「霊的なことがわかる」と言うクリスチャンのわからなさ・その3

2014年10月5日日曜日

「霊性」問題

t f B! P L
「霊的なことがわかる・わからない」にこだわる聖霊派クリスチャンについて。3回目。
 今回はその矛盾について書いてみたい。

 彼らは「霊的生活」を大切にしている。
「霊的生活」というのは、たとえば「ディボーション」とか、毎日〇時間祈るとか、毎日聖書を何章読むとか、そんなようなことだ。かの「キリラム教」で有名なリック・ウォレンの言を借りるなら、「寝る前に御言葉を黙想するのは霊的健康に良い」とのこと。とにかくそういう「霊的事柄」が、「霊的生活」には非常に重要だという。

 祈るとか聖書を読むとか、おそらく全てのクリスチャンがしていることだと思う。霊的かどうかで言えば霊的な事柄だろうし、クリスチャンには推奨される行為であろう。それを「霊的生活」と呼ぶのは個人や教会の自由であって、私も特に反対しない。

 けれど問題はここからだ。
 そういう「霊的生活」を通して、「神に語られるようになる」と彼らは言う。「霊において神と交わることができるようになり、『その時神が語っておられること』(いわゆるレーマ)を聞けるようになる」という。神は常に語っているけれど、私たちの罪や霊的盲目がそれを聞こえなくしている、だから霊的生活を通してきよめられ、目を開けられる必要がある、という理屈だ。その結果、
「被災地支援に行くよう神に語られた。だから急いで支援金を募ろう」とか、
「終末が近いと語られた。準備しなければならない」とか、
 そういう話になっていく。

 つまりまとめると、「霊的生活」で霊性が高まった者だけが、リアルタイムに御心を聞ける、そしてそういう人は霊性が高い、というのが彼らの理屈だ。そしてそういうのに同調する人々の間で、「霊的なことがわかる・わからない」という世界が造られていく(同時に『霊的上下関係』が形成されていく)。

 問題の本質は、神にいかにして語られたか、にある。
 彼らの理屈で言えば、「霊の領域で」神に語られることになる。「霊的生活」をしているのだから、「霊の領域」が活性化されているはずだ、だからそこで神の声をキャッチできるのだ、という。同時に彼らは言う。「それは人間的な感覚ではない。気分とかではない。霊の感覚なのだ」

 この「感覚ではない、霊の感覚だ」が曲者だ。
 たとえば夜、「霊の戦い」の為、近所の神社に行く。そこで「信仰レベルの低いクリスチャン」は、オドロオドロしい雰囲気を見て言う。「悪霊がいそうだ。やはり戦いが必要そうだ」
 すると「レベルの高いクリスチャン」が言う。「そういう人間的感覚で判断するんじゃない。見た目じゃないんだ。霊の感覚で判断するんだ」
 そう言う彼がどんな「霊的」判断をするかというと、こんな感じだ。「調べた結果、ここはかつてキリシタンが迫害された地だとわかった。実は自分もそんな印象を持っていた。やっぱりだ。だから迫害者が贖われるよう、宣言しなければならない」
 結局のところ、自分だって資料頼み感覚頼みなのだ。だいいち、そこに「霊の感覚」が介在していたかどうか、誰にもわからない。客観的に判断できない。本人だってわかっているかどうか怪しい。

「感覚ではない」と言いつつ、結局感覚頼みで判断する。そこに、大きな矛盾がある。

それでも主が語られたのだ。私は確かに聞いたのだ」と彼らは言い張るかもしれない。では、結果を見ることにしよう。
 ある時、ある牧師が、その「霊の感覚」とやらを働かせて言った。「〇〇を主の名によって取得しなさい、と主に語られた」
 それで購入しようとして、あれこれ動いた。けれど、結局うまくいかなかった。その牧師は姿をくらました。あとには、多額の借金を抱えた(マジメに信じた)信徒たちだけが残された。

 もうおわかりの通り、「霊の感覚」を振り回すのは、どんなことでも言えるという点で非常に危険だ。本人が「確かに語られたんだ」と言う以上、まわりも下手に否定できない。言った者勝ち、主張の強い者勝ちの世界だ。
 そしてまわりもそれを肯定してしまうから、余計に問題が大きくなってしまう。

 この問題は、非常に深刻な害をもたらす可能性がある。特にクリスチャンになったばかりの人は、長期的な被害を被るかもしれない。だからこの記事に同意して下さる方には、どうか(できる範囲で)この問題の存在を広めていただきたい、と私は願っている。

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