と雉までもらい泣きしている。
「ま・・・そういう話なら・・・仕方ねえが」領主はおとなしくなった。「いずれにせよ、貸したカネは返してもらうぜ・・・、そのうちな」
「はい、必ず」桃太郎は深々と頭を下げた。
 
 領主が去り、浜辺は静かになった。
「よしっ」桃太郎は立ち上がった。「腹へった。さあ帰ろう」
 そして桃太郎はおじいさんおばあさんと一緒に、家に帰った。
 
 その後、桃太郎がどうなったのか、記録には残っていない。けれど噂によると、牧師になって教会を開いたという。定かでないが。
 彼のことではっきり記録に残っているのは、鬼ヶ島で悪い鬼たちを退治し、村の平和を守り、鬼たちの財宝を貧しい民に分け与えた、ということだけだ。それは今なお、武勇談として語り継がれている。
 
【余談】
 
 鬼ヶ島の一件のあと、猿は単身、鬼ヶ島に渡った。財宝の件が、どうしても気になったからだ。
 というのは、あの勝利の後、桃太郎に財宝を探しに行く余裕などなかったはずだし、それを集落に持って行くとか、全部置いていくとか、どうにも現実的でないのに気づいたからだ。
 猿はあの集落に行って、財宝について、単刀直入に聞いてみた。百人たらずの集落だから、それほど手間取らなかった。
 結果、財宝のことなんて誰も知らないし、見たこともないし、暮らし向きが楽になった、ということもなかった。
 その時になってようやく、財宝などはじめから存在しなかったことに、猿は気づいたのだった。(終わり)

2014年10月26日日曜日

もしも桃太郎がカルト的牧師だったら・後篇

 さて、犬と猿と雉の献身的な働きにより、鬼ヶ島出発の準備は整った。
 寝不足で疲労困憊の3人に、桃太郎は言う。「よくやった、忠実な僕たち、と主が言っておられる。喜びなさい、あなたがたの受ける報いは大きいから」
 3人はその言葉に力を得て、また頑張ろうと思った。
 そして犬くんが手配した超格安の船に乗り、一行は鬼ヶ島へ。
 
 島は三方を断崖に囲まれた、見るからにオドロオドロしい様子である。空は曇り、海鳥たちは不吉に鳴く。遠くで稲光が閃く。それを見ながら桃太郎は言う。「みんな、恐れるな。これは主の戦いだから。もし私たちが殉じても、なお主は栄光を現して下さる。だから私たちは主のため、命が尽きるまで戦うのみだ」
 3人は恐れる心を一生懸命克服するため、聖書の言葉をいくつか大声で宣言した。そして御言葉で「武装」したつもりになった。
「オレ、この戦いが終わったら、帰って彼女にプロポーズするんだ」と犬が死亡フラグ的な発言をすると、猿も雉も泣きながら犬を励ました。「大丈夫、オレはお前を見捨てねえ」と猿。「いつまでも一緒だよ」と雉。みんなクサい。
 
 ついに島に上陸。松林にかこまれた浜辺は静かで、誰もいない。けれど林の向こうに煙が上がるのが見える。
「向こうに集落があるようだ。さっそく鬼と遭遇するのか。けれど恐れるに足りん。こちらには天の大軍勢が付いているのだから」
 桃太郎はそう言って浜辺を進む。犬、猿、雉もそれに続く。
 林の向こうを覗き見ると、そこは人間たちの集落であった。「よし、偵察だ。君たち、カナンの地を偵察したヨシュアとカレブのように、敵地をじっくり探るんだ。けれど、不信仰な報告をしてはいけない。信仰により、肯定的な報告をするんだぞ」
 
 3人が偵察から戻った。桃太郎は木陰でうつらうつらしていた・・・けれど、3人の気配を感じて、とっさに眉間にシワを寄せた。「おおおぉ、主よ主よ主よ・・・」
 祈っている振りである。けれど3人にはそんなこと知る由もない。
「桃太郎、祈っているところゴメンよ」と猿。「偵察、してきたよ」
「うむ、どうだった」
 3人の話はこうだった。

 島の集落には百人ほど人がいて、貧しいながら、仲睦まじく暮らしている。ただ、島の天気は荒れやすく、台風で畑の収穫が台無しになることも多い。深刻な食料難になることもある。けれどそういう時、山から鬼たちが降りてきて、食べ物を分けてくれる、という。
 彼らの言う鬼とは、どうやら渡来人のことのようだった。真っ黒い肌や真っ白い肌、青い目、金色の髪をした連中で、物珍しさから、「鬼」という渾名がついたようである。
「も、桃太郎」犬がビクビクしながら言う。「もしかして、鬼たちって、良い人たちなんじゃ・・・」
「そんなはずがあるか!」桃太郎は激昂する。「私が40日40夜、断食して祈った結果なのだ。鬼たちの悪い霊性が、この地域一体を覆っているのだ。お前まで騙されてどうする! この犬畜生め! まだまだ信仰が足りんな。それに霊性も低すぎる」
「ご、ごめんよ、桃太郎」犬はうつむく。
 猿が言う。「で、どうするんだよ、桃太郎」
「ううむ・・・」桃太郎はまた眉間にシワを寄せた。「おおおぉ、シャバラバラバラ・・・」
「あ、異言が始まったわ」と雉。「主と語り合っているんだわ」
「おお、そうだ」と猿。「きっと、主からの啓示があるぞ」
 しばらくして、桃太郎は目を開けた。「よし、主からの戦略が与えられた」
「おお、どんな?」と3人。
「これは霊的戦いだ」
「霊的戦い?」
「そうだ、私たちの戦いは血肉によらない、と聖書に書いてあるだろう。だから今回、刀や斧や弓矢は使わない」
「じゃ、どうやって戦うんだよ?」と猿。
「行進だ。ヨシュアがエリコのまわりを7日間回ったように、私たちもこの島を7日間回るんだ。そして最後の日、ときの声をあげる。すると、敵の城壁が音を立てて崩れ去る。そう主が言っておられる」
「おお、なら簡単だ。よし、さっそく始めよう」
 という訳で、桃太郎一行による地味な行進が始まった。1日目、2日目と過ぎていく。何も起こらない。そして7日目。最後の行進が終わると、桃太郎は刀を振り上げた。「よし、ときの声をあげろ!」
 3人、「エイエイオー!」
 ときの声が木霊して、木々のむこうに消えた。
「ん、何か起こったか?」と猿。
「何も聞こえない」と雉。
「何も見えない」と犬。
いや、起こった!」桃太郎は両手を挙げ、仁王立ちで言う。「ハレルヤ、この島を覆う暗闇のベールが、今、打ち破られた! 君たち気づかなかったのか? そして天の御国が、この地に降りてきた! おお・・・、こ、これはすごい。・・・おお、ハレルヤ、主よ!」
「そ、そうか、霊の領域のことだ!」猿は歓喜して言う。「そ、そういえば、確かにオレも感じた。天が打ち破られるのを!」
「わ、私も感じたわ! ハレルヤ!」と雉。
「う、うん、ぼ、僕なんて、は、はじめから感じてたよ!」と犬。
 そして4人のバンザイが、しばらく続いた。
 
 ある老人が、集落の隅で薪を割っていた。ふと、砂浜から何か聞こえた気がした。「バンザイ」と聞こえたようだった。しかし耳を澄ましても、それは風の向こうに、かすかに聞こえるだけだった。
「空耳か」
 老人は薪割りを続けた。(後日談に続く)

2014年10月25日土曜日

もしも桃太郎がカルト的牧師だったら・前篇

 昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいて云々、桃から桃太郎が生まれた。そして元気に育った。元服を迎えた頃、桃太郎はおじいさんとおばあさんに言った。

「私は桃から生まれました。神が私を特別に選ばれたということです。だから、私には特別な使命があるのです。その使命を知るために、私は40日40夜、断食して祈りました」

「それで、おまえの使命とやらはわかったのかい」とおばあさん。
「ええ、わかりました」
「何なんだい、それは」とおじいさん。
「はい、『鬼ヶ島』という島に、鬼が住んでいます。奴らは悪魔です。奴らの悪い霊性が、この村にも悪影響を及ぼしています。だから、退治しに行かなければなりません」
「そうなのかい。それで、なんでお前が行かなきゃいけないの」
「これが桃から生まれた私に与えられた、特別な使命なのです。神の御心です」

 という訳で、桃太郎は村中に呼びかけ、献金を募った。鬼ヶ島までの交通費、宿泊費、食費、その他の諸経費が必要だったからだ。おじいさんとおばあさんは昼も夜も村を巡り、愛する我が子の「特別な使命」について訴え続けた。ツテも最大限に利用した。そしてその必要は、どうにか満たされた。
「ハレルヤ、やはり主が導いておられるのです」と桃太郎。「だから必要が満たされたのです。主が道を開かれました」

 そして桃太郎は旅立った。途中、犬に出会った。桃太郎は犬にやさしく言った。
「犬くん、君は神様に愛されているよ。君の今までの人生は、神様に出会うためだったんだよ。犬くん、今、神様が君を呼んでおられるよ。そして君の最高の幸福は、神様に従って生きることなんだ。今、すべてを捨てて、私と一緒に来ないか」
 犬は号泣しながら桃太郎に従った。

 続いて猿に出会った。桃太郎は猿に言った。
「猿くん、君は素晴らしい能力の持ち主だよ。特にそのジャンプ力、誰にもかなわないよ。宇宙まで飛んでいけそうだ。それにその長い腕。そんな長い腕は今まで見たことがない。その腕なら、神様によく用いられるだろう。どうだい、神様に仕える、素晴らしい人生を歩んでみないか」
 猿は狂喜して桃太郎に従った。

 最後に雉に出会った。桃太郎は半ベソで言った。
「雉さん、僕はもうダメだ。僕はずっと神様に一生懸命仕えてきたけれど、もう限界だ。僕のような弱い人間には、もう何もできない。僕は桃から生まれた特別な使命を捨てて、普通の太郎として生きたいよ・・・」
 そう言って号泣する桃太郎を、雉は慰め励ました。そして、桃太郎に付いて行った。

 仲間が揃ったところで、桃太郎は言った。「よし、ここにいるのは、神が特別に選ばれたメンバーだ。鬼を退治するための、神の軍隊だ。だから君たちには神に忠誠を誓い、最後まで勇敢に戦ってほしい。それが君たちに対する神の御心なのだ。わかったらエイエイオーだ」
 3人、「エイ、エイ、オー!」
「よし、じゃあ私は今から山に登って、神の声を聞いてくる。その間、君たちには、ここで準備を済ませてほしい。
 まずは犬くん、鬼ヶ島までの船をチャーターするんだ。ただし、費用はできるだけ抑えるんだ。船頭に足元を見られないよう、強気で行け。非常識なくらいの安値を突き付けて、一歩も引かない態度で臨むんだ。半額程度に下がるまで、決して買うなよ。
 次に猿くん、君には鬼退治の武器を揃えてほしい。刀、斧、弓矢をできる限り揃えるんだ。ただしお金をかけてはいけない。大道芸でもやって稼いでから買うんだ。いいね。
 最後に雉さん、鬼ヶ島までの食事を準備してくれ。ただし食費は抑えるんだ。これは村人たちの尊い献金だから、一円だって無駄にしてはいけない。最小限の費用で、最大限の用意をするんだ。わかったかい」

 それで3人が準備に向かった後、桃太郎は山に登った。途中の旅籠に宿を取ると、おばあさんからもらったキビ団子を一人で全部食べた。それから温泉に浸かり、一眠りして、夕食を取った。満腹になるとまた眠くなったので、フカフカの布団で気持ちよく眠った。(後篇に続く)

2014年10月24日金曜日

「恐れるな」と言われる恐怖

恐れるな」と、聖書は相当な回数言っている。
 数えたことはないけれど、ざっと見積もって数百という単位である。私の好きなクリスチャン映画 "Facing the giants" でも、主人公の恩師がそれに言及している。彼によると、「恐れるな」の聖書登場回数は365回とのこと(自分で確かめた訳ではない)。

 ちょうど1年分の回数だから、「神は毎日『恐れるな』と言っているんだ」みたいな解釈もあって、よく感動系のメッセージに使われたりする。
 その解釈はどうでもいいけれど、おそらく類似の表現も含めると、「耳タコ」なくらい言っている」のは間違いない。
 
恐れるな」は良いメッセージであろう。人はどうしても、恐れたり不安になったりするからだ。
「怖がらなくていいんだよ」「心配しなくていいんだよ」と言ってもらえると、たとえ根拠がなくても、少なからず慰められる。自分にそういうことを言ってくれる人がいる、というだけでも、心持ちは全然変わる。そうやって誰かに支えられることで何かができた、という経験は、誰にでもあるのではないだろうか。
 
