「霊的なことがわかる・わからない」にこだわる聖霊派クリスチャンについて。3回目。
今回はその矛盾について書いてみたい。
彼らは「霊的生活」を大切にしている。
「霊的生活」というのは、たとえば「ディボーション」とか、毎日〇時間祈るとか、毎日聖書を何章読むとか、そんなようなことだ。かの「キリラム教」で有名なリック・ウォレンの言を借りるなら、「寝る前に御言葉を黙想するのは霊的健康に良い」とのこと。とにかくそういう「霊的事柄」が、「霊的生活」には非常に重要だという。
祈るとか聖書を読むとか、おそらく全てのクリスチャンがしていることだと思う。霊的かどうかで言えば霊的な事柄だろうし、クリスチャンには推奨される行為であろう。それを「霊的生活」と呼ぶのは個人や教会の自由であって、私も特に反対しない。
けれど問題はここからだ。
そういう「霊的生活」を通して、「神に語られるようになる」と彼らは言う。「霊において神と交わることができるようになり、『その時神が語っておられること』(いわゆるレーマ)を聞けるようになる」という。神は常に語っているけれど、私たちの罪や霊的盲目がそれを聞こえなくしている、だから霊的生活を通してきよめられ、目を開けられる必要がある、という理屈だ。その結果、
「被災地支援に行くよう神に語られた。だから急いで支援金を募ろう」とか、
「終末が近いと語られた。準備しなければならない」とか、
そういう話になっていく。
つまりまとめると、「霊的生活」で霊性が高まった者だけが、リアルタイムに御心を聞ける、そしてそういう人は霊性が高い、というのが彼らの理屈だ。そしてそういうのに同調する人々の間で、「霊的なことがわかる・わからない」という世界が造られていく(同時に『霊的上下関係』が形成されていく)。
問題の本質は、神にいかにして語られたか、にある。
彼らの理屈で言えば、「霊の領域で」神に語られることになる。「霊的生活」をしているのだから、「霊の領域」が活性化されているはずだ、だからそこで神の声をキャッチできるのだ、という。同時に彼らは言う。「それは人間的な感覚ではない。気分とかではない。霊の感覚なのだ」
この「感覚ではない、霊の感覚だ」が曲者だ。
たとえば夜、「霊の戦い」の為、近所の神社に行く。そこで「信仰レベルの低いクリスチャン」は、オドロオドロしい雰囲気を見て言う。「悪霊がいそうだ。やはり戦いが必要そうだ」
すると「レベルの高いクリスチャン」が言う。「そういう人間的感覚で判断するんじゃない。見た目じゃないんだ。霊の感覚で判断するんだ」
そう言う彼がどんな「霊的」判断をするかというと、こんな感じだ。「調べた結果、ここはかつてキリシタンが迫害された地だとわかった。実は自分もそんな印象を持っていた。やっぱりだ。だから迫害者が贖われるよう、宣言しなければならない」
結局のところ、自分だって資料頼みの感覚頼みなのだ。だいいち、そこに「霊の感覚」が介在していたかどうか、誰にもわからない。客観的に判断できない。本人だってわかっているかどうか怪しい。
「感覚ではない」と言いつつ、結局感覚頼みで判断する。そこに、大きな矛盾がある。
「それでも主が語られたのだ。私は確かに聞いたのだ」と彼らは言い張るかもしれない。では、結果を見ることにしよう。
ある時、ある牧師が、その「霊の感覚」とやらを働かせて言った。「〇〇を主の名によって取得しなさい、と主に語られた」
それで購入しようとして、あれこれ動いた。けれど、結局うまくいかなかった。その牧師は姿をくらました。あとには、多額の借金を抱えた(マジメに信じた)信徒たちだけが残された。
もうおわかりの通り、「霊の感覚」を振り回すのは、どんなことでも言えるという点で非常に危険だ。本人が「確かに語られたんだ」と言う以上、まわりも下手に否定できない。言った者勝ち、主張の強い者勝ちの世界だ。
そしてまわりもそれを肯定してしまうから、余計に問題が大きくなってしまう。
この問題は、非常に深刻な害をもたらす可能性がある。特にクリスチャンになったばかりの人は、長期的な被害を被るかもしれない。だからこの記事に同意して下さる方には、どうか(できる範囲で)この問題の存在を広めていただきたい、と私は願っている。
