クリスチャンと安息日について・その3

2014年10月17日金曜日

体験談から

t f B! P L
クリスチャンと安息日について・その2」で、日曜礼拝について触れた。今回もその追加として書きたい。
 
日曜礼拝を休んではならない」という主張は、某学生会に限らず、結構いろいろな教会で言われている。当ブログで連載中の「キマジメくんのクリスチャン生活・第4話」でも、キマジメくんが寝坊して日曜礼拝をすっぽかしてしまい、牧師に厳しく叱責される、というエピソードがある。これ自体はフィクションだけれど、同じような実例は少なくない。礼拝に行けなかったことを厳しく叱責されるだけでもおかしな話だけれど、それは罪だから悔い改めろとか、祝福から断ち切られるとか、そういう信仰モドキの脅しをかけられてしまう。クリスチャンになったばかりの人やその家族などは、キリスト教とはそういうものだと思ってしまうだろう。
 
 けれどこの問題は、その牧師の神学的背景とか、思想とかやり方とかだけに止まらない。そういう牧師を支持する信徒たちによっても、助長されていく。
 
 彼ら信徒は真面目で、熱心で、牧師への忠実を神への忠実だと信じている。その為、多少の不都合があったくらいじゃ日曜礼拝を休まない。というか大きな不都合があっても休もうとしない。たとえば自分や家族に熱があっても「教会に行けば癒される」とか、「辛くても礼拝を優先する姿を神様が喜んで下さるはずだ」とか考えて、教会に行く。
 あるいは日曜に親戚や知人の葬儀が入っても、「死者のことは死者たちに任せるべきだと聖書が言っている」という訳で、参列しない。他にもいろいろある。
 
 すでに全体がそういう雰囲気になっているから、そこに新しく入る信徒は大変だ。熱があっても葬儀があっても何があっても、休むと言えない。言えば不信仰とか罪とか言われてしまう。
 
 1つ個人的な経験を書くと、ある時、私が長年大変お世話になってきた方が亡くなられた。あいにく、葬儀が日曜礼拝の時間と重なっていた。けれど私は葬儀に参列したかった。感謝の意だけでも表さなければならないと思ったからだ。それで牧師に正直に胸のうちを話してみると、呆気なく否定された。「礼拝に優先するものなど何もない」私は馬鹿だったので、「これも神のため」みたいな気持ちで葬儀を諦めてしまった。
 
 もちろん、異常なことだ。
 この牧師の言を突き詰めていくと、たとえば礼拝に行く途中で交通事故に遭い、病院に担ぎ込まれて礼拝に出席できなかったら、不信仰になる。あるいは重病を患って長期入院でもしようものなら、「癒されないのは何か罪があるからだ」みたいなことになる。親が死んでも子どもが死んでも「礼拝に優先することではない」という話になる。
 
 礼拝は日曜だけのことではないし、教会の中だけですることでもない。けれどそういう牧師に言わせれば、「日曜に」「この教会で」捧げるものだけが、本物の礼拝なのである。他の場所や他の形の礼拝を、事実上否定している。
 しかしこの主張は、結局のところ自分の教会に人を大勢集めたいとか、全体を統制するために例外を認めないとか、そういう動機に基づいている。聖書も神様も関係ない。何故ならば聖書はそんなこと、一言も言っていないからだ。
 
 ある時、そんな牧師が急病で入院した。日曜の礼拝は、当たり前のように休んだ。しばらくして退院して、一言。「あの病は主からのメッセージだった。私はしばし、主からの痛みに耐える必要があった
 随分敬虔そうなことを言うけれど、要は信徒に課すルールは自分には適用しないのである。本当に、ものは言いようだ。

QooQ