 けれどこの良いメッセージが、扱いようによっては凶器ともなる。

「神が『恐れるな』と言っているんだから恐れてはいけない勇敢な神の兵士であれ!」
 そう牧師に言われて、戦いたくもないのに戦わさせられたり、無理難題に挑戦させられたりすることがある。

 たとえば、「預言する時は躊躇するな。恐れて語らないのは敵の策略だ。恐れを打ち破って、大胆に語れ!」とか言われる。
 すると、自分が語ろうとすることが本当に神からのものなのか、という吟味が許されなくなる。べつに恐れている訳でなく、確証がほしいだけなのに、そういうプロセスを省かせられてしまう(そういう牧師は吟味や検討より、スピードや展開を重視している)。結果、何の確認作業もないまま「主が語られる」を言う羽目になる。そしてそれは、大きな間違いのもとだ。
(この例は、『預言が今日も存在するかどうか』という根本的な問題も含んでいるだろう。)

 また実務的な面でも、たとえば週報の印刷を業者に依頼する信徒に向かって、
「納期をこれこれに縮めさせろ」
「料金はこれこれに抑えさせろ」
「これこれの仕方で納品させろ」
とか、普通ではありえない無理難題をふっかけさせる。その信徒の方は、たまったものではない。一般の業者に対して、非常識な交渉をしなければならないからだ。それを「できない」とか言えば、「恐れるな。あなたには神がついているだろう」とか言われてしまう。
 つまり、「神の子ならそれくらいできて当然だ。できないのは不信仰の証拠だ」という論理である。

 この場合、平安を与えるはずの「恐れるな」が、高いハードルを越えさせるための方便となる。しかし言われた方は、「これも信仰」「これも主のため」としか思えない。だから彼らにとって、「恐れるな」は恐怖であり、凶器である。そして彼らがもっとも恐れるのは、神様でなく牧師だ。

 自分が何を恐れているか、は信仰の一つのバロメータになると思う。その対象が神様以外であるなら、何かが間違っている。そして間違っていることに気づいたなら、最善の策は、できるだけ早くそれを訂正することであろう。その時こそ、本当に「恐れるな」が必要になると思う。

2014年10月23日木曜日

【雑記】携挙延期説・目的志向型クリスチャン

 今回はちょっと雑談的に。

「もうすぐ携挙」を言っていた人は、結局何も起こらなくて、どうやら延期説を採用したようだ。
 そのブログでは、まるで何もなかったみたいに別のことを書いている。予想した通りの展開だけれど、こういう予想は当たってもちっとも嬉しくない。
 次なる「特定日」がいつになるかわからないけれど、さすがに同じ轍は踏まないだろうから、慎重にはなるだろう。

 それにしても、今回のことで、どこからも何の抗議もなかったのだろうか。信じていた人で、「間違いだった」と気づく人はいなかったのだろうか。ブログのコメントには、「携挙が延期されたのも理由があるのでしょう」みたいに理解を示すものがあるけれど、どうなのだろうか。

 ここまでくると、信じる側にも問題があると思う。「何か特別な者でありたい」「一目おかれる存在でありたい」みたいな動機を感じる。だから「霊的なことがわかる」と主張し、「他の人にはわからなくても自分にはわかる」と言うのだ。傍から見ると、痛々しい限りだけれど。

 そういう人は、多分、ひどい実害を受けないとわからない。たとえば金銭とか家族とか、大切なものを失って、はじめて誤りに気づく。けれど気づいた時には遅い。かといって、気づくまでは何を言われてもわからない。完全に八方ふさがりである。

 話題を変える。

 昨日のコメントで、アメリカのサドルバック教会のことが取り上げられていた(コメント感謝)。
 サドルバックと言えばリック・ウォレン牧師である。日本では "purpose driven" 思想の書籍「人生を導く5つの目的」がヒットしていて、キリスト教書店に行くと、彼のコーナーが一角に設けられている。

 その本は未読だけれど、彼の思想が「目的志向型」なのは周知である。人間個人に注目するのでなく、その人が「何をするか」に注目する、というのはビジネスの世界では基本である。そこでは「行動」と「成果」が全てだからだ。

 けれど、ビジネス的な「目的志向」をそのままキリスト教に当てはめるのは、正直微妙である。
 もしキリストが目的志向型だったら、木の上のザアカイに声をかけたのは、彼個人の救いに関心があったからでなく、彼に「不正にとった金を皆に返します」と言わせるためだった、ということになる。ザアカイの魂のことは二の次、三の次である。

 そういう思想の本を「聖書を土台とした人生の指南書」みたいに紹介するのは、私は大変な問題なのではないかと思う。キリスト教系出版社の方には、ぜひとも考えていただきたい。

 リック・ウォレンというと、他にも「チャック・スミス追悼記念会事件」とか、キリスト教とイスラム教の奇跡(?)の融合「キリラム教」とか、話題に事欠かない。興味のある方は調べてみたらいいと思う。

2014年10月22日水曜日

未信者を「滅びゆく魂」と呼ぶ資格があるのか、という話

 クリスチャンが未信者のことを「滅びゆく魂」と表現することがある。
「この地の滅びゆく魂が救われるように・・・」等と祈ることがあるし、伝道の準備でそういう言葉が出ることもある。

 それは救われていない人(まだ神様を信じていない人)が救われるように、という愛の気持ちとか、憐れみの心とか、使命感から出るのだろう。それ自体は良いと思う。けれど同時に、この表現に、私は蔑視のようなものを感じる。「自分たちは(滅びゆく魂じゃないから)大丈夫だけどね」みたいな感じだ。私の考えすぎだろうか。

 もちろん、キリストを神と信じないと贖われない、天国に行けない、という意味で、「滅びゆく魂」と言うのは間違っていない。クリスチャンが滅びない、というのも正しいと思う。

 けれど、不祥事を起こして消えていく(文字通り失踪するケースもある)牧師やクリスチャンが後を絶たない現状を見ていると、本当にクリスチャンだから絶対大丈夫、とは言えないような気がする。特に「繁栄の神学」を振り回して信徒から搾取したり、過剰な奉仕をさせたり、暴力をふるったり、聖書を使って精神的に追い詰めたりする牧師らには、そのまま天国に行ってもらっては困ると個人的に思う。天国でまで、暴言を吐かれるような気がする(そんなことあり得ないはずだけれど)。

 あるいは終末信仰・携挙信仰を説いて人々に散財させたり、学歴や職歴を捨てさせたりする輩が、ノウノウと天国に入っていくなど、考えられるだろうか。

 そういう「救われる・救われない」の厳密な話でなくても、「自分たちは(滅びゆく魂じゃないから)大丈夫だけどね」みたいなニュアンスで「滅びゆく魂」を使うのは、何ともいやらしい。「未信者には福音を語ってやらなきゃならないけど、連中は目が開かれていないから、何度言ってもわからないんだよね」などと平気で言う人もいる。他者に対する尊敬がまるでない。

 自分が「救われている」としたら、それはただ恵みによるのであって、自分が努力したからではない。努力して得たものは恵みではない。また「義人でさえかろうじて救われる」のであって、それは当たり前に、軽々クリアできるハードルではない。

 であるなら、「自分は救われている」「あの人は救われていない」という線引きは、もちろん教理的には存在するけれど、クリスチャンの側がエラそうに引くものではない。「自分だって同じ罪人なのです。ただ許してもらえただけです」という意識は、持っていないといけないと私は思う。

「医者を必要とするのは病人」というたとえの通り、キリストは取税人や娼婦に積極的にかかわった。それを引用する現代のクリスチャンが、現代のそういう人々にかかわろうとするのは良いことだ。けれど、そこに「自分が語ってやろう」「救ってやろう」「~してやろう」という意識があるとしたら、それは違う。

 それにそういう意識は、言葉を越えて相手に通じてしまう。その場合、相手の心に響くのは、福音そのものでなく、クリスチャンのいやらしい優越意識だ。「こいつ、何言ってやがる」みたいなことになってしまう。
 そういう反応を見て、「やはり未信者は目が開かれていないんだ」と判断するとしたら、本当に目が開かれていないのはクリスチャンの方だ

2014年10月21日火曜日

【解説】キマジメくんのクリスチャン生活・ダビデの幕屋篇

 
「キマジメくんのクリスチャン生活」第17話の解説。ダビデの幕屋篇。
 本文はこちらから。

→第17話

 これは、イスラエル旅行帰りの溝田牧師が「ダビデの幕屋回復運動」にかぶれて、自教会に導入し、キマジメくんもそれに巻き込まれていく、というエピソードである。

 ダビデの幕屋は、終末信仰との関連でよく引き合いに出される。「終末が間近に迫っている、だから神がダビデの幕屋を回復させようとしておられる」というのが、その根拠だからだ。だからほとんど、

終末の準備=ダビデの幕屋

という構図になっている。
 けれど私が確認できた限りでも、これは20~30年くらい前から言われていることで、全然新しいことではない。当時の人たちが「終末が間近だ」と言ってから、既に四半世紀が過ぎている。どこが間近なんだよ、という話である。

 くわえて、彼らが愛してやまない「ダビデの幕屋」の礼拝は、大音量で賛美したり、旗を振ったり、タンバリンを打ち鳴らしたり、踊ったり、泣いたり、気になった聖書箇所を大声で「宣言」したりすることだ。感情的高揚(ほとんど集団ヒステリーと言っていい)を「霊的高揚」とか「霊的覚醒」とか言い、単なる思い込みや願望を「神に強く語られた」と言う。

 ダビデの幕屋はそんなものではなかったし、だいいち旧約のある時代の礼拝形式を模倣して「回復だ」と言うのは、新約時代における「旧約帰り」でしかない。律法から解放されたのに、またそこに戻ることになる。人間の成長で言えば、退行現象みたいなものだ。

 まだある。彼らは「エルサレムでこそダビデの幕屋を回復するべきだ」と言って、イスラエルで「祈りの家」を建てているけれど、聖書を無視している。あるいは読んでいないか、読解力がないかだ。何故ならキリストが、「礼拝するのはこの山でもなく、エルサレムでもない、そういう時がきます」(ヨハネの福音書4章21節)と言っていて、礼拝は場所や形式でなく心だとハッキリ言っているからだ。

 と、いうようなことは今までも書いてきた。
 ここで初めて書きたいのは、「50時間の祈り」についてだ。

「50時間の祈り」とは、ダビデの幕屋をする人たちが、時々イベント的に開く催し物だ。聖書用語などではない。
 彼らはもともと "24/7" という表現を使っていて、「24時間7日間、休まず主に仕えます(バカ騒ぎの礼拝をします)」と言っているから、50時間というのはハンパな気がする。けれど彼らは、それは「ヨベルの年(50年に1度の解放の年)」と同じ「50」だから、大いに意味がある、と言う(なんで「年」が「時間」になるかは知らない。だったら「日」でも「分」でも「秒」でもいいような気がするけれど)。

 このイベントでは、文字通り50時間の礼拝が捧げられる。けれど全員で50時間礼拝しっぱなしなのではもちろんない。礼拝するチームが何組もあって、それぞれが2時間くらいずつ受け持って、いわゆる「礼拝リレー」をするのだ。それぞれのチームは得意分野(?)を生かして、2時間賛美したり、2時間とりなしたりする。それで最後のセッションだけは全員集合して、勝利のトキの声ををあげるのだ。何に勝ったのかはわからないけれど(おそらく彼ら自身にもわかっていないだろう)。

 そういうのがイスラエルや台湾やアメリカ、また日本でも行われている。

 なんでそんなことするんだ、と思われるかもしれない。その感覚は正しい。けれど彼らなりの理由はある。彼らの言い方で言えば、「50時間、天国の臨在に浸れる」からだ。

 実は私も「50時間の祈り」に参加したことがあるけれど、確かに特別な感覚がする。夜でも深夜でも早朝でも、会場に行けばどこかのチームが礼拝していて、自分の担当時間でない限り、そこで思い思いに過ごすことができる。賛美してもいいし、祈ってもいいし、聖書を読んでもいいし、ボケッとしてもいい。寝てもいい(一晩会場で寝て過ごす人もいた)。
 そこはまったく世俗を離れた、不思議な空間となる。私自身は50時間の間、ほとんど空腹を感じなかった。なんとなくフワフワしていて、心地いい感覚が持続していた。「天国の臨在」と言われれば、なるほど、そう信じることもできる。