これを読んでいますと、「霊的なことがわかる」と主張するクリスチャンの話は、新興宗教の草創期の初代教祖の話とそっくりだとわかります。人間というものは、このようにして様々な新興宗教を立ち上げてきたのだなあとほほえましい感情すらわいてきます。
返信削除確かに「言ったもん勝ち」なところがありますね新興宗教はどこも。大本は明治時代に「世のたてかえ立て直しがくるぞよ~」とやっていましたし、ホーリネスは大正時代に「再臨が近いぞよ~」とやっていたのです。今はさしずめ婆原彰晃の「携挙が来るぞよ~」でしょうか。
賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶといいますが、婆原彰晃の電波な発言を真に受けている人たちは、結局その日が来ても何も起こりませんので、自分がすってんてんになったことがわかって、ただでさえおかしな頭がよりいっそうおかしくなるだけでしょうね。
新興宗教系のキリスト教ではホーリネスは終末詐欺の常習犯で、大正・昭和と二度にわたって、再臨騒動という馬鹿げた騒動を起こしまくっていました。再臨が近いからもう何もいらないといって、冬服を燃やしたバカまでいたくらいでした。もちろん再臨なんて来ることはありませんので、彼らは冬服がなく寒さにこごえて悲惨な目にあったわけですがね。
昔から終末を言うバカらしい新興宗教がよくあったものです。そしてこんなばからしい新興宗教にだまされてすべてを失った人がよくいたのも人類の歴史です。やはり歴史に学ばない人はだめですね。いつまでたっても人は同じようにバカげた営みを繰り返すもので、せせら笑いがこみあげてきませんか?
|「霊的なことがわかる・わからない」にこだわる聖霊派クリスチャンについて。
返信削除| 今回はその矛盾について書いてみたい。
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|彼らは「霊的生活」を大切にしている。「霊的生活」というのは、たとえば「ディボーション」とか、毎日〇時間祈るとか、毎日聖書を何章読むとか、そんなようなことだ。かの「キリラム教」で有名なリック・ウォレンの言を借りるなら、「寝る前に御言葉を黙想するのは霊的健康に良い」とのこと。とにかくそういう「霊的事柄」が、「霊的生活」には非常に重要だという。
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| 祈るとか聖書を読むとか、おそらく全てのクリスチャンがしていることだと思う。霊的かどうかで言えば霊的な事柄だろうし、クリスチャンには推奨される行為であろう。それを「霊的生活」と呼ぶのは個人や教会の自由であって、私も特に反対しない。
いやいや、それも高じれば、あンがい有害かもしれません。
福音派やKGKも推奨している、その「霊的生活」。
「ディボーション」とか、毎日〇時間祈るとか、毎日聖書を何章読むとか。
朝の一時間のディボーションのための無駄な早起きのせいで、前日の勉学や仕事の疲れをいやすべき朝の、それもその日一日の生活のリズムが崩れてしまったり。
長く祈れば主に聞かれるわけでも徳が増し加わるものでもないのに、祈りに時間ばかり費やし<しかも朝以外で>。
聖書を毎日何章読み続け何回読了したと自分の自信にすること自体は止めないけど、ひとに自慢したり、ひとをたらし込むために、新改訳聖書の章節句を暗記して呪文代わりに使う。
そンな日々を若い世代にやってると、カルトにいたのとたいして変わらない人間に仕上がると、危惧します。
聖書を一度完読したのなら、新聞やほかの著作にあたったり、自分の学問上業務上の専門性を深めたりするべきであり、
修道院や禅寺にいるのではないのだから、長時間の祈りは必要ではないと考えるべきで、
朝を絶対的な時間<「聖なる時間」>と考えず、読みたくなればいつでも聖書を開き、祈りたければ祈る。
教会は、「教会の下僕」ではなく、「主の僕」を育てることを、真剣に、そして大らかに考えるべきで、
それを若いリーダーにきちんと教えて教会内のいろいろな活動に反映させるのが、
健全な信仰の育て方かもしれないと、思います。