「神様に喜ばれる・喜ばれない」について

2014年10月7日火曜日

キリスト教信仰

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 前回の【詰め合わせ】記事で、「『イエス様の喜び』を勝手に決めるな」というトピックを書いた。後から思うことがあったので、追加で書いてみたい。

「イエス様の喜び」というと、私はどうしても「主に喜ばれる者に」という賛美を思い出してしまう。前回書いたように、子どもの集会でよく歌われていたし、チャーチスクールでも定番の曲だったからだ。
 特にチャーチスクールでは、「主に喜ばれる者になろう!」というのがスローガンみたいに叫ばれていて、当時の私は「その通りだ」と思っていた。平日から聖書を学ぶクリスチャン子弟なのだから、神様に喜ばれる立派なクリスチャンになるはずだと考えるのは、まあ自然なことだったと思う。

 けれど冷静になって考えてみると、「神様に喜ばれる者」になれなかったら「神様に喜ばれない者」になる、というのもおかしな話だ。だいいち人間を、そんなにハッキリ区別することができるのだろうか。
 誰でも自分自身を顧みればわかるだろうけれど、人間にはいろいろな側面がある。時によっていろいろな顔を見せるし、その心の中は絶えず動いている。熱心なクリスチャンでも、心ここにあらずで礼拝する時もあるし、メッセージ中に「眠いな」と思うこともある(たぶん)。逆にいつも悪さばかりする不良学生が、駅で困っているおばあちゃんを見つけた時、聖書の一節をふと思い出して、助けに行くかもしれない。

 だから人間を「神様に喜ばれる人」「神様に喜ばれない人」という二元論で分けるのは、現実的でない。誰もがその両方を持っているからだ。どんなに「きよめられた」「主と親しく交わる」クリスチャンであっても、それは同じだ。よく「エノクは神に喜ばれていたから天に挙げられた」という記述を取り上げて、エノクを完全視する向きがあるけれど、そんなはずはない。エノクにだって悪い心があり、罪も犯したはずだ。彼が例外的に完全な存在だったという訳ではないし、現在言われる「きよめ」も完全なものではない(ところが「きよめられた」と主張するクリスチャンは、その「きよめ」が不可逆的な、「私はもう2度と汚れない」みたいな勘違いをしているように思う)。

 また、「神は世を愛された」という聖書の記述を見ると、クリスチャンかどうかに関わらず、全ての人間が神に喜ばれている、と言える。そして同時に、私たちの罪の性質を思うなら、全ての人間が神に喜ばれない、とも言える。

 だから「私は神に喜ばれる者になれた」と宣言できる人はいないのではないかと思う。またある人やその行動を見て、「あの人は神に喜ばれない」とか決めつけることもできないと思う。できるのは、きっと神様ご自身だけだ。それを人間がやってしまうと、不用意に人を裁くことになりかねない。

「主に喜ばれる者になりたい」という賛美は、子どもが無邪気に歌うか、あるいは純粋な努力目標として捉える程度がちょうどいい。何がなんでもそうでなければならない、喜ばれるか喜ばれないかの2つに1つだ、みたいな話はとても窮屈だし、そんな風に分けられるものではない。
 もし分けるとしたら、もう一方の面を、必死になって隠さなければならなくなる。しかしいったい誰が、そんな信仰生活を望むだろうか。少なくとも私は望まない。

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