 しかし今思うと、それはトランス状態の一種だったのではないかと思う。

 仮にそれが天国的な何かで、神様が与えてくれたものだとすると、矛盾が生じる。それはクリスチャンを世俗から完全に切り離すものだからだ。一般社会に生きて信頼を得るべきクリスチャンが、少なくとも50時間の間(実際にはそれ以上)、社会から完全に隔離されてしまう。さらに「天国の臨在」に酔い、社会にうまく戻れなくなってしまうかもしれない。
 そういう状況を一般人が知ったらどう思うだろうか。羨ましがるだろうか。奇異な視線を向けるだろうか。大部分の人は後者ではないかと私は思う。

 だからクリスチャンがますます軽んじられ、煙たがられ、厄介者扱いされるのではないだろうか。彼らは「これこそ真の信仰」とか言うだろうけれど、そういう頑なさが一般社会との隔たりを大きくし、かつ聖書そのものからも逸脱していくことになるのである。「信仰を守ること」と、「頑固であること」は、まったく違う。そういうことを冷静に考えてみることが、クリスチャンには絶対必要だと私は思う。

2014年10月20日月曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第44話

 タタカイ兄弟が一通り怒られた後、ミーティングは再開された。眉間にシワを寄せ、黙ってうつむくタタカイ兄弟に、あえて話しかける者はいなかった。兄弟はキマジメくんの隣に座ったけれど、キマジメくんもまた、何と声をかけるべきか、わからなかった。
 
 ミーティングは伝道集会についてだったけれど、さっそく溝田牧師の話が長く続いた。今回の集会の必要性に始まり、それに関する「御心」が聖書から何ヵ所も挙げられ、また過去の集会にどんな「霊的」意味があったか、今回の集会にどんな意味があるのか、はたまた牧師個人が今どんなことを「語られて」いるか、自分がどんな「霊的生活」を送っていて、クリスチャンはどんな「霊的生活」を送るべきか、ついでに自分の中学生の娘がどれだけ「霊的に敏感」か、そう言えば最近こんなことがあって、これにはコレコレという「霊的」意味があるんだとか、そういう話にまで及んだ。
 
 その間、皆真剣にメモを取っていた。話が中学生の娘さんの「霊的敏感さ」に至った時、これもメモすべきなのかとキマジメくんは思った。けれど何気なく見回してみると、皆一生懸命書いている。ただタタカイ兄弟だけは、ペンが止まっていた。
 キマジメくんはどうしてもメモする必要性を感じなかった。だからその間、今まで書いてきたメモを見返すことにした。
 
 そんなこんなで牧師の話が終わったのは、午後1時を回ってからだった。ミーティングが始まって既に3時間近く経っている。「ちょっとお腹が空いたかな」という牧師の一言で、ランチ休憩をとることになった。心なしか、皆の顔が和んだ。
 
 皆で近所のファミリーレストランに向かう。席に着くと牧師が言う。「このミーティングも神への奉仕だから、会計は私が持つよ。みんな、好きなもの頼んで」
 それで皆がワイワイしだした時、溝田牧師がサトリコ姉妹に耳打ちするのを、たまたまキマジメくんは見た。何と言ったのか、わからなかった。けれど会計についての何かだと直感した。サトリコ姉妹はやや思案げな色を浮かべつつ、何度か頷いた。
 
 食後のデザートが振る舞われている最中も、牧師の話は続いた。今アメリカとかイスラエルとか、中国とか韓国とか台湾とかで、どんな「神の御業」がなされているのか、滔々と語るのである。
「海外ではね、より顕著に神の業が現れているんだよ。悪霊の砦と呼ばれていた地域が解放され、人々は毎日列をなして教会にやってくる。癒しが起こる。奇跡が起こる。地域によっては、死人だってよみがえっている。日本だけだよ、こんな荒野みたいなところは。まさに霊的荒野と呼ぶにふさわしい」
 どうやら溝田牧師には、海外に太いパイプがあるようだった。そう言えば何度か、電話で英語で話しているのを聞いたことがある。海外のゲストを招き、特別集会と銘打った礼拝をすることも少なくない。
 確かに、アメリカとか韓国とかは教会が多く、クリスチャンも沢山いて、何やらすごいことが起こっていそうだ。溝田牧師はよく海外研修にも行くから、そういうのを目の当たりにしているのだろう。世界規模の視点でキリスト教世界を見ているからこその発言だ、とキマジメくんは思った。
 
 デザートが終わり、手持ち無沙汰になった。溝田牧師は、サトリコ姉妹と、もう1人の姉妹と談笑している。時計は既に午後3時を回った。他の兄弟たちはどことなくソワソワしている。タタカイ兄弟は終始無言で、ろくに食べず、うつむいたままである。
 牧師が一際大きな声で話し出した。「いやあ、あの先生には久しぶりに大笑いしたよ。だってさあ・・・」
 よくわからなかったけれど、どうやらどこかの教会の牧師先生のことを言っているようだ。サトリコ姉妹ももう1人の姉妹も、声をあげて笑っている。
 その時、タタカイ兄弟が立ち上がった。「溝田先生」
 兄弟の大きな声が響き、牧師は笑ったまま言う。「どうした? タタカイ兄弟」
 タタカイ兄弟は早口に言った。「今こうしている間にも、救われるはずの魂がいるんじゃないんですか? 遅れちゃまずいんですよね? ミーティングしなくていいんですか?」
 とたん、牧師の顔から笑みが消えた。姉妹方もその場で凍りついた。兄弟たちも同様である。タタカイ兄弟は「失礼ます」とだけ言うと、そのまま席を離れて歩き出した。(続く)
  
――――――――――――――――――――――――――――――――
・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
――――――――――――――――――――――――――――――――
 

2014年10月19日日曜日

クリスチャンは「人生の成功者」でなければならないのか

 ある牧師が、キリスト教系サイトでこんな記事を書いている。
 
人生の勝利者(成功者)となるには
必要とされる人になるには
 
 そしてその為の方法論みたいなものを、つらつらと書いている。前向きであれ、肯定的であれ、創造的であれ、リーダーであれ・・・とかなんとか。それ自体は全然問題ない。けれど読んでいて、あまりにライフハック的で、ビジネスマン向けなのかと思った。けれどそこは、確かにキリスト教系サイトである。普通のビジネスマンなら見ない。ということは、クリスチャン向けの記事なのだと思う。
 
 だとすると違和感がある。何故なら聖書が言う「勝利」は、一般的な「成功した人生」とは違うからだ。またキリストが地上に来られたのは、どちらかと言うと「敗北した人」、「人から必要とされない人」の為だったからだ。けれどこの記事を読むと、私たちは(一般的に言う)成功者にならなければならない、必要とされる人にならなければならない、というメッセージを感じる。
 
 確かに、敗北より勝利が、失敗より成功が、拒絶より承認が、劣等より優等が、より望ましいだろう。そうできるなら、誰だってそうする。私だってそうする。
 
 けれど私たちが生きる資本主義社会は、根本的に自由競争で成り立っている。つまり勝利や成功や承認を得るには、(基本的に)他者を蹴落とさないといけない。「私はそんなことしない」と言う人がいるかもしれないけれど、「したい・したくない」の問題ではない。そういう社会構造なのだ。
 
 たとえば学校で成績上位に入ることは、他者を追い抜き、自分以下大勢の順位を1つずつ下げることだ。企業が業績を伸ばすことは、同業他社の業績を減らすことだ。ただ競争者が大勢いたり、大勢が被雇用者だったりするから、そういうのをリアルに感じないだけだ。感じないだけで、誰もがそういう原理の下で生きている。
 ちなみに被雇用者だって、多くの場合、誰かを蹴落として就職したはずだ。医療福祉業界だって新しく建つ施設もあれば閉じる施設もある訳で、まちがいなく営利と競争原理の中にある。
 
 だから私たち全員が勝利し、成功し、承認され、豊かになる、ということはあり得ない。努力したからなれるという保障もない。誰かが勝つ限り、誰かが負けるのだ。
 そういう状況下で、「クリスチャンは勝利者であれ・必要とされる人であれ」と言うのは、全然聖書を実践することにならない。むしろ逆だ。愛することより奪うこと、許すことより非難して自分のチャンスとすること、他者を認めるより自分が認められること、を奨励しているからだ。
 つまり、聖書は「受けるより与えること」を推奨しているけれど、この牧師は「与えるより受けること」を推奨してしまっている。
 
 多くの人は、いわゆる「人生の成功者」になろうとしてもなれない。そこそこ普通の暮らしができれば安泰で、それ以上の挑戦をしようとも思わない。そしてそれは決して悪いことではない。
 また多くの人が、社会ではさほど必要とされていない。労働力としては必要とされても、その個人としては必要とされていない。交換可能な歯車みたいなものだ。
 
 でも、それでいいのだと私は思う。ハウツーを駆使して勝利者をめざし、必要とされる人材をめざしてストレスフルな競争生活を送るより、弱い自分・できない自分を受け入れて、今あるもので満足し、同じように他者の価値を認め受け入れて生きる方が、よっぽど自由で平和だと思う。聖書にもそれほど反しない。
 
 もちろん、勝利者をめざして生きるのも個人の自由だ。そうしたい人はそうすればいい。けれど、それが聖書的だとか、クリスチャンなら当然だとか、そういう一方的な押し付けは間違っている。とだけは言っておこう。

2014年10月18日土曜日

人は、神の愛に触れられて「変われる」のか・その2

神の愛に触れられれば、人は変えられ、真に人を愛せるようになる

 というキリスト教プロテスタントにありがちなメッセージの注意点について、2回目。

 前回は、クリスチャンが聖書的に「変えられる」としても、一部の人が言うような「一瞬」とか、「ごく短期間」とか、そんな即席に変わるものではない、と書いた。価値観の変容には長い時間がかかるし、そもそも時間がかかったから変わるというものでもない。

 この点で補足だけれど、いわゆる「新生体験」という主張がある。
 
「新生」というのは、ヨハネの福音書の「水と御霊によって生まれなければ・・・」を根拠とする「体験」のことだ。この体験の是非について書くと別の記事になってしまうので、ここでは書かない。けれどキリストが言っているい以上、「水と御霊によって生まれる」何らかのプロセスがある、と考えられる。

 その「新生」が、「聖霊によって一瞬にして起こる変化」なのではないか、という主張があるだろう。けれど前回書いた通り、変化には価値観の変容が必要で、その変容には、その新しい価値観を知っている必要がある。だから「新生」と呼ばれる何らかのプロセスが一瞬なら、その価値観のインプットも全て一瞬でなければならない。しかし、そんなことは不可能だ。

 あるいはそれは、「洗礼」のことを指しているかもしれない。確かに洗礼なら、水に浸かるだけだからすぐに終わる。けれどそれは通過儀礼であって、それをしたから人格的にも全く別人になる、ということではない

 単純に考えても、「人を愛せなかった人」が、一瞬で「真に人を愛せるようになる」はずがないではないか。あるとしたら、前回も書いたけれどプログラムを書き換えられたロボットぐらいだ。「聖霊の力で一瞬で変わる」というのは、それくら強引で強制的なことを意味している。たぶん言っている当人らはそんなこと考えないだろうけれど。

 前置きが長くなったけれど、本題に入る。注意点の2つ目、「その変化は不可逆的ではない」

・その変化は不可逆的ではない

 実例から書くと、とても素晴らしいクリスチャンの方がいた。いつも穏やかで、親切で、人のために労するのを厭わない方だった。「聖霊によって変えられた人」がいるとしたらこの人のことだ、と誰もが思うような人格者だった。
 けれどある時、この人が酷い被害を受けた。本当に酷い仕打ちだった。内容は書けないけれど、気の毒すぎて、どんな言葉も掛けられなかった。
 その人は形相も変わり、口汚く加害者をののしった。目の前にいたら殺しかねない勢いだった。まったくの別人になっていた。

 その変わりように、私は人間の本性を見たような気がした。クリスチャン的なキレイ事なんか一切通用しない、本当の人間の姿を見たような気がした。
 たとえば子どもを殺された親が、「この犯人だってキリストが愛された人です。だから許さなければなりません」とか言われたらどうするだろうか。間違いなく、許すどころの話ではない。殺したいのに殺せない、そんな葛藤をするのではないだろうか。

 だからその「変化」は、よく聖霊派クリスチャンが言うような、不可逆的で永続的な変化ではない。「神様にきよめられました。もう汚れることはありません」みたいなことは誰にも言えない。言ったすぐ後に罪を犯す可能性だってある。

 あるいは、その「変化」はそもそも表面的なものだったかもしれない。クリスチャンとして生活するうち、聖書的価値観が身につき、そういう態度や行動が自然にできるようなっただけかもしれない。内面は、外見からではわからない。もちろん本人にはわかっているだろうけれど。

