【詰め合わせ】携挙日特定の末路・イエス様の喜び・批判より祈れ

2014年10月6日月曜日

キリスト教信仰

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 記事にする程ではない長さの話題がいくつかあるので、ショートの詰め合わせみたいに書いてみたい。

・携挙日特定信仰の末路について

 コメントでも複数いただいている通り、現在「携挙日特定信仰」が進行中である。面倒になるので個人名や団体名は伏せるけれど、そのブログやコメント欄を見ると、もう(携挙で挙げられることが前提で)「今生のお別れムード」になっている。ブログ主は「遺書」まで用意しているという。
 当事者たちにとっては、さぞかし「涙と感動の」信仰のクライマックスなのであろう。

 けれどそういう劇場型信仰は、劇場だけに、いずれ幕引きの時がくる。その時とは、携挙の特定日だ。その日を過ぎても挙げられず、何も起こらないとしたら、彼らは何らかの判断をしなければならなくなる。

 ただ、ブログ主はその日付を公開していない(日付は特定していると本人は断言している)。かつ、最近の記事で、「3日遅れるとイエス様に語られた」とか書いていて、その特定日を変更したようだ。
 それを見て私が危惧したのは、以下のような話になることだ。
「今度は3週間遅れると語られた」
「次は3ヶ月遅れると語られた」
「そして3年遅れると語られた」
「・・・30年遅れると語られた」

 これは、前回までシリーズで書いた「霊的なことがわかる~」でも取り上げた、「何とでも言える」という状態だ。「霊的に語られた」を使えば、どんなことでも、自由自在に言える。「神は確かに携挙日を特定されたけれど、その憐れみによって思い直された。ハレルヤ!」
 もはや手が付けられない。

・「イエス様の喜び」を勝手に決めるな

 最近いただいたコメントで、「こんな記事を書くのはイエス様に喜ばれることですか」というのがあった。コメント者の意図がよくわからないので、返事はしていない。

「イエス様に喜ばれる」というのは、聖霊派クリスチャンが好むフレーズだ。「主に喜ばれる者に」という賛美もあって、子どもの集会などでよく歌われる。

「神様が喜ぶ・喜ばない」に関する聖書の言及は、へブル11章6節が有名だろう。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」
 つまり逆説的に言うと、信仰から出たことなら何であれ、神に喜ばれる、ということだ。厳密な定義は他にもいろいろあるかもしれないけれど、そこがキモだと思う。

 ある人の行動が信仰から出たことか、そうでないかは、誰に判定できるだろうか。できるのは2人。神様と、その人自身だけだ。それ以外の第三者にはできない。なぜなら今まで書いてきたように、人は信仰的に振る舞うこともできるし、誤魔化すこともできる訳で、信仰はその外面からは判断できないからだ。
 たとえば、礼拝にいつも時間通り出席して、一生懸命賛美して、献金して、熱心にメッセージを聞いている人が、内心「早く終わってくれ」とずっと思っているかもしれない。あるいは礼拝にはいつも遅れるような人が、実はものすごく切実な思いで、精一杯の信仰をもって、ある行動を密にしているかもしれない。
 つまり、神様が喜ぶか喜ばないかは神様ご自身が決めることであって、関係ない他人が決めることではない
 またその主張は、突き詰めると、信仰の強要とか虐待とかにつながるので、個人的にはやめてほしいと思う。

・問題があるなら祈れ・・・と言っても、祈っている場合じゃないことがある

「問題があるなら、批判しないでその人の為に祈るべきでしょう」という主張がある。
 こういう意見ができるのは、「信仰的虐待」について知らない平和な世界にいるからだと思われる。
「信仰」の名の下、礼拝や奉仕や献金を強要され、挙句に財産を取り上げられ、暴力を振るわれ、重大なトラウマを受ける、ということが現にキリスト教会で起こっている。とても書けないような惨事もある。そういうのを目の当たりにして、「祈るべきだ」は全く現実的でない。もちろん祈りを否定する訳ではない。けれど、優先順位がある。

 たとえるなら、目の前で子どもが道路に飛び出し、そこへ車が猛スピードで走ってくる時、どうするかだ。その場で跪いて祈るだろうか。あるいは駆け出して子どもを助けるだろうか。
 はっきり言うけれど、前者はクリスチャンではない。人間とも呼びたくない。

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