クリスチャンとタバコについて

2014年10月8日水曜日

キリスト教信仰

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 クリスチャンの喫煙について、牧師が言及するのを何度か聞いたことがある。

 ある牧師は、いわゆる「新生」するまで、ヘビースモーカーだったという。クリスチャンではあったけれど、学生時代にタバコの味を覚えて、どうしてもやめられなくなった。教会では「禁煙できました」と言い、陰で吸っていた。そういう期間が長かった、という。
 それが「聖霊のバプテスマ」を受けて「新生」すると、自然に喫煙習慣がなくなった。タバコのことをふと思い出して、「そういえば吸ってたんだっけ」と考え、試しにタバコを買ってみた。しかし一口吸ったらまずくて、とても吸えなかった、という。
 まあその話の結論は、「だから新生が絶対必要なのです!」ということだったけれど。

 また別の牧師は、信徒がタバコを吸っているのをたまたま見てしまった、という。車での帰り道、コンビ二に寄ったら、入り口の喫煙所に見慣れた顔があった。何年か前に「禁煙できた」と証していた信徒だった。その牧師は「胸を痛めて」車内で祈った。後日、その信徒を呼び出して、「愛をもって」話した、という。どんな話だったかは知らない。

 またある「聖会」で、「招き」の時間があった。老夫婦が息子を講壇に引っ張って行き、その喫煙習慣が「断ち切られる」よう、牧師に祈りを依頼した。息子は促されるまま、タバコを講壇に置いた。そして長いこと祈られた。最後は、牧師と老夫婦と息子とが抱き合い、「涙と感動」の勝利宣言である。その後、その息子が本当に禁煙できたかどうかは知らない。

 上記の例は、私が実際に見たり聞いたりした話だ。すべて、「喫煙なんてもってのほか」というスタンスに立っている。

 タバコも罪か罪でないかで、一部で議論されてきた話題だと思う。けれど普通に教会生活を送っているクリスチャンからすれば、あまり考えることもないだろうし、なんとなく「罪なんでしょ」みたいに捉えているだろうと思う。私もさほど考えたことがなかった。だからもし、なぜタバコが悪いのかと聞かれたら、答えに窮したと思う。

 タバコの問題点は、強い依存性と身体への害にあると言われている。神様から賜った心身の健康を維持するのもクリスチャンの義務、だから喫煙すべきでない、という訳だ。
 ちなみに私は、それに対する反論を持っていない。もともとタバコに興味がなく、むしろクサいので近くで吸われたくない。だから罪かどうかに関係なく、タバコには消滅してほしいと思っている。

 ただ、喫煙を罪だと断定する人たちの主張には、違和感を覚える。
 彼らはタバコを罪の塊だと認定している。それ自体は、信仰上の一つの主義としてはアリだと思う。けれどその主張が行き過ぎて、「喫煙は神との関係を断絶する」「喫煙すると救いから漏れる」「喫煙者に神の声が聞こえるはずがない」みたいな話になるのはおかしいと思う。

 けれど上記の例を見ると、どれもそんなニュアンスを含んでいる。信徒の喫煙現場を見つけた牧師が「愛をもって」語ったというけれど、それは本当に「愛」なのだろうか。偏狭で余裕のない価値観を押し付けたのではないだろうか。

 前回の「神に喜ばれる・喜ばれない」の話でも書いたけれど、人にはいろいろな側面がある。あらゆる点で神に喜ばれる人などいない。そして喜ばれない点があるから救われない、滅びてしまう、としたら、全人類が滅びてしまう
 たとえばイギリスの説教者スポルジョンは喫煙者だったけれど、それで彼が地獄に堕ちたとか言ったら、大変な騒ぎになりそうだ。

「新生」したから喫煙習慣が断たれた、という体験は、本当にあるかもしれない。けれど万人に今すぐ起こることとも思えない。タバコをやめたくてもやめられない、あるいはどうしても悪いものとは思えない、という人もいる。そういうのを無視して「喫煙は罪だ、神との断絶だ」と強硬に主張するのは、本当に「信仰」だろうか。本当に「愛」だろうか。

 かくいう私も、教会の信徒が喫煙しているのを見たことがある。1度や2度ではない。けれど今に至るまで誰にも言ったことがない。本人にも言っていない。なんと言ったらいいかわからなかったというのもある。けれど一番は、そんなこと言われても辛いだろうな、と思ったからだ。
 それで「喫煙を見逃すなんて罪だ」とか言われるなら、甘んじて受けようと思う。

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