 人の本性とは、イザという時にこそ現れる。平時にではない。普段どれだけキレイに生きていようと、品行方正に振る舞っていようと、その人の正体がそこにあるとは言い切れない。試される時になって、その「変化」の質が問われる。本当に「変えられた」のかどうか、そこでわかるだろう。

 ある牧師は長年、品行方正で「きよい」人物だと思われてきたけれど、結局牧師を続けられない種類の罪を犯して、姿を消した。やはり「変えられて」いなかったか、あるいは表面的でしかなかったのだ。
 今「変えられました」と言う人々も、将来はどうかわからない。
 時代が進み、もっと終末的で危機的な状況になり、もし、食べ物や飲み物を巡って人と人とが争うような世界になった時、彼らはそれでも品行方正を貫けるだろうか。自分の食物を他人に譲って、死ぬ覚悟があるだろうか。

追記)
 こう書くと私が「本当に変えられた」みたいに思われるかもしれないので書いておくと、私は全然変えられておらず、間違いもする。全然「きよく」ない。

2014年10月17日金曜日

クリスチャンと安息日について・その3

クリスチャンと安息日について・その2」で、日曜礼拝について触れた。今回もその追加として書きたい。
 
日曜礼拝を休んではならない」という主張は、某学生会に限らず、結構いろいろな教会で言われている。当ブログで連載中の「キマジメくんのクリスチャン生活・第4話」でも、キマジメくんが寝坊して日曜礼拝をすっぽかしてしまい、牧師に厳しく叱責される、というエピソードがある。これ自体はフィクションだけれど、同じような実例は少なくない。礼拝に行けなかったことを厳しく叱責されるだけでもおかしな話だけれど、それは罪だから悔い改めろとか、祝福から断ち切られるとか、そういう信仰モドキの脅しをかけられてしまう。クリスチャンになったばかりの人やその家族などは、キリスト教とはそういうものだと思ってしまうだろう。
 
 けれどこの問題は、その牧師の神学的背景とか、思想とかやり方とかだけに止まらない。そういう牧師を支持する信徒たちによっても、助長されていく。
 
 彼ら信徒は真面目で、熱心で、牧師への忠実を神への忠実だと信じている。その為、多少の不都合があったくらいじゃ日曜礼拝を休まない。というか大きな不都合があっても休もうとしない。たとえば自分や家族に熱があっても「教会に行けば癒される」とか、「辛くても礼拝を優先する姿を神様が喜んで下さるはずだ」とか考えて、教会に行く。
 あるいは日曜に親戚や知人の葬儀が入っても、「死者のことは死者たちに任せるべきだと聖書が言っている」という訳で、参列しない。他にもいろいろある。
 
 すでに全体がそういう雰囲気になっているから、そこに新しく入る信徒は大変だ。熱があっても葬儀があっても何があっても、休むと言えない。言えば不信仰とか罪とか言われてしまう。
 
 1つ個人的な経験を書くと、ある時、私が長年大変お世話になってきた方が亡くなられた。あいにく、葬儀が日曜礼拝の時間と重なっていた。けれど私は葬儀に参列したかった。感謝の意だけでも表さなければならないと思ったからだ。それで牧師に正直に胸のうちを話してみると、呆気なく否定された。「礼拝に優先するものなど何もない」私は馬鹿だったので、「これも神のため」みたいな気持ちで葬儀を諦めてしまった。
 
 もちろん、異常なことだ。
 この牧師の言を突き詰めていくと、たとえば礼拝に行く途中で交通事故に遭い、病院に担ぎ込まれて礼拝に出席できなかったら、不信仰になる。あるいは重病を患って長期入院でもしようものなら、「癒されないのは何か罪があるからだ」みたいなことになる。親が死んでも子どもが死んでも「礼拝に優先することではない」という話になる。
 
 礼拝は日曜だけのことではないし、教会の中だけですることでもない。けれどそういう牧師に言わせれば、「日曜に」「この教会で」捧げるものだけが、本物の礼拝なのである。他の場所や他の形の礼拝を、事実上否定している。
 しかしこの主張は、結局のところ自分の教会に人を大勢集めたいとか、全体を統制するために例外を認めないとか、そういう動機に基づいている。聖書も神様も関係ない。何故ならば聖書はそんなこと、一言も言っていないからだ。
 
 ある時、そんな牧師が急病で入院した。日曜の礼拝は、当たり前のように休んだ。しばらくして退院して、一言。「あの病は主からのメッセージだった。私はしばし、主からの痛みに耐える必要があった
 随分敬虔そうなことを言うけれど、要は信徒に課すルールは自分には適用しないのである。本当に、ものは言いようだ。

人は、神の愛に触れられて「変われる」のか

神の愛に触れられれば、人は変えられ、真に人を愛せるようになる

 というのはキリスト教の聖職者が語りやすいメッセージであろう。カトリックの事情はよく知らないけれど、少なくともプロテスタントではそうだ。実際そういう意味のことを言う牧師は多い。

 今回はこのメッセージについて考えてみたい。

 私は基本的にこのメッセージに同意している。
 神様が私の身代わりに死んで下さった、私を愛して許して下さった、というのは、一般社会ではなかなか見られない形の愛だ。いろいろ悩み苦しんできた人にとって、それは大きな癒しともなる。そして「自分もこんなふうに生きたい」と人に思わせもする。

 有名な物語『レ・ミゼラブル』でも、主人公ジャン・バルジャンは神父の愛と許しに触れて改心する。そしてその後の人生をかけて、人を愛するようになった。これはもちろん物語の話で、そんな劇的なこともそうそう起こらないだろうけれど、同種の感動をキリスト教の神は与えうる。そういう意味で、真実味がある。

 実際、以前にも書いたけれど、クリスチャンには優しい人が多い(と思う)。聖書を読んでいるからというのもあるだろう。自分が「許された」から、人のことも「許したい」、という心理もあると思う。

 けれどこのメッセージの注意点は少なくとも2つある。
 1つは「その変化は時間を要する」ということ。
 もう1つは「その変化は不可逆的ではない」ということ。

・その変化は時間を要する

 ある牧師はこう言う。
「日本の宣教が大変なのは、日本人がクリスチャンになっても心がなかなか変化しないからだ。しかし聖霊に触れられれば、人は一瞬で変わる。だから日本の宣教に必要なのは聖霊の力なのだ

 
 確かに聖書を見ると、心が一瞬で変わったような人たちが登場する。たとえばパウロとか、ザアカイとかだ。そういう例を取り上げて、「聖霊に触れられれば一瞬で心が変わる」と主張する。
 けれどパウロにしてもザアカイにしても、律法をよく知るイスラエル人だったはずで、何も知らない日本人とはそもそも出発点が違う。彼らは短い言葉や体験で「そうだったのか」と真理に気づくかもしれないけれど、日本人にはそんな素地はない。だからいろいろ教えられなければならないし、それにはたいへん時間がかかる。一瞬で変わるなど、到底あり得ない。

 よく、「祈っていたら一瞬でピアノが弾けるようになった」とか、「祈っていたら一瞬で英語がしゃべれるようになった」とかいう話を聞く。神の奇跡という訳だ。
 それらの真偽はさておき、もしそんな調子で「創造主のことが一瞬でわかり、生き方が変わった」としたら、実際どうだろうか。それは「神を知る」というプログラムをほんの数分でインストールされたロボットと同じではないだろうか。
 人間が自らの判断で神を知ろうとし、時間をかけて聖書を読み、次第に神の愛に触れ、結果として神を愛するようになった、というプロセスを、神は望まれるのではないだろうか。意思のないロボットに「愛されて」、はたして嬉しいだろうか。あなたならそういう「愛」を望むだろうか。

 だから人は変わるとしても、一瞬とか、ごく短い時間とかではない。長い長い時間がかかるし、それでいいのだ。たやすく得たものの価値は、それだけ安い。

 なのに上記の牧師みたいに「聖霊によって一瞬で変わる」を主張すると、おかしなことが起こる。感動的なメッセージや感動的な祈り、お涙頂戴の教会内ドラマで「感激」した人たちが、「今日の礼拝で自分は変わった」と思い込む。牧師もそれを支持する。すると、実質は何も変わっていないのに「きよめられた」「聖化された」という話になり、「クリスチャンとしてのレベル」が上がったように錯覚してしまう(いつも書いているように、レベルという話そのものがおかしい)。

 それで「自分は聖書に通じている」「自分は聖霊の力を受けている」「クリスチャンとして何者かになった」と自負する人たちが、平気で人を傷つけ、不誠実なことをし、非常識な振る舞いを「神の意志だ」と正当化するようになる。
 その人格的欠落が、神の愛によって何も変えられていない有様を証明しているのだけれど。

 しかしそういう人に限って、「人間なんだから欠点だってある。そういう点は許されるべきだ」などと自己弁護する。あれ、一瞬で変えられたんじゃなかったっけ?

 2つ目の注意点、「その変化は不可逆的ではない」は、次回に書きたい。

2014年10月15日水曜日

終末思想にみられる「信仰のレベル」、あるいは競争原理

もうすぐ携挙」と言い張るクリスチャン(?)がブログ更新を止めて、しばらく過ぎた。
 最後の方の記事で、別れを匂わす表現をしていた。けれど、コメントの返事はまだしている。携挙の夢は叶っていないのだろう。
 と言うかこのところ、「イエス様が遅れると言っている」などと書いているから、いよいよ「守り」の姿勢に入ったと思われる。すなわち携挙も何も起こらなかった場合の予防線を張っているのだ。
 
 当人は10月の「仮庵の祭」にこだわっていたけれど、祭の期間ももうすぐ終わる。終わった時どうするだろうか。間違いを認めて反省する、ということはないと私は思う。断言してもいい。その後どうするか、大体わかる。聖霊派クリスチャンお得意の「何とでも言える」を駆使するのだ。
 
イエス様が携挙を思い直されました」とか、
確かに霊の次元ですごいことが起きました。気づきませんでしたか?」とか、
 
適当なことを言って、話をウヤムヤにするだろう。とにかく「自分は神様に聞いているだけ」であって、「神様がいろいろ変えておられる」という主張だ。
 もともと「思い込み」で始まったことだから、同じ「思い込み」で、いかようにも軌道修正できてしまう。
 
 しかしそうやって御心をでっち上げるのは、非常に罪深い。少なからぬ人々を惑わしているからだ。自分自身が「信仰の破船」に乗るのはまだいいとして、甘言をもって人々をそこに招き、同じ過ちを犯させようとしている。神様が黙っていないと思う。それで実害を受けている人がいるなら尚更だ。
 
 実際、かつて終末思想に走って失脚した人を私は見た。神様は想像もつかない方法でそれを暴かれたし、間違いを正された。だから今回の当事者にも同じようなことが起こると、私は考えている。
 
・それを積極的に信じる人々について
 
 上記の「もうすぐ携挙」を信じてしまう人たちが、少なからずいる。そしてもう、みんなして「お別れムード」である。「天国で会いましょう」とか、「私はたぶん第2便で行きます」とか、「霊的なことがわからない人たちの目が開かれますように」とか、まあいろいろ言っている。
 
 そういう発言の共通点は、「信仰のレベル」を気にしている点だ。彼らには「信仰に進んだ霊的な人は携挙される・そうでない人は残される」という価値基準しかなく、完全に競争原理に支配されている
「あの人は携挙されるだろう」
「私は残されるだろう」
「でも私はこの人よりはマシなはずだ」
 どれも上下、優劣、高低の話だ。
 
 そういう人たちは有名牧師や有名クリスチャンの話は聞くけれど、聖書も神の恵みも無視している
 マタイ20章の前半に、ぶどう園の主人と労務者の話がある。主人は早朝と9時、12時、15時、17時にそれぞれ労務者を雇った。そして全員に同じ1デナリを渡した。早朝雇われた者と17時に雇われた者とでは、労働時間がずいぶん違う。けれど主人は「最後の人にも最初の人と同じだけあげたい」と言う。
 これが「神の恵み」だ。
「信仰のレベル」を気にする人たちは、この点を無視してしまっている。
 
「信仰に進んだ分だけ」「祈った分だけ」「奉仕した分だけ」「霊的な分だけ」神に近づき、携挙される資格を得る、というのは単なる対価主義だ。「働いた分だけ多くもらえるはずだ」と考えているに過ぎない。しかし早朝から働いた人も17時から一時間だけ働いた人も同じように扱われるのが、神の恵みである。一般的には不公平な話だけれど、聖書はそれを愛とも憐れみとも呼んでいる。そして、だからこそ神は偉大なのだと私は思う。
 
「信仰のレベル」を気にする人たちは、そういう神様を自分たちのせまい価値基準の枠に押し込め、神様を都合のいい「祝福生産マシーン」に貶めている。神様の働きを想定内と考え、コントロールできると考えている。
 けれどそんなはずはないし、そうであってはならない。
 
 人間の想定内の神様がつくる、人間の想定内の天国に、行きたいだろうか。そこはきっと競争原理と上下関係と、嫉妬と虚栄で満ちている。そんな天国なら私は遠慮したい。

2014年10月13日月曜日

【解説】キマジメくんのクリスチャン生活・信仰自慢篇・終末信仰篇

「キマジメくんのクリスチャン生活」第15話~第16話の解説。信仰自慢篇と、終末信仰篇。
 本文はこちらから。

→第15話
→第16話

・信仰自慢篇

 いわゆる「裕福家庭」であるリッチ兄弟の家に、キマジメくんが招かれる。そしていろいろ「交わり」をするのだけれど、それがリッチ兄弟の家庭自慢、信仰自慢に終始する、という話。
 口では「君の話を聞きたい」と言うけれど、フタを開ければ自分の子どもの自慢だったり、どれだけ教会に献金しているかの自慢だったりする。彼がそれをどれだけ意識してやっているのかわからない。もしかしたら純粋に「証」をしたいだけかもしれない。けれどそうだとしたら非常に無神経だ。その自慢が、あまりに露骨だからだ。それを聞かされる相手がどう思うか、もうちょっと考えるべきだろう。

 こういう「信仰自慢クリスチャン」は、少なからず存在する。金持ちかどうかは関係ないかもしれないけれど、金持ちの比率が高いようにも感じる。言わなきゃいいのに、これだけ献金したとか、これだけ断食したとか、こんなすごい恩恵を受けたとか、こんな栄誉を受けたとか、有名企業に就職できたとか、そういうのを「証」と言って満面の笑顔で披露する。

 私は全然できていない人間なので、そういうのには近づかないようにしている。不愉快になるだけだからだ。

 ちなみに信仰自慢というと、ルカ10章17節を私は連想する。
弟子たち「あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」
キリスト「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません」

 やはり人間というのは、自慢したくなる生物なのだと思う。クリスチャンだからといって特別なことは何もない。

・終末信仰篇

 これについては「終末」に関する問題というラベルでも書いているので、そちらを参照していただきたい。
  だいたい、終末信仰を強調する牧師には、前駆症状として「イスラエルかぶれ」がある(と言ってイスラエルが悪いということではない)。1948年のイスラエル建国以来、その傾向は強まっている。「イスラエルが再建されたのは神の奇跡であり、預言の成就だ。そして残る預言は、携挙と患難時代だけだ」という訳で、もう間もなく終末が到来する、と主張する。

 しかし、最後の預言が残っているだけだから終末が近い、というのも論理的に飛躍している。たとえば孫悟空と仲間たちがドラゴンボールを探していて、6つまで見つかった。すると残りは1つだ。じゃあ最後の1つだからすぐに見つかるのか、というと、全然そんなことはない。かえって見つけ難いかもしれない。あるいは本当にすぐに見つかる可能性もある。本当のところは「わからない」のだ。

 またそういう「終末ムード」を助長するメディアも盛んに作られている。映画やアニメでは「終末」や「世界の破滅」は定番のテーマだし、学研の「ムー」もそんなことを何十年と書き続けている。海外のクリスチャン(?)メディアにも、終末を煽るオドロオドロしい映像をたくさん流しているところがある。
 けれど、そういう終末話は何千年も前から取り上げられ、語られてきている。そういうのに飛びつくのが、人間心理なのかもしれない。

 私自身は、いつ終末が来てもおかしくないと思っている。「福音が全世界に宣べ伝えられてから」という表現をどう解釈するかという話もあるけれど、近いうちには来ない、とも言えない。もちろん近いうちに来るとも言えない。
 私が大事だと思うのは、いつ来るかという話でなく、どう生きるか、という話だ。終末論者が言う、「もうすぐ終末だから準備しなければ」というのは、一見信仰的な気がするけれど、よく考えるとそうではない。以前も書いたけれど、「主が来られるから良いクリスチャンでいよう」という発想がそこにあるからだ。たとえるなら「試験前夜だから勉強しなきゃ」みたいなもので、それはその人の本来の姿ではない。ヤバいから取り繕う、という、面目を重視した姿勢でしかない。
 そんなものを神様が望まれるかどうか、一目瞭然であろう。
 終末信仰を叫ぶ牧師や団体には要注意である。

2014年10月12日日曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第43話

「タタカイ兄弟が遅れているけれど仕方ない。ミーティングを始めよう」
 溝田牧師が言う。「じゃ初めに祈ろうか。みんな、目を閉じて」
 一同、頭を垂れて目を閉じる。キマジメくんもそれに倣った。
「はい、じゃ誰か示されてる人、自由に祈って」
 それきり、溝田牧師は黙りこむ。えっ・・・、という空気がスタッフ間に流れるのを、キマジメくんは感じた。けれど誰かが咳払いを一つして、祈りだした。一番年長の兄弟だった。
 兄弟は教会の祝福とか、神の導きとか、そういう当たり障りのないことを流暢に祈った。「示されて」祈ったのかどうかよくわからない。
 
 その祈りが終わって皆で「アーメン」と言うと、キマジメくんは目を開けた。けれど牧師をはじめスタッフ全員が、まだ同じ姿勢で目を閉じていた。そしてそのまま時間が流れた。キマジメくんは何が何だかわからないけれど、再び目を閉じた。そこで牧師が声を上げた。
「ほら、示されている人、どんどん祈って」苛立っているようだ。「祈りを重ねることで霊性を引き上げるんだよ。君たち、示されてるのはそれだけなのか?」
 すかさず別の兄弟が祈りだした。若干早口で、やはり教会の祝福とか、神の導きとか、聖霊の力の現れとか、さっきとあまり変わらないことを祈った。けれど「アーメン」の掛け声は大きくなり、場は次第に盛り上がっていく。
 続いて別の姉妹が祈り、また別の兄弟が祈った。その頃には皆、「異言」でも祈っている。
 最後はサトリコ姉妹が祈りの声を上げた。彼女の声は大きくてよく通る。耳触りも良い。その声が周囲の「異言の祈り」にのって、「この国にリバイバルを!」とか、「天国がこの地に侵入するように!」とか、壮大なことを祈る。みんな熱狂して、「アーメン!」とか「そうです!」とか叫んだ。もはやミーティングというより、祈り会だ。
 
 そんなこんなで、祈りは30分ほど続いた。終わると皆で「ハレルヤ」三唱し、互いにハグし合う。溝田牧師も満足そうに言う。「こうやって霊性が上がったところでミーティングを始めるのがいいんだよ。長い祈りなんか無駄だという意見もあるけれど、祈りによって霊性が高まり、より高次的、効率的になるんだ」
 という訳でミーティングが始まる。議題は今度の伝道集会についてだった。集会の意義とか、目的とか、それがいかに必要か、牧師は滔々と語る。スタッフらは熱心にメモを取っている。キマジメくんもそれに倣い、スマホでメモと取る。
 その時会堂のドアが開いた。「遅れてすみません」
 タタカイ兄弟だった。
 牧師の顔つきが変わった。「君ねえ、どうしたんだ? ミーティングに遅れるなんて?」
「す、すみません」
「どうしたんだと聞いているんだよ!」
「いえ・・・、その・・・、ミーティングの時間を間違えてました。すみません」
 ハッ、と牧師は溜息をつく。「あのねえ、小学生が登校時間を間違えるなんてことがあるか? ないよな? みな時間を守っているんだよ。これが企業でのプレゼンだったらどうなる? プレゼンの内容がいくら素晴らしくても、時間に遅れたら、それだけで失敗だ。違うか?」
 タタカイ兄弟は頷く。
「どうなんだよ!?」と牧師。「何とか言え!」
「はい!」とタタカイ兄弟。「ちがくありません・・・」
「まったく、こういう個人のミスで、教会全体が止まってしまうんだよ」溝田牧師は、今度は全員に向けて話しだす。皆神妙な顔になって、ハイと言う。
「我らの神様は生きているんだよ。そして、今も働いておられる。教会は神様の最大の武器だから、神様は私たちを大いに用いられる。けれどその私たちに準備ができていなかったら、神様は私たちを用いることができない。そうしたら、神様の働きはどうなる? 止まってしまうよな。そうだとしたら私たちの責任だ」
 そしてまた、タタカイ兄弟に目を向ける。「今こうしている間にも、滅びゆく魂がある。私たちの働きがストップすることで、救える魂も救えなくなってしまう。その責任は重い」
 タタカイ兄弟はもはや声も出ない。うつむいて頷くだけだ。
 何もそこまで言わなくても、とキマジメくんは思った。けれど、そんなこと言えるはずもない。遅刻したのが悪いのは間違いない。
 これが神様の厳しさか、とキマジメくんは思った。天地を創られた神様にお仕えする訳だから、これくらい当然かもしれない。(続く)
 
――――――――――――――――――――――――――――――――
・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
――――――――――――――――――――――――――――――――

2014年10月11日土曜日

クリスチャンか否かで決まらない価値。マララさんのノーベル平和賞受賞をみて。

 先日、パキスタンのマララ・ユスフザイさんが、ノーベル平和賞を受賞した。
 
 女性の教育の権利を訴えてタリバンに銃撃され、重傷を負ってなお活動を続ける、若干17歳の少女である。銃撃事件後の昨年7月、国連での演説が世界中から注目され、称賛された。「教育こそ解決です」
 日本でも報道されたから、記憶にある方も多いと思う。
 
 出所はわからないけれど、一部のクリスチャンの間で、このマララさんはクリスチャンだ、という話が流れた。すると途端に、彼女の行動も演説も、銃撃からの奇跡的な回復も、その恐れに立ち向かう勇気も、「やっぱりクリスチャンだからね」みたいな話になった。そして国連での演説の動画が、もてはやされた。
 
 マララさんがクリスチャンで、素晴らしい信仰の持ち主だから、神様に用いられたんだ、という信仰譚がどうやら出来上がったようである。同じクリスチャンだ、という親近感も芽生えたと思われる。

 しかし(彼らにとって)残念なことに、マララさんはクリスチャンではなかった。それがわかると、その信仰譚もパッタリ途絶えた。「マララさんすごい」はどこへやら。
 
 なんだか、クリスチャンだから良い人間だ 、価値が高い、注目に値する、という話みたいだ。
 
 つまり上記の彼らが称賛したのは「ノーベル平和賞を取って超有名になったクリスチャン」であって、「女性の教育の権利を訴えるマララさん」本人ではなかった。「クリスチャンが偉大なことをして有名になり、キリスト教の株を上げてくれた」みたいに考えていたのだ。自分たちの信仰の価値や正当性にしか、関心がなかったのである。
 もしマララさん本人を称賛していたのなら、彼女がクリスチャンかどうかに関係なく、虐げられてきた女性たちの権利向上を思って喜んだはずだ。もっと言えば、キリスト教の存在意義とか価値とかの前に、弱者に手を差し伸べることに心を向けるはずだ。
 
 それに、クリスチャンだから良い人間だ、というのはハッキリ言って間違っている。ある牧師は「どうせノンクリなんてこんなもんだ」と未信者をあきらかに蔑視していたけれど、そういうことを平気で言えるクリスチャンの方がよっぽど問題がある。そんな蔑視をしない未信者は大勢いるし、ヘタなクリスチャンよりよっぽど愛深い未信者なんて沢山いる。
 
 所詮、クリスチャンだろうがノンクリスチャンだろうが、同じ人間なのだ。「きよめられた」を主張する聖霊派クリスチャンらは反対するだろうけれど、両者ともまったく同じ罪の性質を持っており、同じように弱く、同じように間違いを犯す。そこに区別はなく、上下もなく、優劣もない。唯一あるとしたら、クリスチャンには聖書の価値基準がある、ということくらいだ(しかしそれとて、自分自身から出たものではないから、クリスチャンが自慢していいものではない)。
 
 当然だけれど、人の価値はクリスチャンかどうかでは決まらない。「主は人のたましいの値打ちをはかられる」と聖書は言っているから、人のたましいの値打ちは、それぞれ違うのだと考えられる。けれど、「私はクリスチャンだから未信者より値打ちは高い」とか思っている人のそれが高いとは言えないと、私は思う。

2014年10月10日金曜日

クリスチャンと安息日について・その2

 安息日について2回目。

安息日に働いてはならない」という主張は、現代においては、「日曜日は教会で礼拝を守らねばならない」という主張に似ている。

 安息日は土曜日だけれど、キリストの復活された朝が日曜日で、今はほとんどの教会がその日曜を礼拝日としている。
 基本的に礼拝は何曜日でもいいし、教会に集うことだけが礼拝ではない。けれど、今は日曜が主流な訳で、それを逃すと「今週は正式な礼拝ができなかった」みたいな感覚になる人も多いと思う。そういう意味で、日曜日に礼拝するというのは大切なことであろう。

 けれど前回紹介した教団みたいに、「安息日は一切の労働は禁止です」と言うのがファンダメンタリズムのそしりを免れないように、日曜礼拝に「絶対出席しなければ祝福されない」と言うのも、原理主義的と言うほかない。

 某学生会もそんなようなことを言っている。公には明言していないようだけれど、真意としては、「日曜に休める仕事に就くのがクリスチャンとして勝ち組」みたいな主張をしている。日曜は何がなんでも教会で礼拝しなければならない、そうでなければ祝福されない、という訳だ。

 けれど、前回も書いた通り、2000年以上前の農耕牧畜社会に比べて、現代社会はより複雑で多様化している。職業は星の数ほどあり、多種多様なサービスが存在し、その社会機能は1日として休まない。たとえば警察にも消防にも医療機関にも運送にも、休みはない。というか休んでもらっては困る。そこで働く個々人は日曜に休むこともあるだろうけれど、それが確約された休日ではもちろんない。

 だから古代のユダヤ文化みたいに、「この日(安息日)は全員休み」みたいなことは、現代では現実的に不可能だ。少なからぬ人々が、日曜に働かなければならない。

 そういう状況を考えてみると、「クリスチャンが日曜に働くなんてダメだよ、教会で礼拝しないと」と言うのも、いささか手前勝手ではないかと思えてならない。
 日曜は働かないと個的に決めるのは、個人の自由だ。けれどその人も社会機能を必要としている訳で、その機能が日曜に働く人々によっても支えられているのを、忘れてはならない。
 某学生会の連中にしても、その「勝ち組意識」が、日曜に働く大勢の匿名者に支えられていることを無視するなら、ただの傲慢ではないか。

 安息日の労働を禁止する律法学者に、キリストはわかりやすい質問をしている。「羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか」(マタイ12章11節・新改訳)
 別の箇所でも「安息日にしてよいのは善か悪か」と聞いていて、善行を推奨している。そしてその善行というのは、教会で礼拝することを指しているのではない

 私は日曜礼拝を否定したいのではない。礼拝はできる限りすべきだと思う。ただ、絶対休んで礼拝しなければダメだ、という強硬な主張には、異を唱えたい。
 たとえば日曜日、教会で礼拝中、近隣で大規模な自然災害や大事故が起きたら、彼らはどうするだろうか。教会に害がない限り、礼拝を続けるだろうか。あるいは中断して助けに行くだろうか。

 前者のクリスチャンがしているのは礼拝ではない、ということだけは、ハッキリ言っておく。

2014年10月9日木曜日

クリスチャンと安息日について

 前回はクリスチャンとタバコについて書いた。今回は「安息日」について考えてみたい。
 
 実はこれは、少し前に投稿していただいた体験談に基づいている。大変興味深かったので、ずっと記事にしたいと思っていた。ちなみに投稿者の許可は得ているが、団体名等は伏せておく。
 
 ある教団は安息日(金曜の日没から土曜の日没まで)を非常に重視している。
 その日は仕事のみならず、娯楽も禁止、家事も禁止、テレビやラジオの視聴も禁止、音楽はキリスト教関連のもののみ可、とのこと。ちなみに教団関連の医療福祉施設の職員は、働いて良いことになっている。
 
「安息日」は旧約聖書の規定で、いわゆる「十戒」にも含まれている。いわゆる土曜日1日、「何のわざもしてはならない」と書かれていて、「労働」を禁止しているように読める。その意味で、上記の教団は聖書をそのまま実行しているように思える。
 
 けれど安息日の神様の意図は「休みなさい」というところにあると思う。働くのは週に6日間で十分だから、1日はちゃんと休みなさいよ、みたいな神様の人間に対する配慮のように私には思える。つまり「禁止」というより、文字通り「安息」という意味合いである。
 
 そのへんを勘違いして、「安息日には何もしてはいけない」という「禁止」にばかり目がいく律法学者が大勢いたらしい。だからイエス・キリストは、彼らにこう言っている。
「あなたがたは安息日にも牛や家畜に水をあげてるでしょうよ」(ルカ13章から・筆者による意訳)
 だから、「安息日だから何がなんでも何もしてはいけない」というのは、勘違いが過ぎる。神様の意図を履き違えて、勝手に自分たちのルールにしてしまっている(信者が全員それに納得して集っているなら、特に問題ないかもしれないけれど)。
 
 それに旧約時代のイスラエル人に与えられた命令が、新約時代である今日の、しかも異邦人である私たちにも有効なのか、甚だ疑問である。
 
 その投稿者がある土曜日、家の掃除をしてから教会に行ったら、少し遅れてしまった。すると他の信徒から、お叱りを受けた。「安息日は家事を含め一切の仕事をしてはなりません。覚えておいて下さい」
 その信徒は教団のルールには精通しているようだが、どうやら聖書はちゃんと読んでいないようだ。
 
 そこまで厳格にされると、むしろ「何もしない」ように「する」必要が出てくる。「休んでいい」という話でなく、「一歩も動くな」という命令になってしまう。「動かない」ように「じっとして」いなければならなくなる。しかしそれは、逆に「労働」であろう。
 
 その教団の最初の動機は、「聖書を忠実に守りたい」という純粋なものだったかもしれない。しかしそれが結果的に、信徒をガチガチに縛り上げることになるとしたら、動機が純粋かどうかはもはや関係ない。単なる律法主義である。
 
 またその教団に属する限り、土曜勤務のある仕事はできない。あるいは土曜を必ず休みにしてもらわなければならない。そしてそれができない職場には就職できないし、いるなら転職しなければならない。
 
 しかしそれもやはり、聖書の意図を履き違えている。それに農耕牧畜がメインだった社会と現代とでは、社会環境が全然違う。現代日本は第三次産業が中心なのだから、土曜勤務がある業種なんて相当多い。そこで土曜に必ず休める業種や職場を選ぶとしたら、就職の幅がかなり制限されてしまう。やりたい仕事もできないかもしれない。

 そんな風に信者を縛り付ける教義は、やはりおかしいと私には思えてならない。

2014年10月8日水曜日

クリスチャンとタバコについて

 クリスチャンの喫煙について、牧師が言及するのを何度か聞いたことがある。

 ある牧師は、いわゆる「新生」するまで、ヘビースモーカーだったという。クリスチャンではあったけれど、学生時代にタバコの味を覚えて、どうしてもやめられなくなった。教会では「禁煙できました」と言い、陰で吸っていた。そういう期間が長かった、という。
 それが「聖霊のバプテスマ」を受けて「新生」すると、自然に喫煙習慣がなくなった。タバコのことをふと思い出して、「そういえば吸ってたんだっけ」と考え、試しにタバコを買ってみた。しかし一口吸ったらまずくて、とても吸えなかった、という。
 まあその話の結論は、「だから新生が絶対必要なのです!」ということだったけれど。

 また別の牧師は、信徒がタバコを吸っているのをたまたま見てしまった、という。車での帰り道、コンビ二に寄ったら、入り口の喫煙所に見慣れた顔があった。何年か前に「禁煙できた」と証していた信徒だった。その牧師は「胸を痛めて」車内で祈った。後日、その信徒を呼び出して、「愛をもって」話した、という。どんな話だったかは知らない。

 またある「聖会」で、「招き」の時間があった。老夫婦が息子を講壇に引っ張って行き、その喫煙習慣が「断ち切られる」よう、牧師に祈りを依頼した。息子は促されるまま、タバコを講壇に置いた。そして長いこと祈られた。最後は、牧師と老夫婦と息子とが抱き合い、「涙と感動」の勝利宣言である。その後、その息子が本当に禁煙できたかどうかは知らない。

 上記の例は、私が実際に見たり聞いたりした話だ。すべて、「喫煙なんてもってのほか」というスタンスに立っている。

 タバコも罪か罪でないかで、一部で議論されてきた話題だと思う。けれど普通に教会生活を送っているクリスチャンからすれば、あまり考えることもないだろうし、なんとなく「罪なんでしょ」みたいに捉えているだろうと思う。私もさほど考えたことがなかった。だからもし、なぜタバコが悪いのかと聞かれたら、答えに窮したと思う。

 タバコの問題点は、強い依存性と身体への害にあると言われている。神様から賜った心身の健康を維持するのもクリスチャンの義務、だから喫煙すべきでない、という訳だ。
 ちなみに私は、それに対する反論を持っていない。もともとタバコに興味がなく、むしろクサいので近くで吸われたくない。だから罪かどうかに関係なく、タバコには消滅してほしいと思っている。

 ただ、喫煙を罪だと断定する人たちの主張には、違和感を覚える。
 彼らはタバコを罪の塊だと認定している。それ自体は、信仰上の一つの主義としてはアリだと思う。けれどその主張が行き過ぎて、「喫煙は神との関係を断絶する」「喫煙すると救いから漏れる」「喫煙者に神の声が聞こえるはずがない」みたいな話になるのはおかしいと思う。

 けれど上記の例を見ると、どれもそんなニュアンスを含んでいる。信徒の喫煙現場を見つけた牧師が「愛をもって」語ったというけれど、それは本当に「愛」なのだろうか。偏狭で余裕のない価値観を押し付けたのではないだろうか。

 前回の「神に喜ばれる・喜ばれない」の話でも書いたけれど、人にはいろいろな側面がある。あらゆる点で神に喜ばれる人などいない。そして喜ばれない点があるから救われない、滅びてしまう、としたら、全人類が滅びてしまう
 たとえばイギリスの説教者スポルジョンは喫煙者だったけれど、それで彼が地獄に堕ちたとか言ったら、大変な騒ぎになりそうだ。

「新生」したから喫煙習慣が断たれた、という体験は、本当にあるかもしれない。けれど万人に今すぐ起こることとも思えない。タバコをやめたくてもやめられない、あるいはどうしても悪いものとは思えない、という人もいる。そういうのを無視して「喫煙は罪だ、神との断絶だ」と強硬に主張するのは、本当に「信仰」だろうか。本当に「愛」だろうか。

 かくいう私も、教会の信徒が喫煙しているのを見たことがある。1度や2度ではない。けれど今に至るまで誰にも言ったことがない。本人にも言っていない。なんと言ったらいいかわからなかったというのもある。けれど一番は、そんなこと言われても辛いだろうな、と思ったからだ。
 それで「喫煙を見逃すなんて罪だ」とか言われるなら、甘んじて受けようと思う。

2014年10月7日火曜日

「神様に喜ばれる・喜ばれない」について

 前回の【詰め合わせ】記事で、「『イエス様の喜び』を勝手に決めるな」というトピックを書いた。後から思うことがあったので、追加で書いてみたい。

「イエス様の喜び」というと、私はどうしても「主に喜ばれる者に」という賛美を思い出してしまう。前回書いたように、子どもの集会でよく歌われていたし、チャーチスクールでも定番の曲だったからだ。
 特にチャーチスクールでは、「主に喜ばれる者になろう!」というのがスローガンみたいに叫ばれていて、当時の私は「その通りだ」と思っていた。平日から聖書を学ぶクリスチャン子弟なのだから、神様に喜ばれる立派なクリスチャンになるはずだと考えるのは、まあ自然なことだったと思う。

 けれど冷静になって考えてみると、「神様に喜ばれる者」になれなかったら「神様に喜ばれない者」になる、というのもおかしな話だ。だいいち人間を、そんなにハッキリ区別することができるのだろうか。
 誰でも自分自身を顧みればわかるだろうけれど、人間にはいろいろな側面がある。時によっていろいろな顔を見せるし、その心の中は絶えず動いている。熱心なクリスチャンでも、心ここにあらずで礼拝する時もあるし、メッセージ中に「眠いな」と思うこともある(たぶん)。逆にいつも悪さばかりする不良学生が、駅で困っているおばあちゃんを見つけた時、聖書の一節をふと思い出して、助けに行くかもしれない。

 だから人間を「神様に喜ばれる人」「神様に喜ばれない人」という二元論で分けるのは、現実的でない。誰もがその両方を持っているからだ。どんなに「きよめられた」「主と親しく交わる」クリスチャンであっても、それは同じだ。よく「エノクは神に喜ばれていたから天に挙げられた」という記述を取り上げて、エノクを完全視する向きがあるけれど、そんなはずはない。エノクにだって悪い心があり、罪も犯したはずだ。彼が例外的に完全な存在だったという訳ではないし、現在言われる「きよめ」も完全なものではない(ところが「きよめられた」と主張するクリスチャンは、その「きよめ」が不可逆的な、「私はもう2度と汚れない」みたいな勘違いをしているように思う)。

 また、「神は世を愛された」という聖書の記述を見ると、クリスチャンかどうかに関わらず、全ての人間が神に喜ばれている、と言える。そして同時に、私たちの罪の性質を思うなら、全ての人間が神に喜ばれない、とも言える。

 だから「私は神に喜ばれる者になれた」と宣言できる人はいないのではないかと思う。またある人やその行動を見て、「あの人は神に喜ばれない」とか決めつけることもできないと思う。できるのは、きっと神様ご自身だけだ。それを人間がやってしまうと、不用意に人を裁くことになりかねない。

「主に喜ばれる者になりたい」という賛美は、子どもが無邪気に歌うか、あるいは純粋な努力目標として捉える程度がちょうどいい。何がなんでもそうでなければならない、喜ばれるか喜ばれないかの2つに1つだ、みたいな話はとても窮屈だし、そんな風に分けられるものではない。
 もし分けるとしたら、もう一方の面を、必死になって隠さなければならなくなる。しかしいったい誰が、そんな信仰生活を望むだろうか。少なくとも私は望まない。

2014年10月6日月曜日

【詰め合わせ】携挙日特定の末路・イエス様の喜び・批判より祈れ

 記事にする程ではない長さの話題がいくつかあるので、ショートの詰め合わせみたいに書いてみたい。

・携挙日特定信仰の末路について

 コメントでも複数いただいている通り、現在「携挙日特定信仰」が進行中である。面倒になるので個人名や団体名は伏せるけれど、そのブログやコメント欄を見ると、もう(携挙で挙げられることが前提で)「今生のお別れムード」になっている。ブログ主は「遺書」まで用意しているという。
 当事者たちにとっては、さぞかし「涙と感動の」信仰のクライマックスなのであろう。

 けれどそういう劇場型信仰は、劇場だけに、いずれ幕引きの時がくる。その時とは、携挙の特定日だ。その日を過ぎても挙げられず、何も起こらないとしたら、彼らは何らかの判断をしなければならなくなる。

 ただ、ブログ主はその日付を公開していない(日付は特定していると本人は断言している)。かつ、最近の記事で、「3日遅れるとイエス様に語られた」とか書いていて、その特定日を変更したようだ。
 それを見て私が危惧したのは、以下のような話になることだ。
「今度は3週間遅れると語られた」
「次は3ヶ月遅れると語られた」
「そして3年遅れると語られた」
「・・・30年遅れると語られた」

 これは、前回までシリーズで書いた「霊的なことがわかる~」でも取り上げた、「何とでも言える」という状態だ。「霊的に語られた」を使えば、どんなことでも、自由自在に言える。「神は確かに携挙日を特定されたけれど、その憐れみによって思い直された。ハレルヤ!」
 もはや手が付けられない。

・「イエス様の喜び」を勝手に決めるな

 最近いただいたコメントで、「こんな記事を書くのはイエス様に喜ばれることですか」というのがあった。コメント者の意図がよくわからないので、返事はしていない。

「イエス様に喜ばれる」というのは、聖霊派クリスチャンが好むフレーズだ。「主に喜ばれる者に」という賛美もあって、子どもの集会などでよく歌われる。

「神様が喜ぶ・喜ばない」に関する聖書の言及は、へブル11章6節が有名だろう。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」
 つまり逆説的に言うと、信仰から出たことなら何であれ、神に喜ばれる、ということだ。厳密な定義は他にもいろいろあるかもしれないけれど、そこがキモだと思う。

 ある人の行動が信仰から出たことか、そうでないかは、誰に判定できるだろうか。できるのは2人。神様と、その人自身だけだ。それ以外の第三者にはできない。なぜなら今まで書いてきたように、人は信仰的に振る舞うこともできるし、誤魔化すこともできる訳で、信仰はその外面からは判断できないからだ。
 たとえば、礼拝にいつも時間通り出席して、一生懸命賛美して、献金して、熱心にメッセージを聞いている人が、内心「早く終わってくれ」とずっと思っているかもしれない。あるいは礼拝にはいつも遅れるような人が、実はものすごく切実な思いで、精一杯の信仰をもって、ある行動を密にしているかもしれない。
 つまり、神様が喜ぶか喜ばないかは神様ご自身が決めることであって、関係ない他人が決めることではない
 またその主張は、突き詰めると、信仰の強要とか虐待とかにつながるので、個人的にはやめてほしいと思う。

・問題があるなら祈れ・・・と言っても、祈っている場合じゃないことがある

「問題があるなら、批判しないでその人の為に祈るべきでしょう」という主張がある。
 こういう意見ができるのは、「信仰的虐待」について知らない平和な世界にいるからだと思われる。
「信仰」の名の下、礼拝や奉仕や献金を強要され、挙句に財産を取り上げられ、暴力を振るわれ、重大なトラウマを受ける、ということが現にキリスト教会で起こっている。とても書けないような惨事もある。そういうのを目の当たりにして、「祈るべきだ」は全く現実的でない。もちろん祈りを否定する訳ではない。けれど、優先順位がある。

 たとえるなら、目の前で子どもが道路に飛び出し、そこへ車が猛スピードで走ってくる時、どうするかだ。その場で跪いて祈るだろうか。あるいは駆け出して子どもを助けるだろうか。
 はっきり言うけれど、前者はクリスチャンではない。人間とも呼びたくない。

2014年10月5日日曜日

「霊的なことがわかる」と言うクリスチャンのわからなさ・その3

「霊的なことがわかる・わからない」にこだわる聖霊派クリスチャンについて。3回目。
 今回はその矛盾について書いてみたい。

 彼らは「霊的生活」を大切にしている。
「霊的生活」というのは、たとえば「ディボーション」とか、毎日〇時間祈るとか、毎日聖書を何章読むとか、そんなようなことだ。かの「キリラム教」で有名なリック・ウォレンの言を借りるなら、「寝る前に御言葉を黙想するのは霊的健康に良い」とのこと。とにかくそういう「霊的事柄」が、「霊的生活」には非常に重要だという。

 祈るとか聖書を読むとか、おそらく全てのクリスチャンがしていることだと思う。霊的かどうかで言えば霊的な事柄だろうし、クリスチャンには推奨される行為であろう。それを「霊的生活」と呼ぶのは個人や教会の自由であって、私も特に反対しない。

 けれど問題はここからだ。
 そういう「霊的生活」を通して、「神に語られるようになる」と彼らは言う。「霊において神と交わることができるようになり、『その時神が語っておられること』(いわゆるレーマ)を聞けるようになる」という。神は常に語っているけれど、私たちの罪や霊的盲目がそれを聞こえなくしている、だから霊的生活を通してきよめられ、目を開けられる必要がある、という理屈だ。その結果、
「被災地支援に行くよう神に語られた。だから急いで支援金を募ろう」とか、
「終末が近いと語られた。準備しなければならない」とか、
 そういう話になっていく。

 つまりまとめると、「霊的生活」で霊性が高まった者だけが、リアルタイムに御心を聞ける、そしてそういう人は霊性が高い、というのが彼らの理屈だ。そしてそういうのに同調する人々の間で、「霊的なことがわかる・わからない」という世界が造られていく(同時に『霊的上下関係』が形成されていく)。

 問題の本質は、神にいかにして語られたか、にある。
 彼らの理屈で言えば、「霊の領域で」神に語られることになる。「霊的生活」をしているのだから、「霊の領域」が活性化されているはずだ、だからそこで神の声をキャッチできるのだ、という。同時に彼らは言う。「それは人間的な感覚ではない。気分とかではない。霊の感覚なのだ」

 この「感覚ではない、霊の感覚だ」が曲者だ。
 たとえば夜、「霊の戦い」の為、近所の神社に行く。そこで「信仰レベルの低いクリスチャン」は、オドロオドロしい雰囲気を見て言う。「悪霊がいそうだ。やはり戦いが必要そうだ」
 すると「レベルの高いクリスチャン」が言う。「そういう人間的感覚で判断するんじゃない。見た目じゃないんだ。霊の感覚で判断するんだ」
 そう言う彼がどんな「霊的」判断をするかというと、こんな感じだ。「調べた結果、ここはかつてキリシタンが迫害された地だとわかった。実は自分もそんな印象を持っていた。やっぱりだ。だから迫害者が贖われるよう、宣言しなければならない」
 結局のところ、自分だって資料頼み感覚頼みなのだ。だいいち、そこに「霊の感覚」が介在していたかどうか、誰にもわからない。客観的に判断できない。本人だってわかっているかどうか怪しい。

「感覚ではない」と言いつつ、結局感覚頼みで判断する。そこに、大きな矛盾がある。

それでも主が語られたのだ。私は確かに聞いたのだ」と彼らは言い張るかもしれない。では、結果を見ることにしよう。
 ある時、ある牧師が、その「霊の感覚」とやらを働かせて言った。「〇〇を主の名によって取得しなさい、と主に語られた」
 それで購入しようとして、あれこれ動いた。けれど、結局うまくいかなかった。その牧師は姿をくらました。あとには、多額の借金を抱えた(マジメに信じた)信徒たちだけが残された。

 もうおわかりの通り、「霊の感覚」を振り回すのは、どんなことでも言えるという点で非常に危険だ。本人が「確かに語られたんだ」と言う以上、まわりも下手に否定できない。言った者勝ち、主張の強い者勝ちの世界だ。
 そしてまわりもそれを肯定してしまうから、余計に問題が大きくなってしまう。

 この問題は、非常に深刻な害をもたらす可能性がある。特にクリスチャンになったばかりの人は、長期的な被害を被るかもしれない。だからこの記事に同意して下さる方には、どうか(できる範囲で)この問題の存在を広めていただきたい、と私は願っている。

2014年10月4日土曜日

「霊的なことがわかる」と言うクリスチャンのわからなさ・その2

「霊的なことがわかる・わからない」にこだわる聖霊派クリスチャンについて。2回目。

 彼らの「霊的なことがわかる」の問題点は、単なる「思い込み」や「こじつけ」を、「霊的」と勘違いしている点にある。
 たとえば今日が11月1日だとして、なんとなく祈っている時に、そのことを思い出す。そしてこんなふうに考える。

「11月1日は111で、1が3つ続いているな」

「111というのは、新しい始まりや出発を意味しているのではないか」

「今日は主にあって何かが始まる日なのではないか」

「(聖書を開いて)ほら、『すべてが新しくなった』という御言葉も今示された」

「今日は(以前から考えていたある活動の)始まりの日にしなさいと、主が語っておられるのだ!」

 この流れを見ればわかる通り、完全なる「こじつけ」だ。けれど彼らはこういうのを、「主からの霊的なメッセージだ。この手のことは、霊的に敏感でなければキャッチできない」とか自負しつつ言う。
 けれどそんなふうに解釈しだしたら、いくらでも、どんなふうにもでも解釈できてしまう。空の雲を見て「再臨雲だ」と言うこともできるし、「後の雨のしるしだ」と言うこともできる。「エリヤが7度目に見つけた雲だ」とか、「あの形は悪魔を表わしている」とかと言うこともできる。しかしそれでいて、自分たちの解釈だけが正しく、他の解釈は「偽りだ」とか言って退ける。他の解釈が偽りだと言うなら自分たちの解釈だって偽りかもしれないのに、そのへんの矛盾については、彼らは何も言わない。

 と、いうことは前回も書いた。今回は、なぜそんなことを「霊的」と主張するのか、その理由について考えてみたい。

・「霊的なことがわかる」と主張する理由

 結論から言うと、自己顕示欲と承認欲求を満たしたいからだ。
 ほとんどの人は承認欲求を持っているし、「何者かになりたい」という願望を持っている。たとえば働く人の多くは昇進や昇給を願うし、他者に対してある程度の影響力を持ちたいと願う。同じようにいろいろな所でいろいろな立場の人々が、「認められたい」「尊敬されたい」と思っている。
 そして認められる為には、自己顕示する必要がある。自分の考えをアピールしなければ、「それはすごい」とか言われないからだ。

 けれど一般的に考えてみて、自分の考えに対して「それはすごい」と言ってもらえるシチュエーションが、どれくらいあるだろうか。
 会社の会議なんかで良い意見を毎回毎回出すのは、たぶん至難の業だろう。そもそも自分の意見など必要とされない、という環境も少なくないと思う。多くの社員から尊敬され、「すごい」と言ってもらえる人は少ない。そしておそらく多くの人々が、「すごい」という言葉より多くの「それじゃダメだ」を言われているのではないかと思う。あるいはそこまでダメ出しされないにしても、「すごい」とも言ってもらえない。

 それが一般的なことだと思う。世の中、甘くないのである。
 けれどキリスト教界だと、ちょっと事情が変わってくる。

 クリスチャンは(基本的に)優しい人が多いと私は思う。「愛」とか「許し」とかが教義となっているから、それも当然かもしれない。私の周囲のクリスチャンを思い浮かべてみても、やはりそうだ。たまに厳しい人もいるけれど、割合的には圧倒的に「優しい人」が多い。
 それに加えて、「人を自分より優れた者と思いなさい」という聖書の言葉もあるから、クリスチャンは、他のクリスチャンを褒める機会がけっこう多いと思う。私自身、熱心な教会員だった頃はそうだったし、必要以上に人を褒めたり持ち上げたりすることが多かった。褒められることも多かった。
 だからクリスチャンは教会にいる限り、けっこう承認欲求が満たされるのだと思う。

 そういう土壌の中、「霊的」に振る舞ったらどうなるだろうか。いかにも祈っているふうに、聖書に親しんでいるふうに、「これは霊的には〇〇だと示されています」などと言ったら、「おお、それはすごい」とか言われたりする。
 それが続くと、「あの人は霊的な人だ」とか言われるようになる。
 そして講壇に上って話すようになると、「あの人は信仰のレベルが違う」とか言われるようになる。
 そのまま進んでいくと、「現代のパウロだ」とかいう評価になる。

 つまり「霊的」であることをアピールすれば、キリスト教界の、少なくとも聖霊派の中では「何者か」になりやすいのだ。もちろん簡単ではない。けれど、一般社会でのそれに比べれば、格段になりやすい。聖霊派クリスチャンたちの中でなら、さほど聖書を読む必要さえない。彼らも聖書をちゃんと読んでいないからだ。「霊的」と言えば、多少無理があっても通ってしまう。

「何者か」になれるなら、なりたいと願うのが人間だろう。そしてそれが割と楽に実現するのが、キリスト教界(特に聖霊派)なのだ。少なくともそういう状況があるから、「再臨雲だ」みたいなバカげた主張がまかり通るのだし、それが(一部で)称賛されてしまうのだ。

 そういう状況を考えてみると、「愛」と「許し」も程ほどに、と思ってしまう。

2014年10月3日金曜日

「霊的なことがわかる」と言うクリスチャンのわからなさ

 いわゆる聖霊派クリスチャンは、「霊的」という言葉にこだわる。
霊的なことがわかる」というのが彼らにとって重要な価値基準であり、「わかる・わからない」はそのまま「信仰のレベル」とか、「信仰的立場の上下」とかにつながる。だから彼らは口癖のようにこんなことを言う。
「この現象は霊的には〇〇という意味がある」
「霊的なことがわからない人たちは××だ」
「あの教会の人たちは霊的なことがわからないから、言っても無駄だ」

 もっとも、信仰のレベルとか、上下とかいう区別を付ける時点で、その信仰は間違っている。少なくとも、キリスト教信仰ではない。けれど、彼らは気づかない。逆に間違いだと言われれば言われるほど、「霊的なことが万人にわかる訳ではないから」みたいな弁明をする。

 私が思うに、この「霊的なことがわかる・わからない」を主張する人たちは、まず「霊的なことがわかる」のがどういう状態なのか、明確に説明すべきだ。何をもって「わかる」とするのか、「わかる」とは何が「わかる」ことなのか、その基準を聖書からはっきり示してもわらなければ、私は納得できない。
 というのは、彼らの言う「霊的なことがわかる」の実例を見ても、とても「霊的なこと」とは思えないからだ。
 

 たとえばこんな実例がある。
「たまたま開いた聖書の箇所から、神様がタイムリーに語られた」
「宿泊先の部屋番号を合計すると〇〇になり、これは重要なことが起こる年と月を示している」
「空の雲の形が、ちょうど人を乗せたような形になっている。あれは再臨を示す雲だ」

 他にも沢山あるけれど、どれも似たようなものだ。この中で、「偶然」とか「思い込み」とか「こじつけ」とかいう要素を完全に除外できる例が、果たしてあるだろうか
 少なくとも私には、バイアスがかかった見方をしているだけに思える。つまり「こうであってほしい」という彼ら自身の願望が、単に反映されているだけだ。

 それに、仮にそれらが神からの「霊的」なメッセージだとしたら、逆に問題になる。何故なら「霊的」というのが、そんな幼稚で刹那的で、無意味で、何の結実ももたらさない不要物ということになってしまうからだ。
 だいいち、人を乗せた形の雲が見えたから、いったい何になるのか。それで人が救われるのか。雲は、見る角度によって見え方が変わる。たまたま自分の立ち位置から見た雲がそうだったというだけで、他の角度から見たらきっとそうはならない。それは「自分の立ち位置がすべて」という傲慢と自己中心を含んでいる。そんなのが「霊的」なのか。だとしたらかなり見え透いた、稚拙な霊だ。結論から言うと、人間の思い込みでしかない。

 そういうのを表わす日本のことわざがあるので、紹介してみる。

幽霊の 正体見たり 枯れ尾花

 意味はご存知の通り、怖い怖いと思っていると、何でもないものが恐ろしいものに見える、というもの。それと同じで、「イエス様(♡)の再臨が近い♪」とか御花畑気味に考えているから、「あ、あれは再臨雲だ!」とかなるのだ。

 繰り返して書くけれど、そんなのが「霊的」なら、霊など大したことない。それより人間の想像力の方がはるかに勝っている。人間の想定内にある「霊的なこと」は、霊的ではない。単に人間が考え出しただけのことだ

 こう書きつつも、私は霊的なことを否定したいのではない。霊性もクリスチャンにとって大切な資質の一つだと思っている。けれど上記のような聖霊派クリスチャンらの主張が受け入れられてしまうと、クリスチャンの霊性が地に落ちてしまう。クリスチャンは怪しいとか、インチキだとか、頭がおかしいとか思われてしまう。そういうのを避けたいので、こういう記事を私は書き続けている。

2014年10月2日木曜日

「リバイバル」という「終末の惑わし」

 村上密先生のブログの最近の記事に、終末にリバイバルなど起こらないという主旨のものがあって、大変参考になった。興味のある方は是非検索してみていただきたい。

「レストレーション運動」を信奉するクリスチャンは、「後の雨運動」とか「第三の波運動」とかいうのも信奉していて、終末に大リバイバルが起こる、と真面目に信じている。それを根底からひっくり返す内容で、私はちょっとスッキリした。

 かつて私も「リバイバル」を漠然と信じていて、知り合いにも「リバイバルを見るまであなたは死なない」と預言された人もいる。世の終わりには何かすごいことが起こるのではないか、という漠然としたイメージを持つ人も多いのではないかと思う。

 けれど聖書を見てみると、確かにリバイバルが起こるとは書いていない。旧約にはそうとも取れそうな記述があるけれど、新約にはない。逆にキリストが言うのは、終末の時、「多くの人が惑わされる」「愛が冷める」「そのとき地上に信仰が見られるだろうか」

 つまり、「リバイバル」とは程遠い状況になっているということだ。
 大勢が一斉にクリスチャンになり、キリスト教界が大いに盛り上がり、それから携挙が起こる、なんて漠然と考えていたけれど、それはあまりに楽天的過ぎるのかもしれない。むしろ、信仰を維持するのも困難な厳しい状況の中で、携挙なり終末なりが来るのかもしれない。

 だいいち、「リバイバル」が起こっておびただしい数のクリスチャンが生まれ、そこここに教会が建つような状況になったのなら、急いで世を終わらせる必要性もないのではないだろうか。それよりノアの洪水の時のように、「滅ぼすしかない世界」だからこそ、神様が終わらせるのではないだろうか。

 だから終末論者が思い描く「リバイバル→教会大盛り上がり→携挙でハッピー」という図式は、そのものが「終末の惑わし」なのかもしれない。

 終末論者がよく使う言葉に、「目覚めよ」というのがある。終末に際してよくよく注意し、しっかり信仰に立っていなさい、油断してはいけない、というような意味だ。
 けれど上記ような困難な終末がくるのなら、むしろ終末論者たちの方がちゃんと「目覚め」て、その楽観的な発想を改めるべきだろうと私は思う。

2014年10月1日水曜日

「母さん助けて詐欺」と「終末の惑わし」の共通点

 マタイの福音書24章で、キリストは終末について語っている。
 

 もちろん、世の終わりにどんなことが起こるか、ということも語っているけれど、それより私たちが何に注意しなければいけないか、に重きが置かれているように思う。その注意というのは、大雑把に言って2つある。24章を前半後半に分けると、前半は「惑わされないようにしなさい」、後半は「用心していなさい」と言っている。
 すなわち、

①にせ預言者が多く起こって、多くの人を惑わします。(11節・新改訳)
②用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。(44節・新改訳)

 今回は、この①について考えてみたい。

・惑わしについて

「惑わされないようにしなさい」と言われると、多くの人が、「よし、気をつけよう」と思う。私もそう思う。けれど「気をつけよう」だけで騙される人がいなくなるなら、いわゆる「母さん助けて詐欺」(旧称オレオレ詐欺)みたいな詐欺は蔓延しないと思う。「あんな手口、自分は引っかからないぞ」と普段から注意している人がコロッと騙される訳で、そこに詐欺とか人間心理とかの恐ろしさがある。注意しているつもり、わかっているつもり、という落とし穴がある。

 その証拠に、①の通り、「多くの人が惑わされる」とキリスト自身が明言している。つまり、騙されないで済む人は少なく、終末の時、多くの人が騙されることになる。キリストのこのシンプルな注意喚起は、結論から言うと、多くの人の心に届かない(かくいう私も騙されるかもしれない)。

 ではどうしたら良いかというと、少なくとも「よし、気をつけよう」だけではダメであろう。もっと明確な効力のある、具体的な何かでなければならない。
 そしてそのヒントは、「母さん助け詐欺」の対策と共通しているように思える。

・「母さん助けて詐欺」と「終末の惑わし」の共通点

①それは身内を装ってくる
「母さん助けて詐欺」の基本パターンは、息子のフリをした犯人が高齢者を騙す。つまり、身内を装ってくる。
 終末の惑わしは「私こそキリストだ」と騙る人が多く起こる訳で、惑わす者はクリスチャン、つまり身内を装ってくる。だからこの惑わしは、別宗教の人がクリスチャンを惑わそうとするのでなく、クリスチャンと思われる人たちが、福音に似た別物を巧妙に広めていくのだと思われる。そして信仰から少しずつ少しずつ、人々をずらしていく。騙される方は、相手がクリスチャンだから、有名な先生だから、影響力のある誰々さんだから、ということで信じてしまう。そこには、「身内だから」という油断がある。

②それは見分けが付きにくい
「母さん助けて詐欺」の電話は、息子らしき人物がいきなり泣き叫ぶことで、被害者を緊急事態に追い込む。そして「ああ息子がこんなに苦しんでいる。すぐに何とかしなきゃ」という切迫した心理状態に追い込む。結果、息子の声と違うとか、話し方や言葉遣いが違うとか、そういう普通なら気づく差異に気づかない。すっかり息子だと思い込んでしまう。
 親の愛を利用した、巧妙な手口だ。
 終末の惑わしもそれに似ていて、にせクリスチャンらは、信仰モドキを巧妙に吹き込んでくる。「これは新しく開かれた真理だ」とか、「主は少数の選民に特別な啓示を与える」とかいろいろ言って、聖書と違う原理原則へとちょっとずつスライドさせる。騙される方は、聖書から次第にずれていっていることに気づかない。

③それは大きなことを言う
「母さん助けて詐欺」は、いきなり何百万円もの支払いを要求してくる。その額の大きさが、被害者を余計にパニックに陥らせる。そして正常な判断力を奪ってしまう。
 終末の惑わしもそれに似ている。キリスト言わく、「大きなしるしや不思議なことをして見せます」
 にせクリスチャンらの行いに通常では考えられないような奇跡が伴うことで、「ああ、これは本当に神様だ」と思わせる。それは偽物を信じさせる強力な武器となる。
 そして、それはすでに起こっている。礼拝中に降ってくる「天使の羽」とか、「金粉」とか、「天使の声」とか、そういう事象が一部の教会で見られている。しかし、その体験によって信仰の正当性が測られるのではない。聖書を見ると、悪魔も一定の奇跡を起こすのがわかる。信仰の正当性を測るのは、あくまで聖書に基づいているか、矛盾していないか、その結果どういう結実があるか、という点においてだ。